三. 正史606年のこと


『思い浮かべるは丘に咲く花』


 ことの発端はフェル・アルム暦987年。

 前年から天候が極めて不順であったために南部の穀倉地帯では大不作となり、帝都アヴィザノを中心に食糧不足が深刻なものとなった。

 国王ドゥ・ルイエ皇の政策もはかばかしく運ばず、それを不服に思った一部のアヴィザノ市民が、987年のはじめ、王宮であるせせらぎの宮に侵入、聖なる王宮を爆破したのだ。

 幸いにも死傷者はなかったものの、今までなかった反逆行為にフェル・アルム中が震撼しんかんした。

 反逆者達はすぐさま捕らえられ、処刑されたが、悲しいことに彼らの遺志を継ぐものがセル山地、ルミーンの丘にて決起、自らを反逆集団“ニーヴル”と名乗り、アヴィザノに侵攻した。

 彼らの力はあなどれず、一時期はアヴィザノ城壁まで押し寄せんばかりの勢いをみせた。しかし、彼らの暴虐を許さない各地の騎士達が一斉に決起し、ニーヴルを、クレン・ウールン河、ウェスティンの地まで追いやった。

 ウェスティンの決戦によって、“ニーヴルの反乱”は決着をみた。

 フェル・アルム千年の歴史上唯一にして最大のこの戦は、あまりに多くの犠牲者を出した。クレン・ウールン河には多くの戦死者が浮かび、河は血の色に染まったとさえ伝えられる。フェル・アルム軍はかろうじて勝利を収めたものの、損害は甚大であり戦士達の大半がむくろと化した。

 被害にあったのは戦士達だけではない。戦いはウェスティン近隣の村々まで巻き込んでしまった。中には村そのものが無くなってしまう地域すら出たのだ。怪我を負った者。家や親しい友人、家族を失った者――野には人々の嘆き声が風によって伝わってくるのだった。

 一方の反乱軍、ニーヴルは壊滅した。数少ない生き残りを除いては。青年――ティアー・ハーンもその一人であった。


* * *


「生きてる……」

 凄絶な悪夢から解放されたハーンは、目を開けてゆっくりと体を起こした。

 今し方の夢は、先の決戦での自分の記憶だった。中枢の騎士団との戦いの果てに、彼の所属する部隊は全滅した。ハーンが最後に見たのは周囲を取り囲む炎の壁。そこから先の記憶はない。

 ハーンは布団を恐る恐るめくりあげ、自分の身体がどうなっているのかを確かめた。幸いにも五体は失われていない。だが、ところどころに巻き付けられている包帯が、彼の負った怪我の程度を知らしめている。完治するにはまだ数日を要することだろう。頭に手をやると、額から後頭部にかけても包帯が巻かれているのが分かる。癖のある金髪を指で触れると、まるで枯れ草のような感触をしている。おそらく髪の一部は焼き焦げてしまっているのだろう。

 ここはどこなのだろうか? 見覚えのない部屋に彼は一人横たわっていたのだ。窓の外は暗く景色はなにも見えない。時は夜の刻を告げようとしていた。

 その時、不意に横腹に激痛が走り、ハーンは小さくうめいた。

 彼の声を聞きつけたのだろう。隣の部屋にいた白髪の老人が、ハーンのもとにやって来た。

「おお。無事に意識を取り戻したか! お前さん、運がよかった。もう少し助けられるのが遅かったら、命を落としていたじゃろうて」

 身内の無事を喜ぶかのように、気のよさそうな老人はしわを作り満面の笑みをハーンに向けた。当のハーンはまだ状況がよくつかめていないのか、ただ目をぱちくりさせるだけだった。

「今言えることはただひとつ。ゆっくりと休みなさい。あれこれ考えるのはそれからでも遅くないからの。ともかく、お前さんは命を取り留めたんじゃ」

 老人は言った。

 ハーンは小さくうなずくと、再びベッドに横たわった。先ほどの痛みは和らぎ、かわって睡魔がすぐに襲い来る。彼は目を閉じて眠りへと落ちていった。もう悪夢を見ることの無いようにと祈りながら。


 ハーンは戦の悪夢にうなされることなく、すっきりした気分で目覚めた。幾分か体の調子もよくなっているようだ。痛みは薄れ、体が軽く感じられる。

 時は明けて朝。彼はゆっくりと上体を起こし、窓から表の景色を見やった。こんもりとした丘と蒼い空が見える。丘には花が咲いているようだったが、詳しくはよく見えない。

「おはよう若いの。ちょうど朝餉あさげの支度を済ませていたところじゃった」

 部屋に入ってきた老人は言った。

「外の様子が気になるか? 不幸中の幸い、というやつじゃな。わしらの村はなんとか難を逃れることが出来たのだよ。……かろうじて、ではあるがの」

 ハーンは何も言えなかった。戦っていた頃の自分達が、そしてフェル・アルムの戦士達がどのような行いをしていたのか、ぼんやりと思い出してきた。戦争という狂気は、何も関係のない村々をも巻き込んでしまったのだ。


 その時老人の後ろから、もう一人の人物が姿を現した。すらりとした青年。年の頃はハーンと同じくらいだろうか? 彼の風貌は同性から見ても素直に奇麗だと思えるほど。だがその姿からは普通の人間ではないことが感じ取れる。彼の髪は白。老人の白髪よりもさらに色が抜けた純白だ。また両の頬の部分には、目元から伸びるようにくちばし型の模様をかたどった刺青が施されてあった。その美しくも奇異な容貌にハーンは一瞬怪訝けげんそうな表情を浮かべてその青年を見た。

「安心していい。この方がお前さんをここまで運んできたのじゃ。いわば命の恩人というものかな?」

 白髪の青年は一礼をしてハーンに挨拶をした。

「一命を取り留めて何よりだ。私の名は……〈とばり〉とでも呼んでくれればいい」

 感情をあまり感じさせない口調で、〈帳〉と名乗る青年は言った。

「……ありがとう、〈帳〉さん。僕の名前はハーン。ティアー・ハーンといいます。あの……戦いはどうなったんでしょうか?」

 ハーンの問いに〈帳〉が淡々と答える。そこには残酷な真実があった。

「戦争は終わった。ウェスティンの地で最終決戦が繰り広げられ、事実上ニーヴルは瓦解した。……残念だが、君以外の仲間は助けることは私には出来なかった。すでに命を落としていたゆえにな」

 『仲間』という単語を聞いて、ハーンはびくりと震えた。布団を見つめていた顔が蒼然となる。ニーヴルであるという自分の素性がばれてしまったのだから。そしてなにより――彼と共に中枢の騎士達と対峙していた仲間達は、すでにこの世にはいない。

 老人は血にまみれぼろぼろになった衣服をハーンに見せた。それはハーンが着ていた服。右胸にはニーヴルを示す四本の矢の紋章が刺繍ししゅうされている。

「分かっていて助けたんですか……? 僕は……ニーヴルなんですよ?」

 ハーンは布団の一点を見つめながら震えた口調で言った。

「正確にはニーヴル『だった』というところだろう。今や反逆者たるニーヴルはもう無いのだから」

 と〈帳〉。

「反逆者なんかじゃない! 僕達はこの国に反旗を翻したわけじゃないのに、いつの間にか反逆者の汚名を着せられている。……どうして分かってくれないんだ!」

 彼にしては珍しく言葉を荒げ、ハーンは言い返した。

「真相は君の言わんとすることそのものだろう。私はそう思っている。だが歴史は隠蔽いんぺいされ、真実は闇の中に葬り去られる。過去にも何度かあったようにな……」

 〈帳〉は言葉を選びながらハーンに答えた。

「ハーン。気持ちは分かるが、騒いでは身体にさわるぞ。とにもかくにも、お前さんがニーヴルであろうと誰であろうと、この老いぼれには関係のないことじゃ。せっかく助かった命は、粗末にしてはならない」

 老人はハーンの右肩に手を置くと、優しくそう言うのだった。ハーンの視界は歪み、目の奥が熱くなる。頬を伝って一筋の涙がこぼれた。やがて彼は嗚咽おえつを漏らしながら、布団に頭を埋めた。

 それを見ていた〈帳〉は老人に言った。

「まだ彼は独りにさせておいたほうがいい。……安心なさい。彼は自ら命を絶つような真似はしないだろう」

 老人はうなずき、またハーンの肩に手を置いた。

「現実はお前さんにとってたいそう厳しいものなのかもしれん。隣の部屋に食事を用意しておくから、好きな時に食べなさい」

 ハーンはうつむき、しゃくり上げながら、ただうなずいた。


* * *


 三日が経ち、ハーンの身体はほぼ完全に回復した。なみの人間であれば一週間を要するところだが、剣の使い手であるハーンの肉体は、細い身体から想像が出来ないほど強靱なものだった。

「これから僕はどうしたらいいんだろう……?」

 ハーンは抱えている不安を〈帳〉に打ち明けた。

「親元を離れて十年以上経ってますし、今さら戻るわけにもいきません。なにより、ニーヴルの生き残りがいることが中枢に分かってしまったら? 僕にはもう行き場所など無いというんでしょうか……」

「ならば私と共に来るといい」

 〈帳〉は言った。

「私は“遙けき野”に居を構えている。誰も通りかかることなど無い。君の姿をしばしの間隠すにはうってつけの場所だが、どうか?」

「あなたは一体……どういう方なんですか? 色々とよく物事をご存じのようですが」

 ハーンは恐る恐る尋ねた。

「私は……そうだな。賢人であり、世捨て人ともいえる。自分で賢人を自称するなど実におこがましいものだがな。そういった意味では私は怪しい人間なのかもしれない。だがもし君が一連の戦いの――フェル・アルムの真実を知りたければ、私が教えよう。私の知る限りのことを君に話そう」

 白髪の賢人は言った。

「真実……」

 ハーンは黙って腕組みをし、しばし考え込んだ。

「死んでいった仲間達の無念を後々に伝えるためにも、僕は真実を知りたい。――分かりました。あなたについていきましょう。僕が失うものなどもはや何も無いのだから……」


* * *


 さらに一日後、ハーンは〈帳〉と共に、はるか北西の地にあるという〈帳〉の館に向かうことにした。

 ハーンははじめて老人の家から外に出た。ここは丘陵地の隅にぽつんとある、ごく小さな集落だった。小屋から南にかけては小高い丘が一面に広がっており、そこでは何頭かの牛たちがのんびりと草をはんでいるのが見える。だがその草は、酪農を営むにしてはやけに貧相だ。さらに丘には他にも草花が生えており、ところどころに黄色い花がちらちらと見えている。

 南の街道まで彼らを送ると老人が申し出たので、二人は喜んで受け入れた。

 丘へと登る小径を三人で歩いていくと、牛たちや草花の様子が分かるようになってきた。草が緑色をしているのはごく一部のみであり、丘の残りの部分では踏みにじられたように折れ、枯れてしまっているようだ。

「ひどいな……」

 ハーンは顔をしかめた。

「ここはな、一面のタンポポで覆われる丘じゃった。なにもないこの村が唯一誇れる景色があったのだ。……のどかで奇麗なもんじゃった……」

 老人は道ばたでしおれていた花をつまんで言った。それはタンポポの花だった。

「じゃがな、戦いが全てを台無しにしてしまった……。草花は踏みにじられ、焼かれてしまった。わしらは戦いから牛たちを守るのが精一杯だったのじゃよ」

 ひどいものじゃ。そう言ってから老人は言葉を詰まらせ、それ以上語ることはなかった。ハーンと同じように、この老人や集落の人々も無念の思いを抱えているのだ。戦いが生み出した結果というのは、何だったのだろう?


 ハーンはうつむきながら、折れしおれたタンポポの花を踏みしめ丘を歩いていった。花の一輪一輪から悲鳴が聞こえてくるようだ。あの戦いが、近隣の村々にまで被害を及ぼすことになろうとは、当時の彼は考えもしていなかった。しかし彼の楽観的な思いは無惨にも引き裂かれたのだ。

 中腹にさしかかる頃になって〈帳〉が口を開いた。

「ハーン。心せよ。この丘を越えた先は、もっとひどいことになっているのだから……」

 ハーンは小さくうなずいた。この先にあるのは、戦いの結果そのものなのだろう。

「神の子ユクツェルノイレは、人間にお情けをかけてくださらないのだろうか……」

 ハーンは天を仰いで言った。

「ユクツェルノイレは……いや、なんでもない」

 〈帳〉は言いかけていた言葉を抑え込んだ。神君の真実について語るということは、これから凄惨な戦場の傷跡を目の当たりにするだろうハーンに、さらなる追い打ちをかけることにしかならないから。

「生きておればこれからどうにでもなる。我が身が無事にあることだけでも、神君ユクツェルノイレに感謝せねばな」

 老人はまた一本のタンポポを手に取って言った。綿帽子に包まれたそのタンポポに、老人はふうっと息を吹きかける。するとタンポポの綿毛のいくつかが風に乗って飛んでいった。

「わしらも、このタンポポと同じじゃよ。踏みにじられても、地面に深く根を下ろしている限り、また花を咲かせることが出来る。それにもしここの花々が失われてしまったとしても、この綿毛が新しい花を咲かしていくじゃろう。人もそれと同じじゃ。わしはそう信じたい……」

 ふうっと、また一息。

 ハーンは見守るようなまなざしでタンポポの綿毛が飛ぶさまを見ていた。この丘を越えた先には目を背けたくなるようなむごたらしい情景が広がっているという。さらに、〈帳〉が話すという〝真実〟とは、おそらくハーンにとって過酷なものになるだろうと予見した。

 けれども。

 それまでの彼自身のように、のんびりと笑って過ごせる日々がきっと訪れるのだ。そう考えると彼の気持ちは少しばかり和らぐのだった。辛いことがあった時は、タンポポの花咲く様子を想像すればいい。丘陵一面に広がる黄色と緑が、空の蒼と調和する美しい景色を。

 ハーンは真実と向き合う決意を新たにした。彼は綿帽子を手に取ると、老人と同じように息を吹きかけた。

 希望あれ、と願いを込めて。




      『思い浮かべるは丘に咲く花』・終

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