第65話.俺と水無月の結末

 そうして今、俺が抱き着かれるという状況に至る。


 いやどうしてこうなった?違うな、どうして先輩はここまで俺に付き纏ってくるんだ?ファンとは聞いたがここまでストーカー紛いなことをするだろうか?……ん、「ストーカー」……聞きなれた単語だ。


 一秒だけ時が止まったような気がした。無論俺の頭の中だけだが。



 なぜ、俺の読者はこんな性格が捻くれた奴ばかりなんだァァァァ!!!!



 俺が悪いのか?俺が書く作品のせいでこんな読者ばかり生み出してしまったということか?


 言語道断そんな計らいをした覚えは俺には一つも無いし、むしろ被害者だ。確かに読んでくれた人が喜怒哀楽感じてくれたらそれはそれとして俺にとって幸福だが、なぜこうなる!?


 まるで人を治すように作った薬が中毒症状を引き起こして悪化させてしまったようなものと同じではないか。まさか善意で書いたつもりが(勿論自分が書きたいという欲求もあったが)こんな人格を捻じ曲げるような兵器を産出してしまったとは…………居たたまれない…………


 とはいっても思惑通りに事が運ばないのが人生というもの。俺は諦めて現実の問題を対処することに専念した。 



「手を掴まれたら執筆がはかどらないんですが……どかしてくれませんか?」



 相変わらず俺の右腕は動かせない、つーか背中辺りが密着しすぎて蒸し暑くなってきたんだが……その上体重が乗せられて重たいし、そろそろ限界を迎えそうだ。



「だーーめ。けど、質問に答えてくれたら離してあげてもいいかなぁ」



 「はいはい、答えますよ」と俺は事を急がせる、体力の方もそうだが、何より抱き着かれている現場を神無月や水無月に見られたら事件ものだ。二人きりの部屋で一方的に抱き着いてきたなんて主張しても通じないだろう。



「じゃあ~~、昨日と同じ質問ね」



 まずい、これは嫌な予感しかしない。心の底か、知らんがどこかしらのセンサーが俺自身の身の危険を感じ取っている。



「さなえちゃんは……」


「俺にはいませんよ。信用できる奴はいるが、それも一方的だけ。俺のことを頼ってくる人間が存在するなんて、言えるわけないじゃないですか」


「ふふふ。まったくせっかちだなさなえちゃんはぁ。私はてっきり彼女はいるのかって訊きたかっただけんだけど~~。ふにゃぁぁ」


「だから、それを言ったんですよ。俺にはそんな人いない」



 「えっ!!そうだったの?」と唖然とする由井。どうしてあそこまで俺が口にしたのに伝わらなかったのか、呆れてしまうが。そうだ、俺は彼女に言ったように青春めいたことは一切していないし、しているとしても俺はそれを認めない。



「一応のところ、俺が信用している人間はいますけど、それでも門出に立っただけに過ぎない。それに俺が信用していても、相手から信用されているか不確かですしね」



 俺の捻くれ度合に観念したのか、由井先輩は黙り込んだ。やれやれ、俺は面倒事は嫌いなんだ。だからさっさと俺なんか呆れて離れてくれないだろうか、ファンであることは書き手として嬉しいが、ストーリーだけに留めて欲しい。現実は非情なんだ。



「……ふふ、聞いてたよりも面倒な人」



 ほら、呆れ返った返事だ。顔を見なくても声音だけでどんな表情をしているのかなんてすぐに読み取れる。



「でも…………分かるわ。さっすがさなえちゃんッ」



 しかし、ローテンションだった声色が普段の調子に戻ってしまった。何が彼女を沈黙に至らせたのか、数秒間思いつめていたあの時間は一体何だったのか。俺自身、彼女の謎を追い詰めようとしても辿り着くはずがない、どうしたってヒントや鍵になるものが今の俺には無いのだから。


 すると、俺が由井という謎の先輩の正体に耽っていると掴まれていた右腕は解放されていたらしく、マウスは自由に動かせるようになっていた。



「んーー!!もっとぎゅーーってするよ~~」



 だがしかしッ、右腕に代替するように俺の体全体がきつく締めあげられる感覚に陥った。暑苦しいという言葉の中の「苦しい」の一文字しか俺の脳内に浮かばなかった。一般的な男子高校生なら先輩の女子高生から抱きしめられたら、不幸中の幸いというか、不幸以前に幸福しかないかもしれないが……


 今の俺にはそこまで考えられない、誰に何をされているのか、という問題よりも、何をされているかしか頭に無かったのだ。


 ゆえに、俺は「ぐ、ぐげえ……苦しい」としか感情に無かった。



「ねえねえ。執筆家の早苗ちゃんに訊いてみたいことがあるんだけどいい?」



 「いいよ♪」なんて言えるかァ!!俺は肺が圧迫され呼吸がしづらくなるほどこの上なく苦しいし、そのせいか声も出しづらい。要するにどういうことかと言えば。



「えーーっとね、『嫉妬』って漢字あるじゃん?いつも思うんだけどなんでこの漢字って二文字とも女へんなのかな?やきもちって男の子だってやくものでしょ?女の子だけに断定するのは理不尽ってものでしょーー」



 知るかァ!!執筆家だから「どうやって執筆しているの?」とか「いつ書いているの?」だとか職業柄に関係することを聞いてくるのかと思いきや。まさか漢字の成り立ちを知りたいとは……俺の頭は百科事典でも検索エンジンでもないっての。しかも文字の話なら国語の教員にでも訊いた方が早いだろ。



「……まずはこの両腕を離してから……って痛いんですけど」


「あ。ごめんねーー。痛くするまで抱きしめようとは思わなかったんだよ」


「それでも抱き着く予定だったんですね……でなんで離してくれないんですか?」



 俺はこの巻き付いている彼女の腕を引き剝がすことを条件に、彼女の質問に答えようとしていたのだが。



「んーー?全部離すとは言ってないよーー、さなえちゃんが痛くならない程度でもぎゅってするぅ」



 相変わらず俺はしがみつかれたまま、由井の体が俺の背中に密着している。窓の外から蝉の悲鳴が聞こえてくるのと対照的に、俺は胸中で悲鳴を挙げる。どうにかして彼女から離れなければ、と。


 だから答えを知らない俺はあることないこと混ぜ合わせ、でっち上げることにした。



「女へんが多いのは漢字が作られた時代に女性の偏見が多かったからじゃないんですか?日本もそれ以外の国も昔は男尊女卑とか言われてたし、そのせいで男へんにするのは憚られたんだと思いますよ。何もどちらかの性を部首にしなくてもいいと、俺は考えますけどね」


「なるほどねーー。確かに平安時代とかは男の人が出向いてそれを女性が待つ、なんて古典の授業でそんな話あったし。でもさ同じ意味だけど『やきもちを焼く』って言葉は分からないのよね。嫉妬ならさっきの話で納得できるけどさ、なんで餅を焼くの?」



 いつの間にか国語の授業になっていないか?しかしそれでも尚、俺は答えなくては解放されないだろう。答えれば離してくれるという確固たる自信はないが。



「膨れるからですよ、物事が上手くいかなくて不満そうな顔をする時って頬を膨らませるでしょう?」


「そうじゃなくてさ。だったら餅じゃなくてもいいじゃないかなって、だってクッキーだって作る時膨れるよ?」



 そこかァ!!言葉の由来が分からないのではなく、その言葉がどうして選ばれたのかという選択理由を知りたかったのだ、しかし知るわけがなかろう……。



「クッキーなんて文字が作られた時代にあるわけないじゃないですか?しかもあったとしてもクッキーは西洋から生まれたんですよ?」



 考えられることと言えばそこに餅があったから……ん?この流れどこかで見たような……


「ああ、そういうことねーー」と由井。



「もしかしたら嫉妬している人がちょうど餅を食べていたからなのかもしれませんよ?」



 これはつまり既視感というやつ。デジャブの他にならない。


 ちょうど俺がある下校風景を回想していた時。どうして聞き覚えのある会話がこの場で繰り広げられたのか、俺がそのことを思い出してしまったのか。そう、あの時は「梅雨」という意味を明らかにしようとしていたはずだった。


 すると、突如古臭くてガタついている扉を開ける音が後方から聞こえた。




 俺がやっとのことで背後を振り返った先、つまりドアの元に立っていたのは水無月桜だった。



「ねえ、あなた何をしているの?」



 荒々しいほどの蝉の鳴き声に野球部の掛け声が遠くからでも部屋に響いてくる、夏らしさが溢れる部屋であるはずなのに、強烈な冷房機から生まれる冷気が一気に氷河期に至らせる。


 現在の状況。俺は廊下に繋がるドアを背に席に座り、由井先輩が俺の背中を覆うように抱き着いている。水無月はその現場を部室に入るやいなや、目に焼き付けてしまった。以上である。



「い、いや……俺はただ小説を書いていただけなんだが……」



 恐ろしくて後ろを振り向けない……いや俺と水無月の間には作家、編集者の仲でしかないはずなのだが、今は別問題だ。場所が悪いのだ場所が。


 しかもそれを助長するかのように俺の背後に憑りつく人は言った。



「ええーー違うでしょーー。私はさなえちゃんに彼女さんはいないのかなぁって聞いてたんだよ」


「違うって!!何言ってんですか先輩っ」



 本当に何を言い出すかと思えば、とことん俺にとってマイナスになる発言ばかりだ。これは水無月に弁論するよりもまずは由井先輩に話をつけなければ。


 だが、心なしか俺の顔の横にある先輩の表情を見るとニヤニヤしている。これは例外なく危険信号を示していることのほかならない。



「そういうことね、曲谷くん。いつも思っていたけれどまさか、ここまで酷い羽虫に成り下がってしまったとは……また同じ罪を……」


「罪……?まてまてまてまてどういうことだ?」


「いえ……あなたには関係の無いことよ、私が成さなくてはならないこと、それ自体に変わりはないわ」



 冷徹至上主義の編集者の声音が雪解けをするように柔らかく、そして温かみを持ってくるのが読み取れる。しかし俺にとってはそれ以上に無いほどの「冷たさ」であることには十分知っていた。


 母親が子供を怒らなくなることは子供にとってマイナス効果であるように。愛の反対は憎しみではなく気にされないという無関心であるように。


 まさに俺はその「愛」とやらの真意を見極める佳境にいるということだ(決して好意ではない、友人としての愛)。


 彼女が俺の今の状況と何を罪として捉えているのか、俺にはさっぱり分からなかったが脳裏には「拒絶」という言葉が浮かび上がった。 



「いやそれはきっと違うはずだ……俺はこの状況になって欲しいと願ったわけじゃない、勿論女性に抱き着いて欲しいとも……」


「私がそれを簡単に「はい、そうですか、なら誤解でしたすみません」と言うと思うかしら?」


「ああ、確かにあんたはそんな単純な理由で納得するような人でも作者でもない。だからといって俺は本当のことを言っているんだ」



 俺は自分が、今この場で起きていることを引き起こしたのではないことを知って欲しい。だがそれは叶わぬ願いなのだろう。ただ闇雲に願っても叶うわけがないように。努力が同時に必要だというように。今の俺は訳を証明できる何かが必要なのだ。



「そう……。でも私はあなたが自分の作品を出汁に使ったようにしか思えないわ。たとえあなたが素晴らしい作品を作っても、生み出しても。それに助力した私は嬉しくない」



「だから……」と俺の抗う言葉を憚る水無月。



「だから私はあなたの作品に関わることはもう辞めるわ。私が今のあなたを生み出したもとも言えるのだし、その責任としてね」



 水無月の口から水のように流れ出ていく言葉。その水をせき止めようとしても流れ続ける水を留めることは出来ない無力な俺。



「……では、今までありがとう。曲谷……いえ早苗月先生……」



 砕けた言葉と今まで一度たりとも出さなかった「ありがとう」という感謝の言葉。


 ドアを開き、ただ閉じただけのはずの彼女の動作に全く違った意味を持っているのだと俺は気付いたのだが。気付くだけで俺は何も出来なかった。



「あーーーーあ。これじゃ嫉妬じゃなくてだね、さなえちゃん」



 そして、俺でも水無月でもない声が部室を響かせたのだった。

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