第12話
五月上席、初日はいい天気だった。木戸が開けられると、並んでいた客がどんどん客席に入って来る。一階はたちまち満席になった。すぐに二階席も一杯になった。
「はあ~本当に良く入りましたね」
偶然にこの席の前座となった小ふなが袖から見ながら呟く。二つ目ながらこの席に出る事になった俺は既に着物に着替えていた。寄席で二つ目の出番は浅いと相場は決まっている。俺は二番目の出番だった。客席を温めるのが目的みたいなものだ。
トリは師匠遊蔵で、トリの次に大事な仲入りは弟弟子の蔵之介師で食いつきと言う仲入り後の直ぐの出番には明日香姉さんが出る。先日五人抜きで来春に真打昇進が決まったばかりだった。
二番太鼓が鳴って開始が近い事が告げられる。客席は立ち見が出ていて表にも切符を買う客が並んでいると言う事だった。
やがて時間になり前座の小ふなが出て行く。今日で小ふなは五回目の高座だそうだ。何人か居る前座が持ち回りで高座に出て行く仕組みだから数日に一度しか出られない。入門して日が浅い小ふなには順番もそれほど回って来なかった。当たり前だとは思う。前座の高座などは余程の通で無ければ注目なんてしていないからだ。
小ふなは「子ほめ」と言う噺をして高座を降りた。満員なのでそれなりの拍手が起きる。それを聴いて小ふなは嬉しそうに降りて来た。
「お先に勉強させて戴きました」
頭を下げて袖に戻ると今度は高座返しをしに高座に出て行く。初めの噺家の出囃子が鳴り出した。座布団を返して、めくりをめくると戻って来るのと入れ違いに出番の三遊亭銀太郎師が出て行った。この前の真打昇進で真打になった人だった。今席はこの後にも他所で出るので早い出番になったそうだ。
そして俺の出番になった。「小鍛冶」が流れ出すと不思議と俺の体に出囃子のリズムが刻まれて行く。自分の決めているタイミングで高座に出て行く。満員の拍手が俺を出迎えてくれた。
「え~いっぱいのお運びで御礼申し上げます。小金亭鮎太郎と申します。今日出会ったのも何かの縁でございます。どうかこの顔と名前を覚えて帰って戴きたいと思っております」
挨拶とも売り込みともつかぬ事を言って噺に入って行く。今日は「狸の札」をやるつもりだった。命を助けられた子だぬきが恩返しに来て、お礼に札に化けて借金を帳消しにする噺で、このような化ける噺は縁起が良いとされ芝居の初日なんかに演じられる事が多い。
今日の客はいい客だと感じた。ポイントポイントで確実に笑いが返って来る。結構な手応えを感じて高座を降りた。
「お先に勉強させて戴きました」
「お疲れさまでした」
小ふなを始め前座が出迎えてくれた。前座の中には半年前までは一緒に働いていた者も居る。
「兄さん。今日のは良かったですねえ」
小ふながそんな事を言ってくれた。世辞とは言えやはり嬉しい。
仲入りでは蔵之介師が「青菜」と言う噺をやって場内の客を湧かせて高座を降りた。俺はもう出番を終わっているのだが、師匠がトリなので今日と仲入りと千秋楽の三日は残ろうと決めていた。それはこの三日間は寄席が終わった後に「打ち上げ」があるからだ。初日は十日間の芝居の成功を祈って。中日はここまでの感謝。そして最後は無事に終わった事に対してである。色々と人手も必要なのではと考え残る事にしたのだ。それに師匠や蔵之介師などの高座も見ていたかったからだ。
仲入り後の食いつきは明日香姉さんの出番だ。休憩が終わり開始を知らせるベルが鳴ると太鼓が鳴り緞帳が上がって明日香姉さんの出囃子「墨田川」が流れる。
明日香姉さんが高座に登場すると拍手は勿論だが、声が幾つも掛かった。
「待ってました! たっぷり!」
二つ目でこんな声が掛かるのは本当に珍しい。本当なら真打でそれも名手と呼ばれる程の師匠で無ければ声なぞ掛からなかった。
明日香姉さんの初日の噺は「厩火事」だった。寄席用に短く刈り込んである。無駄を省いているのでテンポが良い。俺は袖で聴いていたが、後ろから
「いい出来だぜ。本当ならもっと早く真打になるはずだったんだ」
振り返ると蔵之介師だった
「そんな話があったのですか?」
俺の質問に師は
「ああ、二年前に二十人抜きでなるはずだったんだ」
悔しそうに語る。
「どうして駄目になったのですか?」
間抜けな顔をした俺の質問に蔵之介師は
「協会の中で、女が噺家になるのを面白く思ってねえ奴がいるんだよ。お前、信じられっか今時」
今では女性の真打でも普通に「真打」と呼ばれるがその昔は「女流真打」と呼ばれていたそうだ。つまり本物の真打では無いと言う事だ。
それを今のように変えさせたのは、ウチの師匠の遊蔵と蔵之介師だ。だから協会の中には二人を快く思わない人が居るのだ。噺家は意外とそんな事とも戦わなくてはならない。
番組は進みやがてトリの師匠の出番になった。初日に師匠は、やる演目を決めている事が多い。俺の予想では「明烏」か「船徳」のどちらかだと思った。朝から廓噺は出ていないし、若旦那物も出ていない。寄席では同じ傾向の噺はその日は一つしか出ないのだ。噺がくっつくと言ってタブーとされている。
出囃子「外記猿」が鳴り出した。この出囃子は本当に師匠に合っていると思う。高座に師匠がゆっくりと出て行くと満員のお客全員が最大限の拍手で迎えてくれた。当然声も多く掛かる。やや猫背気味に風(扇子のこと)を右手に持って高座の座布団に座る。歩き方から何まで決まっていると思う。師匠は風を前に置いて頭を下げると
「え~今日は、私が最後でございまして、この後は掃除のおじさんしか出ない事になっております。気の向いた方はどうぞ一緒に掃除をやって行って下さい。滅多にない経験になると思いますので」
一斉に笑いが起きる。つかみも万全だった。高座の袖では珍しく蔵之介師が残っていて師匠の高座を見ている。
「あれ、今日は打ち上げ出られるのですか?」
忙しい蔵之介師は自分の高座が終わると先に帰る事が多いのだ。だから疑問に思った俺の質問に
「ああ、今日は暇なんだ。兄さんと久しぶりに呑みたいしな」
そうか、二人は仲の良い兄弟弟子だった。二人は小金亭仙蔵と言う俺にとっては大師匠の二人だけの弟子だった。仙蔵師匠は家の用事もやらせたが、噺の稽古が一番と言う考えで、余計な用事をさせてるのなら稽古をせよ。と言う方針だった。その頃の噺家の元では雑用をこなして一日が過ぎて行く事が殆どで、二人は
「あんな手にあかぎれも出来ない奴になんか負けないからね」
と楽屋でも陰口を散々叩かれたそうだ。だから二人は上手くなる為に必死に稽古をしたのだ。その結果、二人はタイプこそ違うが名手として今に至っている。
ウチの師匠遊蔵が渋くて古典落語の世界に観客を連れて行ってくれるなら蔵之介師はモダンで現代的な粋を感じさせて古典を分かりやすく演じて見せてくれる噺家だった。
だから明日香姉さんが蔵之介師の所に弟子入りしたのは偶然ではなく必然だったのかも知れなかった。
ウチの師匠も家の掃除などはやらせるが、それ以外の雑用は余り無い。勿論師匠の着物などは片付けさせてられるが、本当に大事な着物などは師匠は自分で片付けるし、手入れも自分と女将さんがやる。俺たち弟子は着物の扱い方を学ぶのだ。厳しいのは挨拶等の日常的な礼儀だ。これは完全に叩き込まれる。
師匠の初日は「明烏」だった。これは堅物の若旦那を心配した父親が町内の遊び人の二人に頼んで吉原に連れて行って貰う噺で、若旦那は吉原に上がるまでそこがお稲荷さんと信じて疑わないのだった。
この噺は亡き八代目文楽師の十八番で、噺の中に甘納豆を食べるシーンがあるのだが、師がこの噺をやると売店の甘納豆がすぐに売り切れたと言う逸話を持つ噺だった。かの古今亭志ん朝師も若い頃は甘納豆では無く梅干を登場させていて、文楽師との比較を避けたほどだった。
師匠は若旦那を滑稽に描くでもなく、普通の常識のある若者として描いて行く。若旦那を連れて行っている二人の遊び人も、その道の達人らしく、何とか上手く若旦那を収めようと知恵を絞っている。そんなやり取りが可笑しい。
結局、若旦那は抵抗するも、納められてしまい。浦里と言う花魁に気に入れられてしまう。
翌朝、持てなかった二人とは裏腹に若旦那は良い思いをしたみたいだった。呆れる二人は若旦那を残して帰ろうとするが若旦那は
「帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で止められる」
下げが決まって拍手が鳴り出す。師匠は座布団を外して
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
と頭を下げている。終いの太鼓が鳴る中、緞帳が降りて行った。
「お疲れ様でした!」
小ふなが師匠の羽織を取りに高座に向かう。座布団も一緒に片付けて行く。この後三十分もすれば夜席が始まるのだが、それは別な芝居となる。
楽屋では既に師匠が着替え始めていた。残っていた蔵之介師が
「兄さんの『明烏』久しぶりに聴いたよ。前と少し変えた?」
そんな質問をすると
「まあ、少しな。今日は若いやつが聴いてるからさ」
そんな事を言っていた。
打ち上げは師匠の行きつけの居酒屋で行われる事になっている。俺は打ち上げに参加する人数を確認して既に予約を入れておいた。
人数は総勢五人で師匠と蔵之介師。俺と明日香姉さん。それに付き合いの良い龍楽亭新吉師だった。前座の小ふなはこのような打ち上げには参加することが出来ない。俺は晴れて二つ目になったので参加出来るのだ。
師匠は明日もトリを取るので着物を楽屋に置いて来た。これは良くある事で殆どの噺家は続けて出演する場所では着物を預けて帰る事が多い。中には二種類の着物を持って来て交代で着る師匠も居るほどだった。
それに明日も違う着物を着るならば、小ふなに着物を家に届けさせて、翌日寄席に行く前に寄らせて着物を持たせると言う手間になる。小ふなは何も無ければ今日はこのまま家に帰れるのだ。明日も寄席にまっすぐに行けば良い。その辺を師匠は考えたのだと思う。
「今日は帰っていいよ」
小ふなは師匠からその言葉を貰うと
「お疲れ様でした。お先に失礼させて戴きます」
師匠方にそう言って帰って行った。
「かんぱーい」
皆がビールで喉を潤す。それからは各自が好きなものを頼んで打ち上げが始まった。師匠と蔵之介師は早速何事か話し始めた。蔵之介師が「兄さんと呑みたい」と言っていたのは何か相談事があったのだと推測した。
店内が騒がしいのと大きなテーブルの反対側に二人が座っているので、何を話しているのかは全く判らないが、軽い話では無さそうだった。二人の表情でそれが推測出来た。
俺の左隣は明日香姉さんで、その左は新吉師だった。新吉師は明日香姉さんより少し上で真打になってから三年目の若手真打だ。二人は、前座を同じ時期に努めたので仲が良い。
暫くは雑談になり話が盛り上がったが、不意に明日香姉さんの携帯の着信音が鳴った。実は今日の明日香姉さんは何処か元気が無かった。何時もなら楽屋でも笑い声が絶えないのだが、今日は静かに過ごしていた。だから、明日香姉さんが携帯を開いて顔色が変わった時は何やら胸騒ぎがした。
「あの、ちょっと席を外します」
姉さんはそう言って店の外に出て行った。師匠はそれを見て、俺に目線で「後を追え」と指示をした。何となくだが、蔵之介師は明日香姉さんの事を師匠に相談していたのでは無いだろうか。なんとなくそんな気がした。
急いで表に出る。もう日は落ちて暗くなっていた。直ぐに後を追ったが、姉さんの姿が見えなくなっていた。周りの路地を見渡すと。思ったのとは別な方角から声が聞こえた。
「どうして! どうして行っちゃうの!」
それは叫ぶような悲鳴にも近い明日香姉さんの声だった。
その声の方角に行くと、姉さんの姿が見えた。隣には男の人が立っていた。俺には直ぐに日村さんだと判った。
ネイビーの三つ揃えに赤いネクタイ。濃い茶のサングラスを掛けていた。今日はどっから見ても普通のサラリーマンには見えない。手には大きめのボストンバッグを下げていた。
「どうして……どうして行っちゃうの?」
明日香姉さんはその日村さんにもたれるように寄り添っている。
「お前の為だよ……判るだろう?」
日村さんが優しく姉さんの肩に手を置いている。
「ううん。判らない、判らないよ! やっと真を打つことが出来るのに。これからなのに……どうして?」
姉さんは寄り添いながらも右手で日村さんの胸を軽く叩いた。それはまるで甘えている感じだった。それを見て二人の関係が自ずと判った。きっと心の底から結ばれた二人なのだと……。
「来年、晴れて真打昇進だ。それも五人抜き。目出度いじゃないか。お前は売れる! きっと売れて天下を取れる大物になる。興行の世界で生きて来た俺には判る。お前には華がある。出て来ただけで会場が明るくなるんだ。こんな芸人はそうは居ない。売れたらマスコミがお前の周りを嗅ぎ回るだろう。そうしたら俺の存在も知られてしまう。今の世の中、ヤクザと一緒に暮らしてる事が判ったらとんでもない事になる。そんな事ぐらい判るだろう。だから俺が傍に居てはいけないんだ」
日村さんは優しく姉さんを抱き締める。その抱き方で如何に姉さんの事を愛してるかが判った。大切な人の存在が出来た今の俺なら理解出来る。
「嘘よ。嘘! そんなの嘘! わたしは、あんたに認められたくて今まで頑張って来たのよ。楽屋で嫌な事をされても。あんたに褒めて欲しくて耐えたの。あんた抜きではわたしなんか存在価値も無いのよ。只、あんたに『上手くなったな』って言って欲しくて、あんたに喜んで欲しくて今まで頑張ったの。だから、何処かへ行くなんて言わないで。今まで通りに暮らしましょう。マスコミなんか構わない。あんたの居ない人生なんて要らない」
姉さんは泣きながら日村さんの胸に抱かれている。優しく背中を撫でた日村さんは
「未だ判らないか。お前にはとんでもない才能がある。それを開花させるのも俺の役目だと思ったんだ。だからこれからは俺が傍に居ない方が良い。それが俺の下した判断なんだ。お前が開花するのに俺が足を引っ張ってはならない……そうだろう?」
それを聞いて姉さんはイヤイヤをしながら
「そんなの建前じゃ無い! 本当はわたしに飽きたのでしょう!」
姉さんがそう言った時だった
「バカ!」
日村さんの平手が姉さんの頬に飛んだ
「俺だって、俺だってどんなに一緒に居たいか……このまま爺になるまで一緒に居たいさ。でもやがて世間がそれを許してくれなくなる。だからいい機会だから別れようと言っているんだよ」
「うわぁ~ん」
姉さんは大声でまるで子供の様に泣き叫んで崩れ落ちた。
「あんたが居なけりや明日から生きていけない……。あんたと芸、どっちを取るかと言われれば、迷いなくアタシはあんたを取る。なのに……」
「まこ……これを受け取ってくれ」
日村さんは姉さんの本名を呼ぶと、懐からネックレスを取り出し、姉さんの首に掛けた。大粒のダイヤのネックレスだった。
「あんた、これ……」
「俺の本音だ。お前は永遠に俺のものだ。でもこの世では一緒になることが出来ない。だからせめて、その証だけでも受け取ってくれ」
ダイヤはかなり大きい。俺は宝石には詳しく無いが、それでも相当な物だと直感した。姉さんもその価値が判ったのか
「これ……とんでもない価値の……そうか」
姉さんはダイヤのネックレスを見つめると
「わたしは一生あんたのものだよ。約束する。もう誰も愛さない。きっとだよ」
そう言って立ち上がって日村さんに口づけをした。それは濃厚で二人の想いの籠った口づけだった。
「鮎、御免、この人を駅まで送って行くわ。師匠に言っておいてね」
姉さんは俺にそう言うと日村さんの腕に自分の腕を通して駅に一緒に歩いて行った。俺はその後ろ姿を只見送っていた。情けないが俺はそれだけしか出来なかった。こんな本気の二人を目の当たりにしては何も出来なかったのだ。
居酒屋に戻って簡単に事情を説明する。蔵之介師が
「やはり決着がついたか。俺の所に奴から『今日別れに行きます』と連絡があったんだ。だから明日香も一緒に来させたんだ」
そういってため息をついた。
「姉さん。あのまま一緒に何処かに行ってしまう、なんて事はありませんよね」
心配した俺の言葉に師匠が
「それは大丈夫だろう。一緒に行くなら伝言は『師匠ごめんなさい』だろう」
そんな事を言った。そうか、二人には今夜の事も判っていたのだと理解した。
翌日、明日香姉さんは何事も無かったかのように出て来た。そして昨日と同じ演目「厩火事」を掛けた。
高座の袖で俺と蔵之介師が見守っている。昨日の今日だから大丈夫かと思っていた。俺は蔵之介師に
「姉さん大丈夫ですかね」
そう尋ねると蔵之介師は高座のねえさんを見ながら
「見ろよ。失ったものもデカイが、得たものも大きい。素晴らしい『厩火事』じゃねえか。もう立派に真打の芸だよ。間違い無い、あいつは大きくなる」
そう言った目には光るものがあった。
それは今までの俺の体験した高座で一番の「厩火事」だったと記しておく。
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