10. ぼくはアリスのパパじゃない

 あとに残されたのは、ぼくとこの女の子だけだ。

 ぼくは女の子の顔を見つめた。女の子は臆しもせずに大きな眼を半開きにして横目で見つめ返してくる。何か用、とでも問いたげな顔だ。

 うん、似ている。――いやそのものだと言ってもいい。ぼくは躊躇いがちに、思い当たる名前を呼んでみた。

「アリス」

「なによ」

「きみは、……アリス・エイントゥリーなのか?」

 すると彼女はさも当然そうに、

「ええ、そうよ。――ほかにこの顔の人間が、いるとでも思って?」

 ぶっきらぼうに言った。

「ええと、さっきのパパってのは……」

「何言ってるの。パパはわたしのパパじゃない」

「ぼくが?」

 ソーヨという、味気ない返事。

「ええと、ぼくの名前はなんだっけ?」

 するといままでむすっとしていたアリスは、少しだけ眼を見開いた。顔が、困惑の色を帯びている。その顔で体をひねってぼくににじり寄りつつ、

「うそ。もしかして頭打って記憶飛んじゃった? 一姫二太郎って名前忘れちゃった?」

「そんなことは知っているよ。本名が綾瀬晋太ってこともね」

 だんだん不機嫌になっていく彼女の顔をみながら、それでも続けた。

「ぼくが綾瀬で、きみがエイントゥリー。なのに何でパパなんだと。ぼくは外国の子となにしたことはないぞ」

「こらこら、仮にも娘の前でなにとか言わない。あと、とんでもなく見当違い。そんなの、この世界を創ったからに決まってるじゃない。今ごろ何言ってるのよ」

「この、世界?」

 そ、と短く呟いて彼女は頷いた。

「初めに天と地を創って、光あれと言ってそれを照らしたのはパパでしょ」

「何だ、どっかで聞いたような話だなあ」

「そりゃ、自分のしたことだもん。ホントに大丈夫?」

「大丈夫。いや大丈夫じゃないのかも知れないけど、とりあえず今は正気のつもりだ。ええと、整理しよう。ぼくは今どこにいるんだ?」

「わたしの家。東州オリエンスの青鈴堂本店」

 ますます混乱した。オリエンスといえば、ぼくの作中の地名だ。青鈴堂といえば、東州きっての盛商せいしょうだ。ぼくはついさっきまで、――いや、ずっと寝ていたそうだから、さっきではないか。でも、気を失う前確かにぼくは駅の階段にいた。それがいつの間にアリスの部屋で、ベッド脇に彼女。なんだ、ここはぼくの作品の世界か。そういえばそんな筋書きの映画がどこかにあったなあ。映画だけど。

 いやでも、ほかにいい説明があるか? ここが作中だなんて、とうてい信じがたい。信じがたいが、ここと同じつくりの部屋が実在する可能性は、もう天文学的だ。ましてそのぬしが彼女となると、それこそ神でも信じたほうがまだしも現実的だ。となると、

「もしかしてぼくは、ぼくの創った世界。――ぼくの作品のなかにいるのか?」

「いまさら何驚いてるのよ」

 と彼女は不満げだが、無理もないだろう。ぼくは小説家で、ぼくの書く世界はまるっきり虚構だ。その虚構のなかに自分が紛れるなんてことは、ぼくの常識じゃ理解できない。

 それをアリスに言うと、意外な反応が返ってきた。

「小説? 書く世界? なにそれ」

「え?」

 首をかしげる彼女に、ぼくは声を漏らした。なんだ、きみはここがぼくの作品のなかだと言っているのじゃないのか。――

 だが彼女は、さらに首をかしげ、

「作品は作品でしょ。この世界を創ったのはパパだもん。どうやって創れたのかは知らないけど、パパが好きなようにこの世を創りあげたことは、聖書に書いてあるじゃない」

「聖書?」

 え、と言ってぼくは言葉を失った。自分じゃ気づかなかったが、眼をしばたかせていたかも知れない。アリスは待っててと部屋から消えて、分厚い本を持って戻ってきた。手渡されたその本に眼を落とすと、表にはでかでかと聖書の二文字。

「おかしいな。ぼくがこの世界の創りぬしなら、ここで通用するのは英語だけのはずなんだが。どうして聖書の表紙が日本語なんだ?」

「何言ってるの。これが英語じゃない。やっぱり頭、まずくない?」

 言われて、黙った。どうも、ぼくと彼女との間には認識の違いがあるらしい。

 とりあえず聖書を開いて読んでみたが、内容はぼくの知っているユダヤ教の聖書、あるいはキリスト教の旧約聖書、あれととても似ている。ただあれで言うところのアドナイ我らの主の一語が、どういうわけかすべて二太郎に置き換えられていた。そしてユダヤの民が主の名を濫りに口にすることを憚るように、ぼくの本名である綾瀬晋太もまた、ここじゃ忌み名の扱いのようだ。

 頭が痛くなってきた。

 ぼくは一体何者だ。ここは一体何物だ。ぼくがこの世界の創造者で、この世界はぼくの作品。いいだろう。今はそれ以外に説明を思いつかない。それじゃぼくとこの世界とのズレは何だ。英語の世界にしたのに、何で全部日本語だ。何でアリスはそれを英語と呼ぶ。キリスト教でパパと言ったら教皇か総主教かあるいは単に神父か聖職者を指す言葉だけど、何で彼女はそれを造物主の意で使っている。何で彼女はぼくがそれだと知っている。

 そうだ。それは実際大事なことだ。ぼくは自分から一度だって名乗った覚えはない。なのに彼女はそれを知っていた。まったくもって胡散臭い。詐欺か。ドッキリか。どっちかは知らないが、ぼくを担ぐつもりだな。

 面白い。ぼくは唇のつり上がるのを禁じ得なかった。要はぼくを騙すつもりらしい。そっちがそのつもりなら、こっちも相応の流儀でいこう。ぼくはにやりと笑うと、アリスを名乗る女に、指をつきつけた。

「よし、じゃあ教えて貰おうじゃないか。きみはいったいどうしてぼくが一姫だと分かったんだい? この聖書には一枚だって一姫の似顔絵は書いていない。なのにぼくを見てそれと分かったのは、いったいどういった理屈なのかなあ」

 してやった。これでやつの化けの皮が剥がれた。詐欺師なら取り繕うための言い訳をするだろうし、ドッキリならここで種明かしになるだろう。さあこの女はどっちだ。

 だけど、女の表情は揺らがなかった。ばかりか、いたって落ち着いたしぐさでエプロンのポケットを探った。今気づいたが、彼女は長いエプロンをしている。そして傍らには湯の入った洗面器、そしてつい今の今までぼくが寝ていた枕の横に、きつく絞られた手ぬぐいが置いてある。まるでぼくを看護していたような様子だ。

 そんなアリスはエプロンから紙切れを一枚取り出すと、ぼくの膝元に放った。見ると、

「領収書、一姫二太郎様?」

 そうだった。ぼくはあのバーに一姫名義でウィスキィをキープしていて、会計のたびに領収書をもらう。アリスは家へと侵入した下着泥棒の正体を知るべく体を探っていて、この領収書を発見したそうだ。

 これで、またわけが分からなくなった。

 オウケイ、ならばぼくが造物主であることは受け入れてみよう。だが、それだったら造物主が何で飲み屋の領収書なんか持っていて、何で殴られて丸一日も寝込む。何で被造物の女とこう手の触れるような距離で言葉を交わしている。彼女らにとって造物主とは、何だ。ぼくにとって造物主とは、何だ。分からないことは多いが、しかし受け入れるほかになさそうだ。ぼくはそれ以上にいい手段で、今のこの立場を説明できない。

 よし、分かった。ぼくはこの世界の造物主だ。造物主といえば、ぼくの知る限りじゃ一神教の神だ。ぼくはこの世界でいえば、その神にあたるらしい。しかし神とは何と奇妙な立ち位置だろう。神の存在には懐疑的だったせいか、ぜんぜん気づかなかった。神のアイデンティティが、こんなにも希薄なものだったなんて。

 わが身の置かれた状況を判じかねて、ぼくはしばらく呆然とするばかりだった。

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