第8話 10月22日(2)


 12時。噴水前。




 メニーが傘を差して歩いてきた。


「あ、お姉ちゃん!」


 傘をぎゅっと握り締め、温かそうな上着を着たメニーが走ってくる。あたしの前で立ち止まり、微笑んだ。


「今日はサガンさんのところでしょう?」

「ええ」

「お昼代、貰ってきたの」

「でかしたわ。メニー。行きましょう」


 目指すのは三月の兎喫茶。二人で足並み揃えて道を歩く。


「お姉ちゃん、あの後大丈夫だった?」

「土曜日のこと?」

「うん」

「平気」


 次の日の不機嫌キッドを見た後では、まだあのキッドは可愛い坊やだと思えた。


「あんたはちゃんと帰れた?」

「うん。リトルルビィとソフィアさんが送ってくれたから」

「そう。良かったわね」

「三連休ね、リトルルビィと久しぶりに遊べたの。それで、土曜日にね、リトルルビィがホームズの本読みたいって言うから、今日持ってきたんだ」

「あら、残念ね」

「ん?」

「休んでるのよ。リトルルビィ」


 メニーがきょとんと瞬きした。


「ん……。そうなの?」

「ええ」

「体調不良?」

「さあ?」

「何も聞いてないの?」

「休む、としか聞いてないわね」

「そっか……」


 メニーがしゅんとする。しかし、また顔を上げる。


「アリスちゃんは?」

「アリスも休み」

「アリスちゃんも?」

「アリスは体調不良だって」

「……そっか」


 二人で道を歩く。雨は小さく降っている。


「お姉ちゃん」


 メニーがあたしを呼ぶ。


「あのね、今日」


 メニーがあたしに言った。


「今日、屋敷の人、全員が悪夢を見たらしいの」


 あたしとメニーは歩き続ける。


「私は見てないんだけど、お母様も、お姉様も、クロシェ先生も、ギルエドも、他の皆も、私以外、皆、悪夢を見てるの。こんなことあると思う?」

「……メニー」


 あたしは訊く。


「痣は?」

「あった」


 メニーが頷く。


「お姉様、見せてくれたの。あのね、足にあった」

「足?」

「指の付け根部分。まるで足の指が切られたみたいな痣。お姉様、履けないガラスの靴を履こうとした夢を見たんだって」


 あたしは黙った。


「その靴を履いたらね、すごく幸せになれるんだって。だから履こうと頑張ったんだけど」


 トリック・オア・トリート!

 きゃあああああああああああああああああああああああああ!!!


「足の指、切られたんだって。靴を履くために」


 メニーがはっとする。


「あ、もちろん、夢の中での話だよ? 実際のお姉様の足の指は綺麗に揃ってる」


 痣は残ってるけど。


「……お菓子渡したのに、ジャックが悪夢を見せてきたんだって」

「……お菓子を渡したのに?」

「お姉様、毎日枕にお菓子置いてたの。でもね、目を覚ますと、絶対にお菓子が無くなってたんだって。だから、お姉様、毎晩ジャックに会ってたんだと思う。忘れてただけで」

「……」

「お姉様はジャックに悪夢の記憶を消されてたのかもしれない」

「……」

「お姉ちゃんは見た?」

「……あたしは見てない」

「そう」


 メニーが微笑む。


「……良かった」


 あたしの腕が伸び、三月の兎喫茶の扉を開ける。今日は少し混んでる。商店街の人たちがランチを食べに来ていた。

 あたしとメニーが入ると、サガンがチラッと見た。カウンターにいた人たちも扉の音につられて振り向く。数人があたしに微笑んだ。


「やあ、ニコラ」

「どうも」

「こんにちは」

「ごきげんよう。ニコラ」

「こんにちは」


 あたしは顔の知ってる人たちに挨拶を返し、サガンを見る。


「こんにちは。サガンさん」

「空いてるところ行け」

「はい」


 あたしはメニーを連れて、手前のテーブル席に座る。二人だけで気が引けるが、カウンターは空いてないからここしかない。メニーとメニューを見て、せわしなく料理しているサガンに声をかける。


「サガンさん、ランチセット二つで」

「飲み物は?」

「ホットミルクと珈琲」


 サガンが頷き、またフライパンを振る。カウンターに座ってた八百屋の従業員のジミーが勝手にグラスを取り、水を汲み、あたしに向けて二つ差し出した。


「ほらよ、ニコラ」

「あ、すみません。ありがとうございます」


 カウンター席にグラスを取りに行き、受け取ってから再びテーブル席に戻る。メニーに渡す。


「ん」

「ありがとう」


 あたしは再び座る。メニーと同じタイミングで水を飲む。

 窓ガラスは、雨で濡れている。

 リトルルビィがいなくて、アリスもいない。

 いるのは義妹のメニーと、あたしだけ。

 二人で窓を見る。雨が降っている。小雨の雨は止みそうもない。


 カウンター席からは、愉快な笑い声が聞こえてくる。


「はっはっはっは!」

「お待ち」


 サガンが皿を置くと、料理を待っていた魚屋の従業員のスタンリーが、サガンに笑いながら声をかけた。


「はっはっはっ! おい、サガン、聞いてくれよ!」

「スタンリー、忙しいのが見えねえのか」

「いいから見てみろって! ジミーが可哀想なんだよ! こんなところにジャックの痣が! がっはっはっはっはっ!」


 メニーがちらっと、カウンターを見る。ジミーが帽子を被り直していた。


「うるせえよ! 人の頭をじろじろ見るんじゃねえ!」

「がっはっはっはっ! なんでお前のはげた頭にそんなでかい痣を! あっはっはっはっはっ!」

「うるせえって! 馬鹿野郎! ……なあ、サガン、お前は? 痣ないのか?」

「背中にある」


 あたしは耳をそっちに向けた。


「背中か。またどんな夢を見たんだ?」

「……今日は皆ジャックにやられる日らしいな」


 サガンが呟くと、スタンリーが得意げに話し出した。


「俺、カミさんに殺される夢見ちまってよ。もう朝からひやひやしたもんさ。あんだけ『愛してるわ、あんた』って言ってくれてるあいつがよ、包丁持って俺を刺すんだぜ。正夢にならないように、今日はなんか買ってくよ」

「浮気と勘違いされて刺されないようにな」

「おいおい、サガン、やめてくれよ。俺にはあいつだけだよ。……まあ、若くてセクシーな姉ちゃんを見たら、そうも言ってられないけどな!」


 スタンリーがまた笑う。ジミーもクスクス笑っている。サガンが腕に料理の皿を持ち、トレイには飲み物を乗せてカウンターから出た。あたし達に運んでくる。


「お待ち」


 ランチセットのメニューがテーブルに並べられる。


「ごゆっくり」


 サガンがカウンターに戻り、次の料理を始める。カウンターではスタンリーとジミー以外の皆も、ジャックの痣について話している。


「俺もここについてるぜ」

「酷い悪夢だった」

「全くなんでこんな時に仕事かね」

「こんな時だからこそ動かねえと」

「嫌だよ。家で昼寝してたいぜ」

「ジミー、今日飲みに行こうぜ」

「サガン、お前はどうする?」


 サガンは黙って料理をする。珈琲を作る。時々パイプを咥えて、また料理を作る。カウンター席の人々は楽しそうに談笑し、ランチを食べる。

 あたしとメニーは両手を握る。


「……いただきます」

「ます」


 ぼそりとメニーが続けて言って、ランチを食べる。

 メニーの顔が、少し曇っている。

 あたしは炒めた野菜を食べながら、メニーを見る。


「どうしたの? 美味しくないの?」

「……ご飯は美味しい」


 だけど、


「…ジャックのことで話が持ち切りだと思って」

「今日だけよ」


 あたしは野菜を食べる。


「多分、多くの人がジャックの悪夢を見てるのよ」

「今日だけ?」

「ジャックも大暴れしたかったんでしょ」


 あたしは野菜を食べる。


「現に、あたしは見てないわ。あんたも見てない。つまり、見てない人もいるのよ」

「……こんなに大勢の人が見たのは初めてじゃない?」

「今日だけよ」

「……そうかな」

「何よ。怖いの?」


 訊けば、メニーが素直に頷いた。


「怖い」


 メニーが正直に言う。


「怖いよ」


 メニーが野菜を食べる。


「だって、得体のしれないものが暴れてるんだよ?」


 あたしは野菜を食べる。


「怖いよ。どう考えても」

「今日だけよ。何も怖くないわ」


 あたしは食べる。

 炒めたキャベツを、玉ねぎを、パプリカを、食べる。

 もぐもぐ食べて、飲み込む。


「メニー、ドリーム・キャンディでお菓子を買っていけば?」

「……そうしようかな」


 メニーが窓を見た。

 あたしはフォークを野菜に突き刺して、腕を止めた。


(ん?)


 あたしはフォークを見つめた。


(ん?)


 あたしはじっと見つめた。


(あれ?)


 なんか、思い出せそう。


(あれ?)


 あたしは少し、深呼吸をした。


(うん?)


 頭の中にあったどこかの扉の鍵が開いた気がして、あたしはドアノブをひねってみた。その瞬間、一瞬にして、全ての記憶が脳裏を駆け巡った。



 君達を助けに来た! 上には応援がいる! 早くここから出るんだ! 硬く閉ざされていた扉から、誰かが高らかに声をあげる。子供たちは喜び、慌てて立ち上がった。あたしも喜んだ。ああ、これで助かるのね! こんな狭くて殺風景な部屋から、ようやく出られる。きっとママが手配してくれたんだわ! ママ! ママはどこ? ママ! きょろきょろと探しているうちに、どんどん子供たちは逃げていく。え……ママは……?さあ、君。逆光で顔が見えない誰かが、あたしの腕を引っ張った。大丈夫。さあ、立って。やっ。あたしはその手を払い、うずくまる。ママじゃないと、いや! この人、誰? ママ、怖い、ママ、ママ……! 大丈夫。怖くないよ。さあ、立つんだ。あっ。無理矢理引っ張られて、あたしのすくむ足が立ち上がる。がくがく震える足が誰かに引っ張られることでようやく動き、狭い部屋から出た。階段を上り、あたしはドレスを握る。ママ、どこなの? ママ……。怖い……。ママ……。階段を抜ければ、白い扉が見えた。ここまでくればもう大丈夫。走るよ。レディ。お逃げください! やめろおおおおおおお!! 走ってくる音。俺の楽園に手を出すな!! ひっ! あたしの足がすくんだ。走って! きゃっ。あたしが転んだ。あ。誰かの手が離れる。誰かが声を漏らして、あたしに振り向いた。邪魔する奴は殺してやる!! っ。あたしの後ろから、怒鳴り声が聞こえる。お逃げください! 危険です! あああああああああああああああああああ!! こっちに走ってくる音が聞こえる。あたしは身を縮こませた。ひっ……! っ。誰かがあたしの前に出た。その瞬間、あたしに温かい水滴がついた。え…? 包丁で何かを刺す音が響いた。何度も刺す。何度も刺す。あたしではなく、誰かを刺す。あたしは振り向く。男が子供を刺している。何度も何度も刺している。やめて! 刺さないで! あたしは傍には行けない。やめて! 殺さないで!あたしは傍で見ることしかできない。やめて! やめて! やめて! その人は、既に動かない。殺さないで!! あたしは手を伸ばした。瞬間、お腹を刺された。あたしは見下ろす。包丁が、あたしのお腹を突き刺している。あ。僕のものだ! いつの間にか、あたしが男の下敷きになり、男があたしの腹を突き刺す。っ。僕の楽園だ! 男があたしを突き刺す。っ。僕のものに手を出すな! キッドではなくて、あたしを突き刺す。この! っ。ああ! っ。あああああああ!! っ。あたしの手が、地面に倒れた。それでも刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。





 さ   す    。















































「お姉ちゃん!!」









 いつの間にか閉じていた瞼を上げると、ジミーがあたしの顔を覗き込んでいた。

 すぐ横には、顔を青くさせたメニーがいる。


「お姉ちゃん! 大丈夫? お姉ちゃん!」

「ニコラ、大丈夫か?」


 あたしはぱちぱちと瞬きをする。

 ジミーが心配そうに手を伸ばし、あたしの額を触れた。


「熱はなさそうだな」


(……ん? あたし、なんでテーブル席の椅子で横になっているんだろう?)


 サガンもカウンターから出て、あたしの様子を見に来る。


「ニコラ、気分は?」

「え?」


 あたしは体を起こし、きょとんとする。


「何かあったんですか?」

「何かあったんですか、じゃねえよ」


 サガンが呆れたようにため息をついた。


「うちの店で倒れるなんて変な実績残しやがって。今日はお前のせいで店が赤字だ」

「……倒れた?」

「お姉ちゃん、具合悪くない?」


 メニーがあたしの顔を覗き込む。あたしは首を振る。


「……あの、特に……」


 特に?


「特に……」


 見下ろせば、刺さった包丁の場所には何もない。


「……」


 お腹の、へその近く。


「……」


 あたしの手が自分のお腹を撫でた。


「……」


 あたしはチラッと、テーブルに残されたお皿を見た。

 キノコが入っている炒めた野菜達を見た。


(キノコ……)


 キノコを食べると、呪いが解ける。思い出す。


(……)


「お姉ちゃん」


 メニーが声を眉を下げて、あたしに声をかけてきた。


「今日はもう早退したら? こんな具合だし……」

「その方がいいかもな。どれ、俺が言ってくるよ」


 ジミーが一歩歩き出すのを見て、あたしは慌てて止めた。


「あの、ジミーさん、大丈夫です」

「ニコラ」


 スタンリーがカウンター席からあたしに体を向ける。


「頑張るのはいいが、無理はいけねえよ。今日の商店街はお客さんも少なくて静かだし、早退しても大丈夫じゃねえの?」

「あの、今日お店、休みが多いんです。ジョージさんとカリンさんと、あたししかいなくて……」

「事情言えば休ませてくれるだろうさ。ニコラはまだ14歳だっけか? 俺の息子より全然若い。無理はいけねえよ」

「えっと……」


 あたしがスタンリーに言葉を詰まらせると、サガンが腕を組んだ。


「ニコラ、動けることは動けるか?」

「はい」

「そうか。ならとりあえず、事情だけ二人に話せ。で、どうしても無理そうだったら帰れ」

「分かりました」

「というわけだ。ジミー、ここはニコラに任せるぞ」


 サガンがカウンターに戻り、パイプを吸い始める。ジミーも「無理はするな」とあたしに言ってからカウンター席に戻る。あたしも椅子に座り直し、時計を見る。12時45分。


(……まだ休憩出来る)


「お姉ちゃん。お水」


 メニーがあたしに水を渡す。


「ん。ありがとう」


 受け取って水を飲む。水が喉を通過する。食道を通り、胃の中へと入っていく。そのお腹には、痣が残っているだろう。


「……」

「お姉ちゃん、本当に大丈夫……?」

「大丈夫」


 あたしは答える。


「大丈夫よ」


 おそらくあたしは、魔法が解けたショックが大きすぎて、追いつけなくて、つい、気を失ってしまったのだろう。


(……あたしは、ちゃんと悪夢を見てたのね)


 ジャックは、あたしに会いにきた。

 そして、また記憶の扉に鍵をかけたのだ。思い出させないように。


(……一体何がしたいの? ジャック)


 あたしは再び、水を飲んだ。




(*'ω'*)






 16時。ドリーム・キャンディ。



 鳩時計が鳴り、あたしの勤務時間が終了。

 カリンが厨房の掃除をしていたあたしに声をかけた。


「ニコラちゃん、もういいわよぉ」

「はい」


 モップをロッカーの中に入れると、カリンがあたしの顔を覗き込んできた。


「具合どぉ?」

「もう大丈夫そうです」

「そぉ!」


 昼間のことを話すと、裏の仕事を任された。厨房や、裏の倉庫の整理や掃除。売り場に出ることはなかった。カリンが心配そうに眉をへこませてあたしを見る。


「今日はまっすぐ家に帰ってねぇ」

「はい。そうします」


 笑顔で返事をしながら、心の中では違う事を考えた。


(レオも悪夢を見ているかもしれない。そのことについても話し合わないと)


 厨房の流し台で手を洗ってから、荷物を取りに荷物置き場に行く。ぽつんと置かれたジャケットを着て、リュックを背負い、売り場に戻る。


「お疲れ様でした」


 言うと、棚を見てたカリンとレジで雑誌を読んでたジョージが微笑んだ。


「お疲れ様ぁ。ニコラちゃん!」

「お疲れ様。ちゃんと帰って休んでね」

「はい」


 頷いて店を出る。お昼以降、目眩はなかった。


(さて、行こう)


 あたしは傘を差して商店街の道を歩き出す。


(レオが待ってる)


 雨は静かに降っている。


(最初の日みたい)


 レオと初めて待ち合わせた日も、雨が降っていた。


(もっと大きい雨だったけど)


 地面が濡れる。靴が濡れる。それでも雨は降る。

 あたしは路地裏を歩く。建物の間をくぐり、近道を行く。狭い道を抜けて、広い道に入って、しばらく歩くと、やがて公園が見えてくる。あたしは足を運ぶ。公園に入る。ガゼボに向かう。

 雨が降る。

 あたしは道を歩く。

 雨が降る。

 公園には人気がない。

 あたしは歩く。

 子供達が騒いでいる。


(……ん?)


 湖付近で、数人の子供達が慌てふためいていた。


「僕、誰か呼んでくる!」


 一人が走り出す。


「どうしよう!」

「ふええええん!」

「どうしよう、どうしよう!」


 あたしの足が子供達の方へ向かって歩き出す。


「どうしたの?」


 声をかけると、子供達があたしに振り向いた。

 皆、涙目だ。

 一人があたしに近づき、また泣きそうな顔で唇を震わした。


「あの、中に、あの、取り残されて……」

「え?」

「泳いでて、急に足が痛いって言って、戻れなくなって……」


 湖を見ると、ばしゃばしゃと水が叩かれる音が聞こえる。


(んっ)


 あたしは目を見開く。

 湖の奥に、誰かがおぼれている。


(えっ)


 あたしは子供達に訊いた。


「お、大人は?」

「今クリスが呼びに行ったよ!」

「間に合わないよ!」

「ふえええん……!」


 ばしゃばしゃと、水が叩かれる音が響く。


(どうしよう)


 あたしは考える。


(どうしよう)


 あたしは溺れた子供を見る。


(どうしよう)


 近くにあるガゼボに叫んだ。


「レオ!!」


 出てこない。


「いないの!? レオ!」


 あたしは怒鳴った。


「レオってば!!」


 誰もいない。

 レオは来ていないようだ。


(あの役立たず!)


 だが、あたしは何も出来ない。


(どうしよう)


「ええええん!」

「びええええん!」

「ふえええん!!」


 子供たちが泣きわめく。


(どうしよう)


 心が焦る。


(どうしよう)


 あたしはきょろきょろと辺りを見回した。


(どうしよう)


 見回すと、馬の音が聞こえた。


(え?)


 ドカドカと走ってくる、馬の足音が聞こえる。


(馬の音?)


 振り向くと、黒馬がこちらをめがけて走ってきていた。


「うおおおおおおおおおおおおおお!!」


 グレタが叫びながら黒馬を走らせていた。


「事件の匂いだ!!」


 グレタが走る黒馬の背中に立ち上がり、強く黒馬の背中を蹴った。


「うおおおおおおおおお!!」


 制服のまま湖に飛び込む。


「うおおおおおおおおおお!!」


 溺れる子供に向かって全力で泳ぐ。


「うおおおおおおおおおお!!」


 溺れる子供を抱いた。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 叫びながら泳ぎ、陸に子供を投げた。


「どっせーーーーーーーい!!」


 子供たちが投げられた子供を受け取る。グレタがその勢いのまま、陸に上がった。グレタの鋭い目が、威圧的に子供に向けられる。


「少年! 意識はあるか!」

「だ、大丈夫です……」


 咳をしながら子供が返事をする。数人の子供達が取り残されていた子供を囲んだ。


「大丈夫か!?」

「怪我は?」

「ああああああん! 無事でよかったーーー!」


 泣きわめき、抱きしめ合う。それを見て、グレタが叫んだ。


「本当に無事で何よりだーーーーー!!」


 そして子供達を抱きしめる。


「ひえ」

「ひゃっ」

「うわっ」

「あばばっ」


 子供達がグレタに悲鳴をあげるが、グレタは満足そうな笑顔で子供達を抱きしめる。あたしはほっと胸をなでおろし、上から下まで全部濡れたグレタを見下ろした。


「グレタ」

「むっ!? ニコラ! 足が濡れているぞ!」


 子供達を離し、立ち上がったグレタがポケットから濡れたハンカチを取り出し、あたしに差し出した。


「これで拭くといい!」

「濡れてるわよ」

「はっ! しまった!」


 グレタがショックのあまり、膝から崩れ落ちた。


「くそ! 小雨にもやられるなんて! 雨め! なんて害悪なんだ!!」

「ねえ、それより、あの子、病院に運ばなくていいの?」

「ああ、心配はいらない! 今、馬車を用意させている」


 ひひーん。ぱから、ぱから、ぱから。

 馬が止まり、カッパを着た御者が子供達に顔を向けた。


「さあ、お友達も中にいるよ。皆乗って。病院に行きますよ」


 子供達が頷き、大人しく馬車に乗り込む。

 あたしは天に向かって歯を食いしばるグレタを見下ろす。


「ねえ、グレタ、レオは?」

「はっ!」


 グレタが立ち上がり、あたしを見下ろす。


「そうだ。ニコラ、そのことについて君に言っておきたいことがある!」

「うん?」

「リオン様は、本日ご気分が優れないようなんだ! それにこの天気だ! 今日は帰りなさい!」

「あら、そう」


 あたしは頷いた。


「分かった。教えてくれてありがとう」

「とんでもない! 気を付けて帰るんだぞ!」

「ええ」


 グレタが黒馬に乗った。


「行くぞ! アレクちゃん!」

「ひひーん!」


 馬車とアレキサンダーが走り出す。あたしはそれを見送り、白い息を吐いた。


(レオも今日はお休みなのね)

(リトルルビィもお休み)

(アリスもお休み)


 皆、体調が悪くなる。


(……帰ろ)


 あたしは言われた通り、大人しく帰ることにした。


(昼間倒れたし、空気が悪いのかも)

(帰ろう)


 さっきまで慌ただしかった湖には何もない。

 静かに雨が降っているだけ。


「はあ……」


 あたしは息を吐く。白い息を吐く。一歩、足を動かす。


 動かそうとした時、




「ニコラ」






「ん?」


 レオの声が聞こえて、振り向く。

 しかし、そこには何もない。

 ガゼボがあるだけだ。


「……レオ?」


 あたしは声をかけた。


「いるの?」


 誰もいない。


「……」


 あたしは眉間に皺を作る。


(……気持ち悪い……)


 レオがいないのに、レオの声がした。


(きも……)


 あたしはガゼボに背を向けた。


(帰ろう。あたし、疲れてるんだわ)


 あたしは歩き出す。


(そうだ。時間もあるし、リトルルビィの顔を見に行こう。……あの子、大丈夫かしら……)


 そう思って、目的地を変更する。

 あたしの足がリトルルビィの家に向かって歩き出す。

 公園から離れる。路上を歩き、雨の降る道を歩き、傘から頭を出すことなく、まっすぐリトルルビィの家に向かって歩く。


 しばらく歩けば、リトルルビィの小さな家にたどりつく。あたしは扉をノックする。


「リトルルビィ。ニコラよ」


 言うと、返事はない。


(……?)


 もう一度扉をノックする。


(留守?)


 あたしは窓を見てみる。


(部屋は暗い)


 留守だ。


(……体調悪いと思ってたけど、どこか行ってるのかしら)

(……)


 まあ、明日になったら、さすがに来るでしょう。


(……帰ろ)


 あたしはリトルルビィの家に背を向けた。


(今日は大人しく、帰ろう)


 あたしは帰り道を歩き出した。






(*'ω'*)




 18時。帰り道。




 あたしはふと、気づいた。


(……あれ?)


 明かりがついてない。


(……)


 ドアノブをひねってみると、鍵がかかっている。

 リュックから苺ケーキに埋もれたキッドのストラップがついた鍵を取り出し、差込口に挿した。かちゃりと音が鳴って、あたしはドアノブをひねる。扉が開いた。やっぱり明かりはついてない。


「ただいま」


 暗い家の中に入る。玄関の明かりをつけて、扉に鍵を閉めて、廊下を渡り、リビングに入る。明かりはついてない。あたしはリビングの明かりをつける。明かりをつけたら、玄関の明かりを消す。また廊下を渡って、明るくなったリビングに入る。


 じいじはいない。


「……」


 帰ってきていないようだ。メモも朝のまま、残されている。


(まだ城にいるのかしら)


 荷物をソファーに置くと、突然電話が鳴った。


「ぎゃっ!!」


 美しくない悲鳴をあげて、電話を見る。電話が鳴っている。あたしは慌てて電話に駆け寄る。受話器を取った。


「はい!」

『テリー様ですか?』

「あ」


 あたしは聞こえた声に、ぱっと表情を緩ませた。


「Mr.ジェフ」

『どうも、こんばんは』

「こんばんは。貴方から電話なんて珍しいわね。どうしたの? ビリーならいないわよ?」

『ええ。そのことでビリー様から伝えてほしいと言われまして』

「うん? 何かあったの?」

『どうやら、本日はそちらに戻ることが出来ないようでして、夕食はご自由に取ってほしいとのことです』 

「ああ、分かった。冷蔵庫に何かあったと思うし、適当に作っておくわ」

『もし、もし寂しいようであれば、このジェフ、妻と共にそちらに向かいますが……!』

「大丈夫よ。奥さんと楽しい食事をして」

『ははっ。お気遣い誠にありがとうございます』

「伝言ありがとう。また近いうちに顔を出すわ」

『ええ。いつでも待ってますよ』

「おやすみなさい」


 電話を切る。部屋はしんと静まり返っている。


(……今日、ビリーは帰ってこない。キッドも帰ってこない)


 この家には、あたし一人。

 あたしは俯く。


(あたし、一人)


 部屋は静かで、暗い。


(一人……)


 あたしは顔を上げる。


「一人だぁぁぁあああああああ!!!」


 あたしは喜び、大歓喜し、その場で飛び跳ねる。


「やった! やった! 何しても怒られない! 問題集さぼっても怒られない! だらしなくしても怒られない!」


 あたしは飛び跳ねる。


「やった! やった!」


 あたしは満面の笑みでくるくる回る。


「自由の時間よー! 一人の時間よー!」


 肩を揉む。


「人と関わりすぎて、一人になりたかったのよ!」


 あたしは笑顔を浮かべる。


「よっしゃあ! 何作ろうかな!」


 冷蔵庫を開ける。


「食材はあるわ!」


 あたしは仁王立ちし、鼻を鳴らす。


「気合が入るわね!」


 腕の袖をまくる。


「いいわ! あたしのためにあたしが好きなものを作るわ! そうね! 何がいいかしら!」


 あーーー、そうだ!!


「ハンバーグ作ろうっと!!」


 あたしはるんるんして、手を洗い出す。


「一人♪ 一人♪ 自由の時間よ♪ あたしは自由よ♪ るんるんるーん!」


 この安全な家は、今夜だけあたしのもの。


「ふっふふー! カードゲームしようっと!」


 あたしは笑いながら冷蔵庫から材料を取り出し始める。





 そして、毎日寝る前に来ているキッドのうざいおやすみメッセージも、今夜だけ来ることはなかった。






( ˘ω˘ )




「ジャック」

「私はね」

「後悔してる」

「この世に生まれたことを後悔してる」

「私はどうして生まれたんだろ」

「なんで母さんは私を産んだんだろう」

「ねえ、ジャック」

「貴方はどうやって生まれたの?」

「どうやってその形を作ったの?」

「貴方は生きてるの?」

「貴方は死んでるの?」

「貴方はお化け?」

「貴方は人間?」

「どっちでもいい」

「私は未来なんていらない」

「この年まで生きてきた」

「でも未来なんていらない」

「ジャック」

「人が人を殺すとどうなるの?」

「なんで殺しちゃいけないの?」

「私、分からないの」

「殺すことは悪いこと?」

「命を奪うのは悪いこと?」

「悪いことなら、どうして私達は生き物の肉を食べてるの?」

「どうして、グルメ、とか言って料理をしてるの?」

「ねえ、おかしくない?」

「私はどうしてそこまでして生きてるの?」

「ああ、帽子の絵が描きたい」

「ジャック」

「ああ」

「手がうずくの」

「ああ」

「私は欠けてる」

「ああ」

「ジャック」

「今日も見せてくれる?」

「怖いのがいいわ」

「見せて」

「私に恐怖を」

「見せて」

「この衝動を抑えるための恐怖を」

「ああ」

「手がうずく」

「ああ」



「殺したい」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る