月の明かりの下で

 すでに日は暮れていたが、まだ酒場や食堂がやっているこの時刻はそこそこ人通りもある。家路を急ぐ職人風の男、ほろ酔い気分の若い男たち、その男たちに声を掛ける女。

 雑多な人々の中を、フェリシアは、少し早足で歩いていた。


 あまりに唐突だった。それは十分自覚がある。

 でも、急に居たたまれなくなってしまったのだ。


 あのパーティーは、楽しかった。目的がある訳でもなく、ターゲットもいない。純粋に、みんなで食べて飲んで笑う。

 だからこそ、フェリシアは大きな違和感を感じた。


 戦いが終わった夜、マークが言ってくれた。


「幸せになるかなんて、自分で決めちゃっていいんです。フェリシアさん、あなたは自由なんですから」


 あの時は、新しい世界が開けたように感じた。


 自分は自由なんだ

 自分は幸せになれるかもしれないんだ


 そう思ったら、何だか心が満たされて、嬉しくなった。

 だから、今日の打ち上げに誘われた時も喜んで参加しようと思った。


 それなのに。


 フェリシアは歩く。歩きながら、背後の人物の動きに注意を払っていた。

 フェリシアは、起きた瞬間から眠るまで、常時索敵魔法を発動させている。体に刻み込まれた習慣だ。

 町の中で索敵魔法を使うことは、初心者にとって苦痛以外の何物でもない。もの凄い数の魔力反応で気が狂いそうになる。

 だがフェリシアは、その大量の反応の中から、自分に急激に近付くものや一定の距離でついてくるもの、大きな魔力を持つものを見分け、都度対応していく。


 今後ろにいるのは、間違いなくエム商会の誰かだ。事務所から、ずっと一定の距離を保ってついてきている。


 どうしよう……


 迷いながら、それでも止まることなく、フェリシアは町の南にある川まで歩いた。


 土手の上で立ち止まって、川面を見つめる。

 町の灯りを反射して、水面がキラキラと輝いていた。


 背後の人物は、フェリシアに合わせて一度立ち止まったようだが、やがてゆっくりと近付いてきて、フェリシアの隣に立った。

 背は、自分の肩くらい。

 高く昇り始めた月の明かりの下で見るその少女は、儚げで神秘的な美しさを放っていた。


「シンシア」


 名を呼ばれて、少女がフェリシアを見上げた。

 透き通ったブルーの瞳をフェリシアに向けて、シンシアが微笑む。

 そして、ゆっくりと川面に目を向けた。


 二人は黙って前を見る。

 何も言わずに、ただ川面を見つめ続ける。


 やがて、フェリシアが静かに話し出した。


「私ね、今まで楽しいと思ったことって、あんまりなかったの。だからね、笑ったことも、あんまりなかった」


 シンシアが、フェリシアを見る。


「でもね、エム商会のみんなといると、楽しいの。素直に笑えるのよ。だけど、それがね、すごく居心地悪いの。変でしょう? 楽しいのに、とても落ち着かないの」


 フェリシアが、シンシアを見つめ返す。

 

「何でかしらね」


 真剣に自分を見上げる瞳にそう言って、フェリシアはまた前を向いた。


 フェリシアにも分かっていた。そんなことを聞いたって、シンシアを困らせるだけだ。

 そもそも、シンシアはうまく喋れない。答えたくてもそれ自体ができないだろう。

 そう思いながら、それでもフェリシアは話を続ける。


「魔物の討伐が終わった後ね、社長さんに、あなたは自由なんだって言ってもらったの。幸せになるかどうかなんて、自分で決めればいいって言ってくれた。その時ね、凄く嬉しかった。嬉しくて、何だか泣きそうになっちゃった」


 フェリシアの言葉は続く。


「私ね、今までずっと、必要な時にしか泣けなかったの。感情じゃなくて、理性で泣くっていう感じ。その時涙は出なかったけれど、私でも、本物の涙が流せるかもしれないって思った。本当に泣いたり本当に笑ったり、そんな当たり前のことが、私にもできるかもしれないって思った」


 無防備な心で話し続ける。


「それなのに、私、あのパーティーにいることがつらかった。ここは私のいる場所じゃないって感じたの」


 風が吹いた。


「何でかしらね」


 フェリシアの瞳が揺れた。


 八才で商人に引き取られ、十二才で貴族のものになり、十六才で魔術師の弟子となった。そのすべての生活において、フェリシアは、自分の気持ちを誰かに言ったことなどほとんどない。フェリシア自身の気持ちなど、フェリシアの主たちにとって何の意味もなかった。


 だけど、心の奥底にそれはあった。もやもやしていて、色も形も分からなくて、だけど、ずっとそこにそれはあった。

 それが今、フェリシアの中から溢れ出そうとしている。

 それが今、フェリシアの心を不安定にさせていた。


 どうしてこんな話をしているんだろう?


 シンシアは喋れない。たとえ喋れたとしても、納得できるような答えを、シンシアのような少女が言ってくれるとは思えない。


 私は、どうしてこんな話をしているんだろう?


 社長さんだったら、答えてくれるのかもしれない。

 でも、シンシアに言ったってどうしようもない。


 フェリシアは考える。


 私の行動は、理に適っていない。


 フェリシアは、考える。


 私の行動には、意味がない。


 フェリシアは、考えて、そして思った。


 そうだ。シンシアにこんな話をする意味は、どこにもないのだ。


 そう思った途端、フェリシアの心が落ち着きを取り戻していく。

 同時に、それまで黙っていたフェリシアの理性が冷静にささやいた。


 誰に話をしたって、答えなんか返ってこないさ。

 この子も、あの社長も、お前とは別の世界に住む人間なんだから。


 聞き慣れた声が語り掛けてくる。


 社長の話にお前が惹かれたのは、たまたま違う世界の話を聞いて、ちょっと新鮮に感じただけなんだよ。


 その声が、フェリシアの心を支配していく。


 この連中といると落ち着かないんだろう? そんなの当然さ。

 泣くのも笑うのも、すべては目的のため。泣くには理由が必要なんだ。笑うには、理由が必要なんだ。

 仮面をかぶり直せ。そうすれば、お前は悩まずに済む。


 幼い頃からフェリシアを支配してきた理性が、フェリシアに教えた。


 お前は、また元の世界に戻るべきなんだ。お前が最も落ち着ける世界、お前がお前らしく生きられる場所は、そこにあるのだから。


 フェリシアの顔から、表情が消えていった。


 そうだ、私はここにいてはいけない。

 何を血迷ったことをしていたのか。


 フェリシアの理性が心の扉を閉じていく。

 フェリシアの仮面がその顔を覆っていく。

 フェリシアの中から溢れ出していたものが、再び心の奥底に吸い込まれていった。


 その時。


 パフッ


 突然、何かが胸に飛び込んできた。


「!?」


 フェリシアの胸に、シンシアが顔を埋めている。

 背中に回したその両手が、フェリシアをギュッと強く抱き締めていた。


「シンシア?」


 シンシアが顔を上げた。

 その目が何かを訴えていた。


「んっ! んっ!」


 シンシアが何かを言おうとする。

 だが、やはりそれが声になることはない。


「何が言いたいの?」


 聞かれたシンシアが、体を離してフェリシアを見上げた。


「んっ! んっ!」


 声は出ない。

 それでも、シンシアは両手を握り締めて訴える。


「んっ! んっ!」


 顔を真っ赤にしながら、シンシアは何かを訴えようとしていた。

 自分の名前ですらシンシアは言うことができない。そのシンシアが、フェリシアに向かって何かを伝えようとしていた。


「んっ! んっ!」


 シンシアは止めない。


「んっ! んっ!」


 シンシアは諦めない。

 健気に努力を続けるその姿は、見ているほうが苦しくなる。見ているだけで、体に力が入ってしまう。


「もういいわ、分かったから……」


 仮面を通してさえも感じる痛々しさに、思わずフェリシアが言った。見ていられなくなって、フェリシアはシンシアの体を引き寄せようとする。

 それを、シンシアは手で払いのけた。驚くフェリシアの目の前で、悔しそうに唇を噛みながら、シンシアがポケットからメモ帳とペンを取り出した。


 シンシアがペンを走らせる。もどかしそうに何かを書いている。

 そして。


 ビリッ!


 紙を破ってフェリシアに渡した。

 フェリシアが、それを読む。


 私は、笑えなかった

 楽しいと、思えなかった


「そうなの?」


 フェリシアは、シンシアの過去をよく知らない。

 何が言いたいのか分からない。


 シンシアは書く。


 ビリッ!


 紙をフェリシアに押し付ける。


 でも、今は笑える

 楽しいことが、いっぱいある


「それは……良かったわね」


 フェリシアが戸惑う。

 シンシアが、激しく首を横に振る。


 ビリッ!


 笑えるのはいいこと


「……」


 ビリッ!


 笑えるのは、幸せ


「そうよね」


 笑えなかったシンシアと、笑うことを躊躇うフェリシア。

 似て非なる思いは、重ならない。


 次々と渡される紙を、フェリシアは見つめることしかできなかった。


「んっ! んっ!」


 シンシアが何かを言おうとする。


「んっ! んっ!」


 必死になって声を出そうとする。


「シンシア、もういいから」


 フェリシアが、また手を伸ばした。今度こそシンシアを抱き締めようと、一歩前に出る。

 その両手を掻い潜るように、シンシアが飛び込んで来た。だがシンシアは、フェリシアに抱き付くことなく、その胸をドンドンと叩き始める。


「んっ! んっ!」


 叩きながら、シンシアは訴える。


「んっ! んっ!」


 叩きながら、シンシアが叫ぶ。

 痛みなど大してなかった。耐えられないほどの衝撃でもなかった。

 だが。


「いい加減にして」


 フェリシアが言った。


「もうやめて!」


 フェリシアが声を上げた。

 握っていた紙を投げ捨てて、シンシアの両腕を掴む。それでも動き続けるその両腕を、力ずくで押さえ込む。


 何なのこの子は!


 フェリシアはイライラしていた。

 無性に腹が立った。


 何が言いたいのか分からない。

 何がしたいのかまったく分からない。

 ただただ思いをぶつけてくるだけのシンシアに、フェリシアの感情が反応する。強力な理性を押しのけて、計算ずくでも演技でもない、フェリシアの純粋な感情が沸き上がってきた。


 喋れないくせに


 シンシアは抵抗を続ける。


 何も答えられないくせに


 フェリシアが、暴れる両腕を握り続ける。


「分からないのよ!」


 フェリシアが大きな声を上げた。


「あなたのことが、まるで分からないの!」


 怒鳴るようにフェリシアが言った。

 シンシアの動きが、止まった。


 シンシアの荒い呼吸が聞こえる。

 フェリシアの乱れた呼吸が聞こえた。


 ふと。


「フェリシア、言ってる」

「えっ?」


 フェリシアが驚いた。

 突然聞こえた、シンシアの声。


「痛いって、言ってる」

「何言ってるの? 私そんなこと……」


 フェリシアは否定した。

 

「助けてって、言ってる」

「だからそんなこと……」


 シンシアが強く首を横に振った。


「我慢、しないで」

「……」

「痛いの、我慢、しないで」

「だから、シンシア」


 ブルーの瞳が必死に自分を見上げていた。フェリシアは、どうしていいのか分からなかった。


 痛みに苦しむシンシアと、痛みに気付いていないフェリシア。

 似て非なる思いは、重ならない。


 それでも。


「フェリシア、泣いてる」

「私が、泣いてる?」


 フェリシアの理性には理解できない。

 しかし、フェリシアの中の何かは反応した。


「フェリシア、ずっと、泣いてる」

「もうやめて」


 フェリシアの理性は拒絶した。

 しかし、フェリシアの中の何かは求めていた。


「一緒にいる」


 シンシアが言った。


「泣きやむまで、一緒にいる」


 フェリシアの中の、何かが揺らぐ。


「笑えるまで、フェリシアといる」


 シンシアの瞳に涙があふれた。

 フェリシアの中の、何かが動き出した。


「フェリシア」


 シンシアが呼んだ。


「フェリシア!」


 シンシアが叫んだ。

 そしてシンシアは、飛び込んだ。


「うわああん、うわあああん……」


 フェリシアの腕を振りほどき、フェリシアの胸に顔を埋めてシンシアは泣く。


「フェリシア! うわあああん……」


 フェリシアの名を呼びながら、子供のように泣いている。

 シンシアに抱き締められて、フェリシアは動けずにいた。地面に散らばる白い紙を見つめながら、フェリシアは立ち尽くしていた。

 やがて。


「意味が、分からないのよ」


 小さな声がした。


「なんでそんなに一生懸命なのよ」


 震える声がした。


「なんでそんなに……」


 本当に意味が分からなかった。

 シンシアの言葉も、その行動も、涙の意味も、フェリシアには全然理解できなかった。


 だけど……


 心の奥底に、それはあった。もやもやしていて、色も形も分からなくて、だけどずっとそこに、それはあった。

 

 どうして……


 ずっと前からフェリシアの中にあったもの。

 ずっとずっと昔から、我慢して、ごまかして、それでも消えなかったもの。


 私、今そんなつもりなんてないのに……


 それが、フェリシアの瞳から溢れ出す。


 どうして私、泣いてるの?


「フェリシア」


 シンシアが呼んだ。


「フェリシア!」


 シンシアが叫んだ。


 その叫びが、フェリシアの扉を開いていく。

 その涙が、フェリシアの仮面を剥がしていく。


 フェリシアが、シンシアを抱き締めた。


「シンシア」


 フェリシアが呼んだ。


「シンシア!」


 フェリシアが叫んだ。


 互いの名を呼び、抱き合いながら、二人は泣き続ける。

 一つに重なる二人の頬は、月の明かりに照らされて、煌めく川面のようにキラキラと輝いていた。

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