第3話 突然の好意

 4月、よく晴れた清々すがすがしいある日の正午――。


 時折、爽やかな風が吹いた。

 ちりこは、汗だくになって自転車をこいでいた。

 ガーンとテンションがだだ下がりの打つ手がないほど落ち込んだ気分を払うかのように、力いっぱい自転車をこいだ。

 

 電動自転車でもない。

 リーズナブルな手入れの行き届いていないちりこの自転車。

 一生懸命どんなにこいでもあまりスピードが出なかった。


 それでも自転車に乗り顔を体をビュンビュン通る風が気持ちが良い。

 火照った顔を優しく撫でる風。

 爽快な気持ちになって、嬉しい。


 お店が並ぶ通りでランチのできる場所を求めて自転車で走っていると、一軒のログハウス調の喫茶店に目がとまる。


 ちりこは滅多に喫茶店には入らない。

 入りたいけど幼稚園の子供が二人もいるから、他のお客さんのことが気になってくつろげない。

 何より今はたまの外食もすごい贅沢ぜいたくなものになってしまった。


 その日は2件も面接を入れたりハローワークに行ったりして。

 でも面接は立て続けに駄目だった。

 その場で2件とも断られめちゃくちゃへこんだ。


 毎日毎日旦那への恨み事ばかり考えてる自分にちりこは心底嫌になり。

 このままじゃ良くないと思えた。

 久しぶりの喫茶店で気分転換をと思ったの。

 子どもたちにカリカリしているところを見せたくない。

 八つ当たりしたくない。


 500円ランチがあったのだ。

ヤッター と小躍りしそうになった。

(500円は嬉しい)


 まさかここで、彼に会うなんて。

 ちりこの人生はここからやっと良くなっていく。


 彼が、風を運ぶ。



「ここ相席してもいいですか?」


 突然話しかけられちりこが顔を上げると、信じられない人がいた。

 喫茶店のコーヒーの鼻腔びくうをくすぐる香ばしい良い香りがするなか、一瞬グレープフルーツのような香りがした。


「ああっはいっ」

「あの。空手教室に来られている花沢さんですよね?」

「はい花沢です。いつも子供達がお世話になってます」

 勝也先生がなんでこんなところにいるんだとちりこはびっくりした。

 

 ちりこは人見知りだし気のいた会話が出来ると思えずあせった。


 けれどそこからふたりは不思議なぐらい自然に会話が弾んで、ちりこは驚きを隠せない。


  気づけばもうすぐ幼稚園のお迎えの時間が迫ってきていた。


「じゃあすいません。幼稚園のお迎えがあるので。そろそろ帰ります」


 楽しかった。


「俺も帰ります」

 勝也先生はさっと伝票を取って、ちりこが払うと言ったのにちりこの分も払ってしまった。

 

 喫茶店の外に出てちりこは勝也の方を振り向いた。

「ごちそうさまでした。じゃあ失礼します」 帰りかけたその時。

「待って」

 ちりこは 勝也先生に腕を掴まれてそのまま抱きしめられた。

 ふわっと柑橘系の香水の香りがした。


 ドッキン、ドッキン。

 ちりこも勝也も胸の鼓動が高鳴る。早くなる。

 ちりこは何で勝也先生に抱きしめられたのか分からなかった。


 久しぶりに男の人に抱きしめられてなんだか安心するななどと思ってしまったのだ。

 

 旦那とはもう5年もキスどころか手をつないだりスキンシップなんてなくなっていった。


「あなたが泣いているのを見てしまってからずっと気になってました」

「えっ?」

「突然でびっくりさせてしまうかもですが、俺はあなたを好きになってしまったんです」

(ええー!)

 思わぬ勝也先生の告白にちりこはどこか嬉しくも戸惑っている。

 携帯電話のアラームが鳴った。

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