かの者の名は
女は俺の体や顔を値踏みするように眺めた。眺める価値もない男だ。何もないならば早く退散させてほしいものだが。
しかし、よく見ればこの女は整った顔をしている。男どもに言い寄られるのもわからんでもない気がする。
「よし。私の家、来て下さい」
それはなんの「よし」なのか。そして何が良くて俺を家に招く考えに至るのか。もはや怪奇とも言えるこの女の存在自体に、若干の恐怖すら抱き始めてきた。俺もノコノコついて行ったが最後、例の如く芋けんぴにされてしまいかねない。ここはひとつ、断る方向で────
「お礼をさせてください。ご飯作ってあげます。お腹空いてるでしょう?」
「天使か」
「
「あははじゃない」
「あなたのお名前は?」
正味、あまり人に気安く名前を教えたくはない。あー、道端でウンコ踏んだと同時に鳥のフン頭に落とされたあの人だよね。などなど、名前だけでおおよそ特定されかねない珍事に見舞われてきたのだ。
そして何より────
「
名前に、自分が負けてしまっていることが、この上なく腹立たしいのだ。
何が一番に創る、だ。凡夫の俺が何かで一番になったことなど人生単位でも二回程度しかない。小学校のクラス内ジャンケン大会と、中学校の部内トーナメント程度だ。生み出すものといえば、二酸化炭素と分泌液と糞尿くらいだ。卑屈だと笑いたくば笑え。俺の人生を歩んだ人間は皆俺になる確信がある。
「では御影さん。私のことは天ちゃんで良いですよ」
「式谷さん、と呼ばせてもらおう」
「あ、コンビニ寄ってから行きましょう」
それからは、あれよあれよと式谷さんのご自宅まで来てしまった。徒歩圏内だったことは無一文の俺には助かった。アパートの一室を借りているらしい。どこにでもあるワンルームだ。
しかし、女性宅に上がるなど小学生以来かもしれない。
「どうしました? 上がっていいですよ」
どうしてそう無警戒なのだ。まあ強くて破壊が得意なのだから、という自信からなのだろうが。それに何日も風呂も入っていない、お世辞にも清潔とは言い難いのだ。さすがの俺でも気が引けてしまう。
「で、ではお言葉に甘えて」
内装は意外にも質素、というよりミニマリストかと思ってしまうほど物がなかった。簡素な机に丸い座布団、テレビ台の上には小さなラジオ。横には小さな冷蔵庫。部屋の隅に布団を畳んでいる程度だ。他はクローゼットにでも収納されているのだろうか。
「そしたらまずシャワー浴びてきちゃって下さい」
「え」
「はい、髭剃り」
コンビニで買ってきたであろう髭剃りを袋のまま渡された。「シャンプーとか石鹸とか、自由に使っていいですからね」とだけ言い残し、式谷は冷蔵庫から次々に食材を取り出し始めた。
気が引けつつも居たたまれなくなり、逃げるようにして浴室へ入った。
シャワーを浴び、体の垢を落としきると、己がいかに悪臭を放っていたかがわかる。もう元の服を着る気が失せてしまう。
しかし、こうなってくるといよいよ不可解だ。あの女は、式谷はなぜこんな見すぼらしい男に施しを与えるのだろうか。お礼にしても、やや過剰だと思うのは俺だけだろうか。
確かに、殴られ、血も出た────と、口の中をざっくり切ったはずだが、もう塞がっているようだ。実は自分が思っている以上に、健康体だったのかもしれない。
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