浦島太郎の真実
中梨涼
第1話 玉手箱
「それでは姫様、お別れです」
竜宮城の門で、浦島太郎は乙姫を振り返った。
乙姫は真っ赤に泣き腫らした目を、あでやかな桃色の着物の裾で拭っている。震える声で、彼女はつぶやいた。
「どうしても行ってしまうの」
黒い鎧を身にまとった浦島太郎に一歩近づき、乙姫はそっと、その手を取った。
「何度も言ったように、あなたには、ここで生きる選択肢もあるのよ」
浦島太郎は一瞬悲しげに笑ったが、すぐ口元を引き締めた。
「行きます。――俺の故郷に、鬼が出たのだから」
◆
数ヶ月前、桃から生まれた少年が、鬼ヶ島の鬼を退治したのだという。
しかし全ての鬼を討ち取ったわけではなく、生き残った鬼は、各地を転々とし、浦島太郎の故郷へとたどり着いた。
漁業で栄えていた村は、今は見る影もない。鬼たちが村人たちの食料を奪い、土地を奪い、生活そのものを壊していった。
鬼たちは海辺を拠点にして、今や悠々と暮らしているらしい。故郷は第二の鬼が島に変わってしまった。浦島太郎はそれを、陸と海を行き来している亀たちから聞き取った。
浦島太郎は考えた。
それまで両親のことなど忘れて乙姫と楽しく暮らしていたが、両親はどうしているだろう。
鬼が村に来たとき、殺されてしまっただろうか。生きていても、大怪我をしているかもしれない。友達は? 無事、逃げ延びているだろうか?
こればっかりは亀たちに聞いてもわからなかった。ただ、その中の亀の一匹が、『業を煮やした村人が、鬼に立ち向かう討伐隊を作っている』という噂があるのを教えてくれた。
浦島太郎は、いてもたってもいられない。
事情を乙姫に話し、帰りたいと言った。乙姫は泣いて彼を止めた。
「行ってどうするの」
「討伐隊に加わる。皆と一緒に、鬼と戦う」
「でも、あなた、漁師でしょう?!」
戦うすべなんか知らないじゃないの、と乙姫に掴みかかられた。激しく揺さぶられる浦島太郎と号泣する乙姫。豪華な竜宮城の大広間で、彼女の泣き声が響く。周りでは亀たちが、オロオロと状況を見守っている。
「行っちゃダメ。絶対死んでしまうわ! 私、あなたに死んで欲しくない!」
「姫様」
「ずっとここにいれば安全なのよ」
「姫様、聞いて」
「お願いだからどうか、帰るなんて言わないで!」
胸にすがりついてきた乙姫の嗚咽が収まるのを待って、浦島太郎が口を開いた。
「姫様だって、家族の亀が死んだら泣くでしょう」
乙姫がうつむいたまま、それでも亀たちに視線を移した。不安げな亀たちの表情を浦島太郎は見ず、乙姫の腕を支えて続ける。
「俺も、家族や友達に死んで欲しくないんです。……まだ、生きているのなら」
「でも、あなたが戦えるとは思えない」
「俺も含めて、村人も戦い方なんか知らないでしょう。漁師の村なんだから」
「だったら!」
行かないで、という乙姫の言葉を、浦島太郎は遮った。
「立ち向かえないなら、逃げる手助けを。俺ができることを見つけて、やっていきたい」
浦島太郎と、乙姫は見つめ合う。涙の溜まる彼女の目を正視できなくなって、浦島太郎はうつむいた。
「俺、ずっと、さぼってばっかりだったから」
ここへ来た大元の原因も、漁をさぼったからだった。散歩をしていたら亀をいじめている子供たちに遭遇し、亀を助けたらお礼に龍宮城へ招待されたのだ。
「ここに来てからも、ずっとそうだった。親も仕事も、ほっぽり出して」
「そんなこと、なかったわ」
乙姫の言葉に首を横に振り、浦島太郎は唇を噛み締めた。
「だから……こんな時くらい、帰らなくちゃ」
姫様、と顔を上げ、静かな目で浦島太郎は懇願した。
「俺を故郷へ帰してください。俺に故郷で、できる限りのことをさせてください」
乙姫の瞳が揺れた。美しい紅を指した、唇がわなないている。浦島太郎は、弱々しく乙姫から胸を押されるのを感じた。そのまま無言で背を向けると、彼女は大広間から駆け去っていく。
乙姫は一晩部屋に閉じこもり、浦島太郎は途方に暮れていた。
だが、次の日彼女は、部屋を出てきた。その手には、鞘に収まったひと振りの刀が握られていた。
浦島太郎は驚きつつも、感謝した。
乙姫はひと振りの刀と、鎧を浦島太郎に用意してくれたのだ。鎧は重そうに見えたが、着てみると軽く、まるで重さは衣のようだ。竜宮城の秘宝のひとつだという。
「本当は、今も迷ってるわ」
浦島太郎が慣れない鎧を着込むのを手伝いながら、乙姫は言った。
「正直、あなたを竜宮城に閉じ込めることもできるわ。でも、それだと、あなたの心が死んでしまう。心の死んだあなたなんて、見たくないから」
泣き濡れた乙姫に、浦島太郎は胸が詰まった。ありがとう、と言う言葉が自分でも震えたのがわかったので、あわてて彼は咳払いして言葉を続けた。
「秘宝まで貸してくれるなんて。絶対、返しに来ます」
乙姫は微笑んだが、その瞳は暗かった。
「あなた、今、これで怖くないって思ったでしょう」
浦島太郎の頬が、引きつった。
「私が差し出したのは、あくまでお守り程度よ。身につけただけで、戦ったことのない人間が、急に強くなるものではないわ」
実は強くなることを期待していた浦島太郎は、思わず肩を落とした。それでも息をひとつついて、頭を下げた。
「それでも……ありがとう。こういったものが、あるだけでも心強いから」
顔を上げると、乙姫が眉を下げて微笑んでいた。そのまま二人は手をつなぎ、無言で門のところまで来たのだった。
◆
乙姫に別れを告げた今、浦島太郎の隣には大きな亀が控えている。来た時のように、亀の背に乗って、故郷に帰るのだ。
そんな中で浦島太郎は困惑した。手を取って向かい合ったまま、乙姫は何かを言いよどんでいる。
「姫様?」
「もし……鬼と対峙した時」
ぎゅっと手を握って、乙姫は続けた。
「本当は逃げて欲しい。でもきっと、難しいでしょう。だから最後に私は、これをあげる」
手を離し、乙姫は着物のたもとから、小さな黒い箱を取り出した。
片手の手のひらに、すっぽり収まる平たい箱だ。金の螺鈿細工が施されており、上の部分がフタになっている。両脇には紐の留め具がついていて、帯に吊るせるようだ。
「これは?」
「玉手箱、というのよ」
武器には見えないものが出てきたので、浦島太郎は首をひねる。乙姫は彼の手に玉手箱を握らせ、いいですか、と彼の目を見据えて言った。
「できる限り、開けてはいけません。本当にあなたが、もしくはあなたの大事な人々が、命の危機にさらされている状態。その時に開けなさい。逃げきれる可能性があるなら、絶対に開けてはなりません」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
真剣に言われても、聞かされた方はわけがわからない。
「この箱は何なんですか? 開けたら、どんなことが?!」
きゅっと、乙姫の唇が引き締まった。再びその目に、涙が盛り上がる。背伸びして耳に頬を寄せてきた彼女を受け止め、浦島太郎は、囁かれる返答を聞いた。
浦島太郎の目が見開かれ、表情が険しくなる。
「――本当は、こんなもの、渡すべきじゃないのかもしれない」
でも、あなたを助ける可能性のあるものだから。そう言い、乙姫は浦島太郎を抱きしめた。
しばらくそうしていた。浦島太郎の頭の中で、今聞いた言葉の全てが、ぐるぐると回っている。姫様、と浦島太郎はつぶやいた。
「ありがとう。忠告通りにします」
「そうなるよう、祈ってるわ」
くちづけを交わすと、踵を返し、浦島太郎は亀の方へ足を向けた。玉手箱は、帯から吊るしている。すすり泣く乙姫を、浦島太郎は振り返らなかった。
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