後悔
マークが、ドスッという音を立てて、テーブルに何かを突き立てる。
それは、鈍い銀色の光を放つナイフだった。
「ひぃっ!」
女将が引きつったような声を上げる。
ドスの利いた声で、マークが言った。
「今回は簡単な仕事のはずだったんだよ。てめぇらに謝礼を渡してあの子を引き取る段取りをつける。借金の額をあの方に伝える。あの方が用意した金と引き換えにあの子を引き取る。これだけだ。たったこれだけだったんだよ。それがどうだ!」
ダンッ!
マークが激しくテーブルを叩く。
衝撃で金貨の山が崩れた。
「借金なんて嘘でした。あの夫婦があの子をこき使うためのでっち上げでしたって言えばいいのか!?」
その通りです。
主人が心の中で答える。
「そんなんじゃあ、あの方があの子に貸しを作れないんだよ!」
貸しを作る?
「借金を肩代わりしてくれた優しい人。そういう引け目をあの子に負わせられるからこそ、あの方の言うことをあの子は何でも聞くようになるんだ。あの子の性格を利用して、あの子の弱みに付け込めるからこそ、あの方の性癖が表沙汰になることがないんだよ!」
何という狡賢さ。
自分たちのことを棚に上げて、主人はぞっとした。
「そのシナリオが描けたからこそ、俺は今日ここに来たんだ。だから俺は、この仕事を引き受けたんだよ!」
ダンッ!
マークがもう一度テーブルを叩く。
「あの方は、今日、俺の報告を待ってんだ。”うまく行きました”っていう報告をな! それができないってのはどういうことか、てめぇらに分かるか?」
マークの目は血走っている。
「俺の信頼が地に落ちるってことだ! それだけじゃねぇ。あの方の機嫌が悪けりゃあ、俺は殺されるかもしれねぇ」
殺される!?
そんな!
女将の顔は真っ青だ。
簡単に人を殺してしまうかもしれない相手。そんな相手の機嫌を損ねたら……。
マークが睨んでいる。
もの凄い形相で睨み付けている。
その目が突然、怪しく光った。
「だが、一つだけ、この話をまとめるうまい方法がある」
気味の悪い笑みを浮かべてマークが言った。
「お前らでもちゃんと役に立てる、いい方法がな」
自分たちが役に立つ?
何だそれは?
「あの子に、もう一度一人っきりになってもらうのさ」
そう言いながら、マークは、ゆっくりとテーブルに突き刺さっていたナイフを引き抜いた。
リリアが、もう一度一人っきりになる……。
それってまさか!
「そうさ。お前たちが死んじまえばいいんだよ。そうすれば、俺かあの方があの子を引き取ることができる。どっちが引き取ってもあの子に負い目を負わせられる。俺たちがてめえらの代わりにあの子を縛り付けることができるんだよ!」
そう言うと、マークはナイフを振り上げた。
「ひぇっ!」
二人が同時に悲鳴を上げる。長時間プレッシャーを受け続けた体は、もはや動くことすらできなかった。
ナイフから目をそらしたいのに、目を閉じることさえできずにガタガタと体を震わせる。
震えながら、主人は後悔していた。
リリアをイジメるためだけに、嘘の借金を背負わせようと妻が持ち掛けてきた。
それに、主人は頷いた。
弟に感じた敗北感と、背中合わせで持ち続けるリリアの母親への恋慕。その母親に似て、リリアは美しい娘に育った。
借金を負わせれば、リリアは簡単にここから出て行くことはできなくなる。いつまでもリリアを手元に置いておける。
そんな身勝手な思いがあった。
馬鹿だった。本当に馬鹿だった。
リリアの母親は死んだのだ。リリアは、リリアなのだ。
俺は、こんなくだらない未練のために死ぬのか!
俺の人生は、こんなにもつまらない結末を迎えるのか!
その隣では、恐怖の涙を流しながら、女将が後悔していた。
いつまでもリリアの母親のことを忘れられない夫のことが、気に入らなかった。リリアの母親に復讐したかった。
だから、リリアに嘘の借金を負わせた。
母親譲りの優しさに付け込んで、リリアをイジメ抜いた。
だが、リリアにどんなにつらく当たっても、心が晴れることはなかった。
自分で自分を制御できていないことなど分かっていた。
でも、それを誰も止めなかった。止めてくれなかった。
これは、リリアの復讐なのか?
リリアの母親の呪いなのか?
「助けて」
か細い声で、女将が訴える。
「もうリリアをイジメたりしません。だからお願い、助けて」
震えながら許しを請う。
「何でもしますから……お願いです、助けてください」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの汚い顔で、女将が訴え続ける。
それを、氷のような目でマークが見ていた。
「都合のいいこと言ってんじゃねぇよ」
マークが、ナイフを女将の鼻先に突き付ける。
「あの子の腕や足は、痣だらけだった。あの様子じゃあ、体中傷だらけなんじゃねぇのか? おまえら、よくあそこまでひでぇことができたもんだよなぁ」
冷たいナイフが頬に当たる。
女将の足元に、生暖かい液体が広がっていった。
「嘘の借金背負わせて、散々イジメておいて、自分たちだけは助かりたいって、そりゃあねぇだろう」
自分でも分かっていた。
これは天罰だ。当然の酬いだ。
「ごめんなさい」
女将が謝る。
「ごめんなさい」
涙と鼻水だらけの顔で謝る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
女将は、もはや正気を保っているようには見えなかった。
虚空を見つめながら、ただただ謝罪の言葉を繰り返す。
その隣で、主人は目を閉じ、頭を垂れ、頭の上で手を組んで祈っていた。
神様、助けてください!
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