29. 彼女と一抹の悪意と
不承不承、ぼくは質問に答えるための準備を始めた。
まずは状況の整理だ。
ぼくと彼女は夫婦だが、彼女はぼくに何らかの不満、もしくは恨みを持っている。かもしれない。あるいは持っていないのかもしれないが、それは今は分からない。
それで復讐のために浮気をして、かつぼくの胸をえぐるためにそれを楽しげに打ち明けた。かもしれない。あるいは浮気なんてしていないのにぼくへの復讐から浮気したかの如く振る舞っているだけかもしれないが、それも今は分からない。
浮気の有無にかかわらず不満や恨みからの復讐ではなく別の動機かもしれないし、頭がいかれていて動機なんてないのかもしれないが、やっぱりそれも今は分からない。ぼく自身復讐される心当たりはないし、動機はまったく分からない。彼女がいかれていると思ったことはないが、さすがに彼女のことを百パーセント知っているとまでは思わない。
真実としてあるのは、ぼくと彼女が夫婦であること、そして彼女は浮気をしたと言っていること。それだけだ。ここには疑問の余地はない。
だがその発言の真偽は分からないし、発言をした動機や背景も分からない。
「どうするか、という問いに対しては、直接的には二択かなあ。きみの言葉を信ずるか、疑うかだ」
「やっぱり賢くていらっしゃるのですね。わたくしもきっとそういたしましょう」
出だしは、及第点を貰えたらしい。だが、これでは答えたことにはならない。場合分けが必要だ。
「じゃあひとつずつ行こうか。まず、きみの言葉を信じた場合。つまりきみが浮気していると思った場合」
「はい」
正直、考え続けるだけでも苦痛なのだが、やるしかない。ぼくは腹をくくった。
「ぼくはこの件に関して何の前情報も持っていない。強いて言うなら、実はきみがどこからあれだけの収穫を得ているのかを不審には思っていたよ」
「あら、それは初めて伺いました」
「きみを疑うようで悪いと思って言わなかったんだ」
実際、その点でぼくは彼女を完全に信じていたとは言いがたい。浮気だとは思っていないものの、ぼくの知らない彼女があることに不安を覚えてはいた。そして今気づいたが、ぼく自身にもまた、彼女の知らないぼくがある。それが今のやり取りではっきりした。
「それはいい。ぼくはこの世界にはきみとぼくしかいないと思っていたから、それを浮気とは思っていなかった。浮気を思わせる痕跡もなかった。ただ、きみの行動にはぼくの知らない時間帯があるから、浮気したと聞いたとき、それが不可能ではないとは理解した」
「つまり、わたくしの言葉を信ずるに足るという根拠はなにもお持ちではなかったけれど、わたくしにその気があれば可能ではあるとはお考えなのですね」
「そうだね。その上できみの言葉を信じたのだとすれば、単に発言者を信じたということになる。とすると……これはひどいな。ぼくはきみを信ずるがゆえに、きみに欺かれたと信ずるということになる」
「パーラードクソーンでございますわね」
またぼくの知らない彼女が出てきた。パーラードクソーン。つまり英語でパラドクス。その語源でもある、ヘラスの古い言葉だ。彼女が古い言葉好きというのは知らなかった。
閑話休題、
「とするとまず疑うのが自然な反応か。疑って、彼女が実際に浮気をしているのか確かめるだろう」
「わたくしが浮気をしているという証拠、もしくはそうと思わせるなにかが見つかりました場合には?」
「ぼくはきみに裏切られたと知って、失望するだろう」
「はい」
何がうれしいのか、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「では浮気をしていないという証拠、もしくはそうと思わせるなにかが見つかりました場合には?」
「安堵するだろうね。ああよかった、きみはぼくを裏切っちゃいないと」
「ではわたくしの言葉はいかがなさいます?」
「動機を探すだろうね。浮気をしていないのに浮気をしていると言った動機を。その内容がぼくを傷つけるものだったならばぼくは別の意味で裏切られたことになるし、それが最終的にぼくのためを思ってのことだったならばぼくは裏切られていないと知って安堵するかもしれない」
「動機が見つからなかった場合には?」
「見つからなかった場合は、そうだね。ぼくはきみが浮気をしていないと知った。しかしなぜぼくを傷つけるようなことを言うのかまでは分からない。だったら、悪いほうの動機を想像して裏切られたと感じるか、良いほうの動機を想像して仕方ない事情があるのだろうと信ずるかのどちらかだろうね」
「では一歩お戻りください。わたくしが浮気をしている証拠も、していない証拠もなにも手がかりが見つからなかった場合はいかがなさいます?」
「そうだね、……ううん、これは難しいな。ぼくはきみを信ずるがゆえにきみの言葉を信じ、つまりきみの裏切りを信ずるか、きみの裏切りを信じないがゆえにきみの言葉を嘘だと信じ、つまりきみを信じないかを迫られることになる。前者は最初の分岐点と同じだから、たぶん後者かな。しかし後者もそのままだと表裏を入れ替えただけでパラドクスだから、きっとさっきの動機が見つからない時と同じようにするんじゃないかな」
「まあ」
何がおもしろいのか、彼女はぽんと手を合わせて笑った。
状況と同じく回答も整理すると、ぼくはきっとまず彼女の言葉を疑う。疑って、浮気にせよ嘘にせよ彼女の裏切りの証拠を見つけたら、ぼくは落胆する。彼女が裏切っていない証拠を見つけたら、ぼくは安堵する。そのどちらと判断する根拠もない時は、それを想像によって補う。そうするだろう。
「わたくしの背信が否定されました場合、これはよろしゅうございましょう。証明されました場合につきましても。ではわたくしの背信が真偽不明の場合、さまはなにをお信じになりますの?」
「何を、とは?」
「さきほどさまは、悪いほうの想像をして失望を感じるか、良いほうの想像をしてわたくしとの関係を信じるかとおっしゃいました。どちらになさいますの?」
「いや、だから、それは証拠はないわけだし、それっぽいほうを信じるんじゃないかな」
「どちらの証拠もないと申しますのは、どちらも甲乙つけられないと申しますのではありませんこと?」
うむと唸らされた。どちらかがそれっぽいということは、多少なり真偽を示唆する情報はあったと考えろ、ということか。ならば、ぼくはどうするだろうか。
「それだったら、ぼくは証拠が見つかるまで悩み続けるか、こじつけでも何でもどちらが正しいという理屈をひねり出して一方に決めるんじゃないかなあ。きみとの今までの信頼関係を信じて、きみがぼくを裏切るはずはないと思い込むか、きみにぼくの知らない領分があるということから猜疑して、きみはぼくを裏切っていると思い込むか」
「つまりさまは、なにも信じられないか、都合のよろしいことを信じるのでございますね」
寝間着の袖を唇に添えて、くすくすと笑う。あからさまに嫌がらせだろう言い回しに、さすがにぼくもむっとした。
「いやな言いかたをするね。確かに悩み続けるのは何も信じられないことだし、根拠なくきみを信ずるのは都合の良いことを信ずると言えるかもしれない。だが、きみがぼくを裏切っていると信ずるのは都合のいいことじゃないはずだ」
「そうでございましょうか。都合のよしあしと申しますのは、なにも損得ばかりではございませんことよ。たとえば、分からないということは時としてそれだけで不快なものでございます。はやく白黒つけて楽になりたいというお気持ちも都合かと存じます。見たいものを見ると申しましてもようございましょう」
「それは、そうかもしれない。でも信じるというのは多かれ少なかれそういうところがあるんじゃないかな。そもそも根拠のないことについて、根拠にならないもの足らないものを結びつけて無理やり根拠めいたものにしてしまうのだからね」
「はい。わたくしもそう思います」
彼女はにっこりとほほ笑んだ。
不愉快な笑みだ。
彼女とは長いこと暮らしてきたが、この笑みをここまで不愉快に思ったことはなかった。
しかもこの場合、彼女はぼくの言葉を肯定して、笑みを漏らしたのにだ。
考えることで少しのあいだ鳴りを潜めていた胸のざわつきが、あからさまに鎌首を擡げてくるのを感ずる。
これまでのぼくには、この笑みは美の象徴だった。
さもなくば愛のそれだ。
それが、見た目には何ひとつ変わらないというのに、いまは譬えようもなく不愉快に感ずる。これがいったいぼくの心理によるものか彼女の言動によるものかは分からないが、とにかくぼくはこのままでいられないほどに不愉快だった。
そして彼女もまたぼくをこのままではいさせまいとするかのように、相も変わらず気持ちわるい笑みでいた。
「突き詰めてしまえば、信頼や信用、その裏返しの猜疑や不審とは、どちらも都合のよろしいことを最も確からしいと思い込むことにほかなりません」
「だから、それはそういうものだと言っている」
「はい。もしくは、解釈の延長と申してもよろしゅうございましょうか。これまでの経験から人やものの性質を勝手に解釈して、その性質ならばこの状況ではこうなるはずだというふうに解釈を延長する」
「それはそうだと思うけど、それを言ったら帰納という操作を全否定することになるよ」
きみは、ヒュームの懐疑論をここでやりたいのかい。
しかしそんなぼくの内心の突っ込みをも、彼女は肯定した。
「突き詰めてしまえば、はい。でも、いまはそのことは申しません。めおとのことに限りましょう。さしあたり、解釈を延長する話でございます」
「……ああ、うん」
「延長の過程で不都合な事実に行き当たった場合は、道を変えるか踏み越えるかでございましょう。その不都合な事実も踏まえてさらに都合のよろしい方向に解釈を改めるか、これまでの解釈をもっとも都合のよろしいこととして不都合な事実を無視してしまうか。取るに足らないこと、もしくはささいなあやまりに貶めてしまうのでございます」
口に容赦なく笑みをうかべて、彼女はぼくを不快の片隅に押し込めて行く。きっとぼくはみるからに不愉快な顔をしていることだろう。これまでぼくと一緒に暮らしてきた彼女は、ぼくのささいな表情の変化も拾い上げて、ぼくにいたわりの言葉をかけてくれた。だが、このときの彼女は、まるでぼくが第四の壁の向こうにいるかのように、無神経に笑んだままだった。
「猜疑や不審は人との関係を強めるものではございませんから、ひとまず脇に追いやるといたしましょう。信頼や信用は、人との関係を強めるものでございます。ところでこのような話、わたくしがさまに浮気を告白するような話では、裏付けを進めた果てにその信頼が報われることもございましょう。裏切られることもございましょう」
「ぼくはいま裏切られている気がしている訳だが」
「まあ」
さっきと同じだ。また笑いながら手を合わせた。こうなるともう話したくなくなってくる。
「ですが、そういったことが判明するのは信頼そのものによってではございません。人との関係を壊す方向に働く猜疑や不審の果てに証拠を求め、真偽を突き詰めて初めて判明します。わたくしがすすんで浮気を打ち明けるような話は、滅多にあるものではございません。特殊なケースでございますね。でも、そうでない場合も同じことかと思います。わたくしが浮気をせず、そのことについてなにも言わない場合も。わたくしが浮気をして、そのことを秘している場合も。あらゆる場合についてそうです。信頼は報いられることもございますし、裏切られることもございます。でも、それが判明するのは、信頼によってではございません。石橋の硬さは、叩かなくては分からないのでございます」
「ああ」
正直かったるい。今まさに信頼の力なさをまざまざと見せつけられたぼくに、これ以上その無力を説くなど。ここに弁護士がいるなら、いますぐ調停を始めてもらいたいくらいだ。
だが、哀しいことにいないものは、信頼と同じくらい無力だ。本当に哀しいことに。
「その信頼の無力を、普段から自覚なさる方は稀でしょう。特別に猜疑心の強い、人を容易には信じない方だけかと思います。信頼と言えば聞こえはよろしゅうございます。つまり都合のよろしいことを信じて、それがなんの根拠にも支えられていない、ただ聞こえのよろしいだけの砂上の楼閣かもしれないという事実から、目を背けているのでございます」
「はぁ」
ぼくは、ことさらにため息をついてみせた。
弁護士がいない以上、ぼくは自力でこのうざったい話を終わらせなくてはならない。だが無視を決め込んでも彼女は止まるまいし、暴力に訴えるのは趣味じゃない。となると、いやでも相手して止めるしかない。
だがよろこんで相手していると思われては逆効果かもしれないので、ぼくがいやいや相手しているということはわざとらしいほどにアピールしておく。
「で、それって何かいけないことなの?」
「とおっしゃいますと?」
「相手のことを全部知らなければ人とつきあえないわけじゃない。むしろ、全部知ろうとしたってそれは不可能だろう。そういう部分を何から何まで明らかにしようとしたら、むしろ上手く行かなくなるよ。相手のことを何でも根掘り葉掘り訊くことは、相手にとっては痛くもない腹を探られるのに近い。そういう部分は、都合のいい想像に任せたほうがきっとうまくいく」
「はい」
「それに、そうではないところだって。たとえ夫婦だって、まったく同じ価値観を持つわけじゃない。合わない部分では喧嘩もするし、合わないなりに許容しあいながら生きていく。だが、すべてをぶつけ合ったらお互いに許容しあえない部分も出てきてしまうかもしれない。そういうところは知らぬが仏で、お互い隠してしまえば気にならずにすむ」
これは彼女へのあてこすりだ。要らぬことをしてぼくとの信頼関係をめちゃくちゃにしてくれた彼女へのね。忌々しいことに、彼女の表情は第四の壁のかなただったが。
「わたくしもそう思います」
「だろう。夫婦にしても、ほかの人間関係にしてもそうさ。お互いすべてを知る必要はないし、すべてをさらけ出す必要もない。適度な無関心さも必要だ」
「それがさまでなければ、でございますね」
ぼくは黙った。それはいったいどういうことだろうか。
「いずれ破れるものにかまけてご自分の地平を忘れていらっしゃる方ならば、それでよろしいのではないでしょうか」
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