グロウアップ2+1

ふじみひろ

-1-

「ンなぁぁ~、なあああぉ。なあぁぁ~」

「うるさいよ、コーディ」

 エビネ・カゲキヨ准尉は、足元にまとわりついて鳴き声を上げる猫に言った。

「あと少しでこれが終わるから。そしたら、おやつにしよう」

 気遣いを感じさせる言葉だが、声の調子はなおざりだった。なにしろ意識は眼前のモニタだ。口から洩れる言葉に気を配る余裕などない。

 というのも、今日はいつになく仕事が多かったからだ。

 先任たちは「別に急がない」と言ってくれた。しかし早く処理しておけば、それだけ彼らの負担も少なくて済む。だから勤務時間内に終わらせようと、エビネは頑張っていた。

 部長以下一五人の広報部員は、最新任のエビネを一人残してみな出払っている。〈森の精〉ヴァルトガイスト航空隊のイメージアップのために、基地の内外を問わず奔走しているのだ。

 上層部や他部隊に対する〈森の精〉ヴァルトガイストの印象は、隊員や〈小悪魔グレムリン〉たちがひっきりなしに起こす問題によって、悪化する一方であった。

 〈森の精〉ヴァルトガイスト航空隊は、新型戦闘機の開発という〈機構軍〉の次期戦略に関わる任務を与えられている。〈森の精〉ヴァルトガイストの働き如何が、きたるべき戦いの流れを左右しかねないとなれば、それなりに重要視されてしかるべきである。

 だが軍という巨大な組織ともなると、「現在」における組織の在り方のみに気をとられてしまう者が出てくるものだ。そういった「組織の秩序」を過剰に重んじる一部の上層部にとって、問題隊員を多く抱える〈森の精〉ヴァルトガイストは、ただの厄介者集団でしかなかった。

 厄介払いの機会を虎視眈々と狙っている連中がいる以上、ちょっとしたことが部隊の存続に影を落とすことになる――それを未然に防ぐために、〈森の精〉ヴァルトガイスト広報部は各方面に働きかけ、部隊の信用維持に努めているのである。

 しかしそれは、相当な精神的負担を広報士官たちに強いることになる。ゆえに体調を崩す者も少なくなかった。

 特に技術指導のため艦隊へ派遣される飛行隊〈星組〉に随伴した部員は、毎日のように艦隊の乗組員と悶着を起こすパイロットや整備員たちに振り回され、任期を終える頃には身も心もボロボロになっているのが常だった。当然〈森の精〉ヴァルトガイストに戻ってきても、そのままでは使いものにならず、軍医の「要長期休養」の診断とともに戦列離脱を余儀なくされる。

 ところが代わりの者を入れようにも、「休養」は欠員とみなされないため人員補充もままならないときた。

 結局、残った隊員たちがその負担を背負い、さらに脱落者を増やすことになる。

 〈森の精〉ヴァルトガイスト広報部は、まさに悪循環の見本であった。

 だがその悪循環も、エビネという新風によって、わずかずつではあるが快方に向かいはじめている。新入部員が仕事を覚えるにつれ、雑務に忙殺されて思うように活動できなかった広報部員たちは、ようやく自分に与えられた仕事に専念できるようになったのだ。

 とはいえ、それでもまだ彼らの負担は大きいらしく、エビネが帰る頃になってやっとその日の報告書を作成しはじめる者も少なくない。

 そんな先任たちを見て、エビネは力の及ぶ限り彼らの手伝いをしたいと思った。

 もちろん自分はまだまだひよっこだ。だがひよっこなりに、先任たちを失望させないよう精一杯努力する。その第一歩として、その日与えられた仕事は先任たちが戻るまでに片づけておく。

 これが広報部員の一員として目覚めた、エビネの決意だ。

 しかし彼の決意など、猫であるコーデリア嬢にはどうでもいいことだった。

「なー」

 エビネの関心が己にないと知って、彼女は不満げな声を上げて机の下から這い出した。素早い身のこなしで新米広報士官のデスクに飛び乗ると、入力デバイスに向けたエビネの両腕にしなやかなその身を横たえる。

「だぁっ!? ちょっと、勘弁してよー」

 手の動きを封じられ、今度はエビネが泣き声を上げた。こちらの事情などお構いなしの振る舞いに腹が立ったが、猫好きの彼には乱暴に払い退けることはできない。

 これ以上作業を続けるのは困難だと思い知らされた彼は、がっくり肩を落として懇願した。

「わかった。俺が悪かった。だから、退いてください」

「なー!」

 エビネの言葉が理解わかったのか、コーデリア嬢は嬉しそうな声をあげると、新米士官の戒めを解いた。エビネの両腕の間に行儀よく座り、勝ち誇った表情で彼を見上げる。

「このわがまま娘め!」

 エビネは苦笑まじりに悪態をいて立ち上がると、部屋の奥、広報部長の個室前に置かれたワゴンへと歩み寄った。そこで自分のために茶を煎れ、コーデリア嬢お気に入りの煮干が入った缶を手に取る。と、そこへ――。

「じゅーんいっ!」

 もうすっかり聞き慣れた少年たちの声が、広報部室に響き渡った。〈森の精〉ヴァルトガイストの小悪魔――〈グレムリン〉たちだ。

「ああぁ――!」

 エビネは天を仰いだ。内なる自分が「残業確定」と囁く。少年たちがすぐに解放してくれれば、残った仕事を仕上げることはできるだろう。だがこれまで、そうなったことは皆無に等しい。

 人間、諦めが肝心。どう抗おうとも、〈グレムリン〉の前には無駄な努力なのだ。

「先任たち、ごめんなさい……」

 幾度となく抵抗を試み、そのたびに玉砕したエビネは、この場にいない先任たちに詫びる。そして何事もなかったような表情で、声のした方を振り返った。

 部屋の前方にある戸口から、二人の少年が顔を覗かせている。

「お帰り」

「ただいま!」

 エビネが声をかけると、少年たちも挨拶を返す。しかし彼らは戸口から顔だけを出したまま、部屋へ入ってこようとしない。いつもなら入口近くにある新米士官のデスクに、すぐさま駆け寄ってくるはずなのに。

「あれ? 何で入んないの?」

 二人のいつもと違う行動に、エビネは怪訝な顔をした。内心密かに気を引き締める。なにしろ相手は〈グレムリン〉だ。また何か悪さしようと企んでいるのかもしれない。

 しかしエビネの警戒は杞憂に終わった。

「えへへ」

「じゃーん!」

 一瞬照れたようにはにかんだ少年たちは、嬉しそうな掛け声とともに扉の陰から踊り出た。直後エビネの目に、カリストの空を想起させる色が飛び込む。

「わあ、それ幼年学校の制服!?」

 歓声を上げた新米広報部員が訊ねると、少年たちは破願して肯いた。

「さっき届いたんだ」

 〈グレムリン〉の一人、ヴァルトラント・ヴィンツブラウトが付け加える。そしてさらに、自分の褪せたセピアの髪を軽くかきあげながら自慢する。

「実はさり気に、アリシア・オーツお手製だったりしてー。彼女が入学祝に仕立ててくれたんだ」

「すごーいっ!」

 少年たちの身を包んでいるコバルトブルーの制服が、木星圏ではそれなりに名の通ったファッションデザイナーの手製と聞き、エビネは目を丸くした。

「触ってみてもいい?」

 少年たちのそばまで移動したエビネは、遠慮がちに訊ねた。

「いいよ」

 肯いてヴァルトラントが伸ばした腕に、そっと触れてみる。滑るような感触が心地よい。ただの支給品である自分の制服とは大違いだ。

「うわっ、この手触り! いいなぁ」

「そお? 別に生地とかは普通だよ。制服だもん。〈アリシア・オーツ〉のタグが付いてるっていうだけ」

「そういやミス・オーツは、〈機構軍〉の制服関係のライセンス持ってたっけ――」

 パーティに出席する基地司令官のお供をした折にアリシア本人と出会っているエビネは、その時の会話を思い出して呟いた。そんな彼の曖昧な記憶に基づく言葉を、ヴァルトラントは否定しなかった。

「うん、そーだよ。エウロパの高級士官の間では、密かな人気なんだって。〈森の精〉ヴァルトガイストで彼女に仕立ててもらってるのは、基地司令官父ちゃん基地副司令官アダル広報部長マックスぐらいだけどね――って、そうだ! 准尉も仕立ててもらえば? 今度少尉に昇進するんでしょ。そろそろ用意しなきゃ、尉官用の制服」

「昇進ねぇ……」

 「昇進」という言葉に、エビネは複雑な顔をした。その顔に、ヴァルトラントは眉を顰めて抗議する。

「なに、まだ気にしてるの? マックスも父ちゃんも、隊員の実力に見合わない評価はしないよ」

「それは理解わかってるよ。なんていうか、俺の心の準備の問題……かなぁ。なんせ、いきなりだったから」

 エビネは一〇歳年下の少年たちに、己の不安を洩らす。

 〈機構軍〉では士官学校を卒業しても、すぐに少尉に任官できるわけではない。幼年学校組は半年、一般組は一年の見習期間を経た後に、正式な〈機構軍〉の幹部の一員となれるのである。

 そして一般組だったエビネは、このたび卒業後半年という幼年学校組並みの早さで少尉昇進の内示を手にした。もちろん、自分の将来性を見込まれてのことだと信じている。

 だが、彼が〈森の精〉ヴァルトガイストに赴任することになった経緯と、それに対する基地司令官ウィルドレイク・ヴィンツブラウト大佐、およびカリスト司令本部副司令ハフナー中将の配慮が、昇進を早めた大きな要因となっているのは間違いないだろう。その点が引っかかり、エビネは自分の昇進を手放しで喜ぶことができなかったのだ。

「なに気弱なこと言ってんの。『軍人たるもの、いかなる事態に対応できるよう、常に心しておくべし』なんでしょっ」

 もう一匹の〈グレムリン〉ミルフィーユ・ディスクリートが、エビネの出身校であるタイタン士官学校の訓辞を用いて叱咤する。見事な金髪の巻き毛ばかりか、大きな目までくりくりさせて。

「う……その通りであります、教官どのっ」

 やり込められたエビネは、直立不動の姿勢になって答えた。

「うむ、理解わかればよろしい」

 芝居がかった口調で、小さな鬼教官が赦す。

「……」

「……」

「……プッ」

 一瞬後、若い士官と〈グレムリン〉たちは、堪えていた笑いを爆発させた。突然の大音声に、コーデリア嬢が驚いて机の下に飛び込む。それにも気づかず、三人はひとしきり笑い転げた。

「――で、制服どうする?」

 数分後、何とか息を整えたヴァルトラントが、引き攣る腹を押さえつつ話題を戻した。

「准尉とはもう顔見知りだから、アリシアも特別割引してくれるよ。本当なら、准尉のお給料二ヶ月分はするんだけど――」

「二か月ぶ――んんん!?」

 エビネの素っ頓狂な声が、少年の言葉を遮った。

「いや、俺は基地の出入り業者さんのでイイですっ」

 少年の無邪気な提案を、即座に辞退する。

 准尉とは「尉官に准ずる下士官」である。食費はわずかに負担しなければならなかったが、衣と住は普通の下士官たちと同様保証されている。だが尉官ともなると、全てを自分の給料で賄わなければならない。

 もちろん尉官になったとしても、家賃の安い官舎を借りることが可能だ。また高級士官用の食堂も、リーズナブルな値段でれっきとした料理人シェフの作ったものが味わえる。そして制服は基地の出入り業者に頼めば破格値だ――とはいえ、スズメの涙ばかりの手当てでは、充分賄いきれるとは言いがたい。給料二ヶ月分もする制服など頼んだ日には、三ヵ月後の給料日まで水だけで凌がねばならないだろう。

 しかし「金がないからオーダーできない」というのは、少ししみったれているような気がしないでもない。

 そう思った時には、もっともらしい理屈がエビネの口から飛び出していた。

「それにルビン中佐はともかく、先任たちでさえも着てないのに、ぺーぺー尉官が特注の制服なんか着てたりしたら、やらしいじゃないか。それに君たちもさ、特注の制服なんか着てるのバレたら――教官に叱られたり、他の生徒たちから反感買ったりするんじゃないの?」

 マイナス思考の余韻にやっかみも手伝ってか、エビネは少年たちについ意地悪を言ってしまった。直後、大人気ない自分に内心顔をしかめる。ところが〈グレムリン〉たちは傷つくどころか、平然とした顔で言い返した。

「大丈夫。別に見た目が同じならイイんであって、タグの違いまでとやかく言われることはないって。それに現在いま幼年学校三年のミハエルが言ってたけど、ほとんどの生徒が特注の制服着てるんだって。それこそ〈アリシア・オーツ〉どころじゃなく、〈ヘリオス〉とか〈ドルチェ〉とか、よくこのデザイナーが引き受けたなーっていうのがごろごろ」

「マジですか……」

 初めて知る幼年学校の制服事情に、エビネは驚きの声を上げた。

 「統率された軍隊」であることを好む土星の士官学校で、エビネは「軍人とは質実剛健であるべきだ」と学んだ。なのにその精神を学ぶはずの幼年学校で、見た目は変わらないとはいえ、そのような贅沢が許されているとは思いもよらなかった。

 だがハフナー中将の孫であるミハエルがそう言うのなら、事実なのだろう。の少年には、エビネも一度会ったことがある。一三才にしてはしっかりした、生真面目な少年だった。弟のように可愛がっているヴァルトラントに、いい加減なことは言わないはずだ。

 それでも俄かに信じ難く、エビネはしきりと首を振った。

 そんな彼の反応を横目で見たヴァルトラントが、自嘲めいた笑みを浮かべて肩をすくめる。その隣で、ミルフィーユがふいに小難しい顔になって呟いた。

「でもそこまでいくと、もう親の見栄だけって気がするね。子供を使って、自分の権威を見せつけてるっていうのかな」

「ああ、かもね」

 相棒の言葉を、ヴァルトラントは肯定した。そして、思い出したように言葉を継ぐ。

「それに親だけじゃないよな。ほら、『俺の親父は、なんとか長官の秘書なんだぞー』とか言って、やたら態度デカかったのが体験入学んときいたじゃん」

「いたいたー。危うくヴァルと喧嘩になりかけたヤツ!」

 少年たちは顔を見合わせると、肩をすくめて苦笑した。

 幼年学校の教育は、〈機構〉を支えるエリートを育てるのが目的とされる。そのため軍人だけに限らず、各界における有力者の子息たちも入学してくる。その入学資格は金や権力で得られるものではなく、厳しい資格審査や試験、面接に合格できた者のみに与えられるものだ。つまり幼年学校の入学資格を手にできるような子供は、「無能ではない」と言える。

 だが「無能ではない」ことは、必ずしも「有能である」ということではない。己の力量をわきまえている者こそ、有能といえるだろう。それを勘違いして、「自分は――あるいは我が子は〈選ばれた存在〉なのだ」と思ってしまう親子がどこにでもいるのは珍しくない。

「そういうのは相手にしない方がいいよ。絡みだすとしつこいから」

 エビネは自分の士官学校時代を思い出して忠告した。だが少年たちは相変わらず楽観的だ。

理解わかってるって。心配ご無用。それに、絡まれても絡まれっぱなしになるつもりはないから。准尉んちの家訓にもあるじゃん、『やられたら、倍にしてやり返せ』って」

「君たちは従わんでよろしい!」

 エビネは本気で少年たちが心配になった。全く、この調子では、入学早々騒動の種を撒き散らしかねない。さっきは何気なく聞き流してしまったが、すでに何やらやらかしているらしいとくればなおさらだ。

 だが当人たちは、エビネの心配などどこ吹く風。さり気に話題をすりかえる。

「大丈夫、だいじょーぶ。それより、写真撮るの手伝ってよ」

「みんなの写真持っていきたいの」

 相手の腕をとってわずかに甘えた声音でお願いする仕種は、〈グレムリン〉の必殺技だ。〈森の精〉ヴァルトガイストでこの「お願い攻撃」に耐えられる者はそう多くない。主だったところで、経理部長のブライアー中佐と、基地司令官の主席副官であるホルヴァース先任曹長ぐらいか。他に〈グレムリン〉の所業を快く思っていない者に、総務部長代理のロメス少佐と総務主任バーバラ大尉がいるが、少年たちは彼らの弱みをしっかりと握っているため、御すのはそう難しくないという。

 とにかく〈森の精〉ヴァルトガイストの隊員のほとんどが、〈グレムリン〉の悪戯に振り回されつつもそれを密かに楽しみ、少年たちを憎めずにいるのだ。そして〈グレムリン〉との付き合いはまだ半年というエビネも、すでにそんな隊員の一人となっていた。

「写真? いいよ」

 少年たちの依頼を快諾した新米士官は、カメラと三脚を持ち出そうと備品棚へ向かった。途中ふと思いついて、少年たちを振り返る。

「そーだ。撮った写真を、基地イントラの広報部サイトに上げとこうか。そうすれば、基地のみんなも見れるもんね」

「わーい、いい考えグートイーディー!」

 〈グレムリン〉たちが、諸手を挙げて賛成する。

「よし、〈森の精〉ヴァルトガイスト一周撮影の旅へ出発!」

「しゅっぱーつ!」

 誇らしげな顔で制服に身を包んでいる少年たちと、その姿を記録に残そうと張り切っている即席カメラマンは、意気揚々と広報部室を後にした。

 部屋にはコーデリア嬢一匹が残されたが、彼女の存在をエビネが思い出したのは数時間後のことであった。


 そしてそのコーデリア嬢――。

 エビネの机の下で身を潜めていた彼女は、三人の楽しげな声が遠ざかり、部屋に平穏が戻ったと確信できると、ようやくそこから這い出した。それでも警戒を解くことはなく、異変があればすぐ対処できるよう慎重に動く。

『あのちっちゃいのは、どこから出てくるか判らないもの。油断してると、また酷い目に遭わされちゃう』

 そろそろと入口近くまでやって来た彼女は、扉の一メートルほど手前で腰を下ろすと、エビネの消えたドアを蒼い瞳で見上げた。

「なぁー」

 彼女の小さな口から、心細げな声が洩れる。

「なー。なぅー」

 エビネが戻ってくるかと期待して、彼女はしばらく声を上げ続けた。だが扉の向こうに人の立つ気配は全くない。

『何よ、もうっ。ちっちゃいのが来た途端、私のコトすっかり忘れて! おやつどーなったのよっ』

 俄かに憤然となった彼女は、ドアのすぐそばまで歩み寄った。後ろ足で立ち上がると、身体を目一杯伸ばして扉に寄りかかる。それでも小さな彼女が開閉用のタッチパネルに触れることはできなかった。たとえ届いたとしても、彼女のぷにぷにの肉球が認証されるはずもないのだが。

『なんで開かないのよっ』

 腹立ち紛れに扉を引っ掻いてみる。だが硬い樹脂でコーティングされた扉は、傷ひとつつく様子もない。

 やがて爪を立てるのに疲れたコーデリアは、ふて腐れてその場に伏せた。

『だから、あのちっちゃいのは嫌いよ!』

 脈略もなく逆ギレする。

 彼女は〈グレムリン〉たちが好きではなかった。幼い頃に彼らから受けた仕打ちのせいだ。

 それは彼女が、拾われたばかりのいたいけな仔猫の時だった。少年たちは、彼女が時間をかけて丁寧に繕った毛並みを無遠慮な手で乱したばかりか、奇声を上げて追い掛け回したのだ。そのときの恐怖が、彼女の繊細な心に大きな傷をつけたのである。

 そのとき飼い主のルビン中佐マックスパパにこっぴどく叱られたのが効いたのか、その後〈グレムリン〉たちが広報部に姿を見せることは滅多になかった。

『なのに最近になって、何でしょっちゅう来るようになったのよっ?』

 コーデリアは自問するが、答えはもう判っている。連中のお目当ては、新しく入った士官――エビネ准尉だ。それがまた、彼女の気に障る。

 エビネは彼女のお気に入りだ。故郷でも彼女の「仲間」の世話をしていたという彼は、すぐに彼女の気持ちを理解わかってくれるようになった。お腹が空いたときは素早く食事を用意し、彼女を苛立たせることはない。膝の上で眠っても文句一つ言わず、目覚めるまで立ち上がったりすることもない。どこを撫でると気持ちいいのかも心得ており、いつも彼女を満足させてくれる。

 なのにエビネは、〈グレムリン〉がやってくると自分の仕事を忘れてしまうのである。マックスパパのいいつけどおり、いついかなるときも全身全霊を込めて彼女に奉仕しなければならないというのに。

『もう知らないっ。帰ってきて謝っても、指一本触れさせてやるもんですかっ』

 コーデリアは自分には決して開けることのできない扉を睨みつけながら、エビネを罰してやろうと心に誓った。

 まあ、激しやすいが非常に気まぐれな彼女のこと、「誓い」など一〇分もすれば他のことに気をとられて忘れてしまうのだが。

 そして案の定。

『それはそうと――この動く壁の向こうって、どうなってるのかしら?』

 一〇分どころか数分もしないうちに、目の前にそびえる巨大な扉の向こうのことが気になりはじめた。

 もちろん毎日ルビン中佐の自宅とこの部屋を往復しているので、扉の向こうにも世界があることは知っている。しかし彼女の見る景色は、いつも籠の隙間から見えるものだけだった。

『気になるわ……とっても、気になる』

 本能とも言うべき好奇心が疼く。

『見たいわ……向こう側を、見たいわ!』

 彼女がそう思った瞬間、目の前にぽっかりと穴が開いた。と、同時にけたたましい声が、部屋に響く。

「エビネ准尉! 物品請求書の入力が間違っていますよ!」

 総務部のお局さま――クリスティン・バーバラ大尉だ。准尉の姿を求めて部屋を見回している大尉は、足元に伏せていたコーデリアには気づいていない。

『もしかしてこれは――チャンス?』

 突然降って湧いた機会に、コーデリアは目を光らせた。

 次の瞬間、ためらう間もなく身体が動いていた。自分でも驚くほどの素早さで、ひらけた空間に飛び込んだ。

「きゃあああっ!?」

 足元をすり抜けていった黒い影に、大尉が悲鳴を上げる。

「なに? 何なの、いまのはっ!?」

 大尉の怯えた声が、廊下の角を曲がりきったコーデリアの頭上を通り過ぎていった。

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