「甘やかなる七色の日常」カルテット番外編
椎堂かおる
第1話
七色の油紙に包まれた、丸い棒付きの飴を剥くと、微かにぴりりと、紙の剥がれる音がした。神聖な心持ちで、ギリスはその紙切れがくっついている真っ赤な飴を、ゆっくりと回して取り出した。
飴玉は
宮廷では見かけない、市井の飴菓子だった。
宮廷でばらまかれる飴玉は、どれも美しい錦のような、芸術的な色合いを帯びていて、食べるのが惜しいような、細やかな細工に編まれているものも珍しくない。高貴なる、緋色の宮殿に棲む者たちが食すのだから、それを納める職人たちも、技の限りを尽くすのが礼儀だ。
竹の棒に飴をからめて固めただけのような、やる気のないのは、やってこない。
それでも、その飴は美味かった。舐めれば味に大差はない。
しかもその飴には幾つかの秘密があるとのことだった。
イェズラムが買ってきたのだ。街に用事があるとか言って。王宮を出て出かける時に、俺も行きたいとギリスが強請ると、いかにも邪魔だという顔をして、イェズラムはこう請け合った。
土産を買って戻るから、ついてくるなと。
ギリスは長老会に出入りを許された、エル・イェズラムの秘蔵っ子で、どんなこみいった話のときでも、それを大人しく聞いている限りは、同席を咎められたことはない。むしろイェズラムはいつも、ギリスを末席に置いて、大人達の関わる厄介なあれやこれやが済んだ後に、お前はあれを、どう思ったと訊ねるのを常としていた。それにギリスがどう答えるかが、恐らく日々の試験なのだろう。
満足のいく答えを返すと、イェズラムは大抵笑った。可笑しそうに。そして、思うところありげに、愛用の長煙管をふかす
長老会には元から、何人もの石を持った子供が囲われていて、見込みがあると思われた者だけが部屋に残され、そうでもないなと期待を裏切った者は、ひとりまたひとりと姿を消していった。
その姿がその後、王宮の回廊や、別の派閥の
死後までも、永久に思うだろう。あの
それでも、無念なだけなら、まだしもだ。
まともな奴なら、あれやこれやの派閥の
罵られても、殴られても、ギリスが平気でぽかんとしているというので、そのぼんやりした様子を、救いようのない病理と見て取る医師もいた。
お前は我慢強い子らしいなと、褒めてくれるのはイェズラムだけだ。
そのイェズラムに見限られたら、たぶん自分は墓所へ行くのだろうと、ギリスは覚悟していた。
どんな手順でかは、まだ知らないが、きっと冷たい骨になって、哀れ小さい英雄殿と、お定まりの追悼の
英雄達の争いは、いつも熾烈で、皆が我が名を遺そうと、粉骨砕身していた。
お気に入りとして付き従うのも、苦労があるのさと、派閥の
だが、そんな愚痴も、ギリスにとっては羨ましかった。
早々に大人になって、俺もイェズにこき使われたいと、ギリスは思った。そうしたら役に立つ子と、重用されるかもしれない。活躍の場を与えられ、功をあげて、やがては
そうすればきっと、イェズラムも忘れはしないだろう。そういえば、そんな子がいた。名はエル・ギリスといった。詩人がそう、詠っていたなと、思い出す。暗い墓所の闇で、永く眠る時が来ても、思い出すだろう。かつて目をかけた養い
飴を舐めながら、ギリスは自分の空想に、うっとりとした。
この飴は、粗野だがちょっと趣向があって、食っているうちに味が変わるのだと、イェズラムが言っていた。街から買ってきたのを、ギリスに手渡す時に。
虹のごとくに、七色に食味が変わるというのが、うたい文句で、要は飴を固めるときに、七種の味のする水飴を、だんだんと重ねていっただけだが、噛まずに舐めれば、一層ずつ飴が蕩けて、次々に違った味が楽しめる。それが面白いだろうと言って、イェズラムは懐かしそうだった。
お前は虹を見たことがあるのかと問われたが、ギリスにはそんな経験はなかった。つい先だって、十二歳になり、元服式は済ませたものの、儀式として、タンジールの地下深くを出て、地上の光を浴びたばかりだ。ほんの半時ばかり、陽光なるものに触れただけで、全身が焼け付くような心地がした。日頃慣れ親しんだ、タンジールの魔法の光が、すぐに恋しくなって、地上に出るなどもうご免だと、里心がついた。
陽の光を浴びると、
たったの半時でその始末。虹など見たことはない。そんなものが空に出るまで、地上にいようとは、ギリスは全く思わなかった。それが戦で、従軍するのが
それでも虹がどんなものかは、絵で見て知っていた。空にかかる七色の弓だ。色の並びは決まっている。
赤から始まり、橙・黄・緑・青・藍・紫の、七色だ。
最後の紫色が、お前の好きな
口うるさい
しかしそれは、守りやすい、容易な言いつけだった。
遠目に見える針の穴のような、難しい的を、弓矢で射抜かされたり、何のことかさっぱり意味のわからぬような詩編を、まるごと暗記させられたりするよりは、飴を食っているほうがいい。
飴だけ食って褒められることができたら、いいのになあと、ギリスは棒付きの飴玉を舐め舐め、王宮の廊下を行きながら、内心にぼやいた。
日々課せられる、様々な学問や、修練の義務が、ギリスにはあった。
それ自体はとても退屈で、苦痛以外のなにものでもない。
額の奥にひそむ石の効用で、傷みや苦しみを感じない体質でも、いかにも眠い歴史の講義を受けつつ、眠ってはならないのだと頑張ると、これがおそらく苦痛というものだろうと、ギリスには思えた。
しかし怠ける訳にもいくまい。
講義の果てには試験や査問があり、それの結果は逐一、長老会の
成績が振るわなければ、イェズラムは難しい顔をするだろう。特に怒っているふうではなくても、かすかに眉間に皺のある、がっかりしたという顔だ。
その時、自分が
たとえそれに命がかかっていなくても、イェズラムが満足げな笑みで可笑しそうに笑うと、ギリスは満たされた。いつも苦虫をかみつぶしたような表情でいる、年かさの大英雄が、にこやかになると、その晩年の苦痛を、自分が一時晴らしたようで、誇らしかった。
ギリスがいると、気むずかし屋の派閥の
未だに厄介な悪童と、罵られはするが、それでもギリスには居場所ができた。エル・イェズラムの座る席の、やや後ろの、邪魔にはならぬ右隣だった。そこは席とは言えぬ場所だっただろうが、
帳面と、筆入れを抱えて回廊を小走りに行き、いつもの部屋へと滑り込む前、ギリスは口の中にあった飴を取り出して、慎重に筆入れの中に納めた。
はじめ、真っ赤だった飴は、その下にある橙色を、薄く透かせた色へと移り変わっていた。
紫になるまで食ったら、
自分はそのために生きている。他にはしたいことが何もないのだ。死にたくないとは思いはするが、その恐怖はあまりにも漠然としていた。生きていたいと思うとき、それは単に、今の続きを生きるだけのことだった。
ふらふらと回廊を彷徨って、イェズラムと行き合うと、
「
戸をくぐって、部屋に入り、ギリスは中にいた官服の老人に跪いて叩頭をした。
質素な部屋で待っていた、年老いた男は、なんとエル・イェズラムの少年期に、歴史の講義を施したという博士で、イェズラムが特にと選んだ、この世のはじめから生きているような人物だった。
これから、この爺さんが教える、部族の歴史について、玉座の間の時計が二度鐘を鳴らすまで、耐えねばならない。
ギリスは祈った。聖堂の天使に。
どうか、いつもより早く、時間が過ぎますように。そして、お喋り好きの爺さんが、いつものように横道にそれて、子供だった頃のイェズの話を、ちょっとだけでもしてくれますように、と。
その横道へと、どうやって誘い込むかの陽動作戦が、悪党ギリスの腕の見せ所だった。
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