第一章 黄昏の森編

第1話 剥がれ落ちた!

 階下の両親の生活音に震え、朝夕に窓の外から聞こえる、登下校の生徒たちのおしゃべりに怯え、毎週訪れる土曜と日曜に後ろめたさを感じる今日この頃。

 俺の世界はこの部屋の中だけ。

 人生、楽な道ばかりを選んでいると、いつのまにかより苦しい道が待っている。1年も引きこもっていると心も体も弱り切ってしまい、社会復帰のハードルは、走り高跳びの世界記録ほどの高さになってそびえ立つ。 


     ◆


「くっそ」

 俺はコントローラーを投げ捨てた。せっかく育て上げたキャラクターがボスキャラにまったく歯が立たなかったからである。さすがにハードモードを選んだだけあって、そう簡単にはクリアーさせてくれない。俺は、人生はイージーモードばかりを選んできたが、ゲームだけは毎回必ず、初見からハードモードを選ぶ。何故なら新しいゲームを入手する機会がそうはないからだ。要するに金が無い。簡単に攻略してしまっては長く遊べない。長く遊ぶと言えば、イベントは全クリアーするし、トロフィーも全部集める。この執念深さが勉強に向かえばどれだけいいかと思うこと数知れずだ。

「あーあ、明日はどうするかなぁ」

 俺は腕を組んでクッションにもたれかかった。

 明日から新学年なのである。この1年近く、不登校の引きこもりであった俺が、学校に復帰する良い機会なのだ。

「ぐふ……」

 涙が頬を伝う。どうしてこんなことになってしまったんだろう。家庭環境が特別悪いわけでもない。成績だって普通だったし、ひどい虐めにあったわけでもない。それなのに、俺は自室という要塞だか牢獄だか分からないところに閉じこもって、ゲームとアニメと漫画と小説三昧の不健康な生活を送っている。もちろん昼も夜もない。

 高校生時分の1年を失えば、それはもう浦島太郎だ。この期間は取り返しがつかない。友達と下らない冗談で盛り上がったり、缶ジュース片手に公園で何時間も話し込んだり、そんなたわいないことがどれだけ素晴らしいことだったか、どれだけ得難いことだったか痛感させられる。

「ぐすんぐすん」

 嗚咽が始まった。涙と鼻水が止まらない。もう一度普通の高校生活が送りたい。晴れた日は笑いながら街路樹の下を歩きたい。コンビニでフライドチキンを買い食いしたい。だけど外界へ飛び立つ恐怖を思う時、心は空想に向かってしまう。

「剣と魔法の世界に行きたいなぁ」

 ファンタジーの世界観はこういうとき強く俺を魅了する。そしてゲームのスイッチを入れたり、本を手に取ったりすると手軽にその世界に浸れるのだ。

 俺はごろんと仰向けになり天井を眺めた。天井の向こうには青空が広がっているはずである。


     ◆


 次の日、俺は午前7時きっかりにベッドから跳ね起きた。カバンに筆記用具やノートを詰め込む。新学年だからまだ教科書はない。再出発に向けてカバンが軽いのは嬉しいことだ。学生服を着て、上から順にボタンをかけていく。

「よしっ!」

 このまま終わりたくない。勇気を出すんだ。「いつやるか、今でしょ?」という言葉は至言だと思う。その「今」の連続を浪費して俺は生きてきた。勇気を出すんだ。

「まずこの部屋を出よう」

 俺はドアのノブを握り右に回した。だけどそれと同時に圧倒的な恐怖と不安に襲われた。

「やっぱり無理だ!」

 俺は振り返ろうとした。


 ベリベリベリッ


 ドアが開くにしてはおかしな音が鳴った。そして俺はドアを開け放ち、廊下へ出ていく俺の背中を見ていた。

「ああ、あいつ、自分に勝ったんだな」

 確かな決意をその背中に感じながら、俺は暗くなる視界の中、妙な浮遊感に捕らわれていた。


     ◆


 真っ暗闇だ。何も見えない。その割に不安がないのは体がフカフカしたものに包まれていて、ベッドの中にでもいるような心持ちだからだ。しかし一寸先も見えない暗闇の中、いつまでもこうしてはいられない。とりあえず俺は闇に向かって手を伸ばしてみた。

 コツンと感触。

「壁か」

 俺はその壁に手を当てて立ち上がった。壁伝いに数歩も歩くとまた壁に当たった。しかし今度の壁は頼りなくギイギイと音がする。思い切り押してみると、闇に慣れた目を射る日光。

「眩しい」

 俺がいた場所、そこは藁(わら)を敷き詰めた小屋であった。学生服についた藁を払いながら、前の通りに出てみる。

「なんだここは?」

 通りは舗装されておらず砂の道である。木造りの家が並んでいるが、どれもこれも蔦にまみれ、苔むしており、寂れ果てた田舎の村といった佇まいである。

 訳が分からないが、とりあえず歩いてみる他ない。しばらく行くと飾り気のない、麻のような生地の服を着た男とすれ違った。

「あ、あの、ここはどこですか?」

 しかし、話しかけたとたん男は逃げるように立ち去った。

(なんだよ、不親切だな)

 仕方なく俺は歩き続けた。人通りはほとんどなく、たまに出会っても怯えた様子で足早に立ち去っていく。そのうち村の外れの広場らしきところに行きついた。

「腹減った」

 俺はキュウッと鳴るお腹を押さえた。朝飯も食べていないのである。俺が力なくうずくまっていると、一人の女が近づいてきた。

(おお、ようやく助けが現れたか)

 喜んだのもつかの間だった。女は俺に話しかけたが、聞いたこともない発音、つまり異国の言葉だったのだ。

 ここが何処だかを尋ね、あわよくば水や食料を無心しようと思ったのだが、当てが外れた。失望を隠せない俺に、女が手招きした。身振り手振りというのは万国共通であるらしい。女は俺に、

「ツイテコイ」

 と言っているようだ。他に当てがあるわけではない。俺は女に従うことにした。女は通りをズンズン歩いていく。その道中にもしきりと俺に話しかけてくるのだが、申し訳ないがさっぱり分からない。それは観光中の外国人に英語で道を尋ねられ、満足に答えられないときの気まずさと似ていた。

 ただ、はしばしに、

「ショウヘイ、ショウヘイ」

 という言葉が混じる。そこだけ何やら日本語っぽい感じがする。このときは意味が分からず、

(誰かの名前だろうか?)

 という感想を持つ他にしようがなかったが、後にこの名前は俺の境遇に大きくのしかかってくるのである。

 そうこうしているうちに、寂れた村の中では比較的大きな建物の前に辿り着いた。女は、「入れ」という風に俺と建物を交互に見ている。催促されるまま、俺は建物の扉を開いた。

(ほう、これは!)

 入り口付近に受付があり、老人がポツンと座っていた。フロアーにはテーブルや椅子がいくつも置かれていて、ちょっとした集会所といった感じだ。壁に古ぼけた戦斧や剣、盾などが飾られており、隅には甲冑が鎮座している。

(これはギルドだ)

 俺は確信した。俺がよくやるRPGゲームのそれに似ているからである。冒険者たちはここで集い、「宝石を探せ」だの、「魔物をやっつけろ」だの依頼を受けて成功報酬を得るのである。

(それにしても寂れてるなぁ)

 テーブルの上や甲冑には埃(ほこり)が溜まり、ここを訪れる人間があまりいないことを物語っている。女が俺を指差しながら老人に話しかけた。老人は頷くと、木刀とも言えない木の棒と、古ぼけた皮の袋を俺に手渡した。

(分かるぞ。この武器を使って魔物を狩り、牙とか爪とか持ってこいというんだろ)

 そうすればいくらかの報酬をくれるというのだろう。

 つまり女はどうみてもよそ者の俺に対して、施しこそくれなかったが、稼ぎ口を紹介してくれたわけだ。

 何はともあれ貨幣、もしくはそれに準ずるものがなければ飯にもありつけない。いや、金こそどこの世界でも万能だ。俺はベルトに皮袋を結わえると魔物狩りに出かける決心をした。


     ◆

 

 何故、俺がこうも事態をすんなり受け入れられるかについて説明しておく。

 人は強烈な葛藤に見舞われたとき、剥がれ落ちるものらしい。本人は決して気づかないだろう。伸びすぎた爪を切っても、古くなった角質層が剥がれ落ちても、そんな老廃物を気に掛けるヤツはいない。

 自室のドアを開けようとしたとき、俺はまたもや楽な道を選ぼうとした。

「やっぱり無理だ! 今日も一日ゲームをして過ごそう」

 優しい世界に戻ろうと、そう思って振り返ったはずなんだ。

 勇気を出して高校生活を取り戻そうとした俺。またも自分に負け引きこもろうとした俺。どっちが本当の俺なのかと言われれば、どっちも俺としか言いようがない。

 だけど勇気を出した俺は、もういい加減、臆病な俺に愛想が尽きていたんだろう。臆病な俺を捨て去って、未来という名のドアを開け放ち、外へ出て行った。

 それでいい。あいつはもう大丈夫だ。これから幾多の困難を乗り越えて、学校生活を取り戻すだろう。何故だかそれには確信があった。あいつは胸の奥に小さいけど強さを持っていた。ただ不器用で、実力の割りにプライドが高くて、本当の自分に向き合うことが怖かったんだよな、……多分。

 それはいい。しかし一方で剥がれ落ちた方、老廃物の俺は何故か今だに生きている。だけど同じ世界に存在することは許されなかった。当たり前だな。そんなことが許されるなら俺が無限増殖してしまう。ではその体はどこへ飛ばされたのだろうか。

 俺はあのとき、剣と魔法のゲームのような世界へ行きたいと切に願っていた。つらさも煩わしさも一切ないファンタジー世界、そこへ行きたいとひたすら願っていた。 俺が降り立った村の風景や、その後の展開は、まさに俺の願いが届いたが如く、思い焦がれていたものと符合していたのである。


     ◆


 俺は村を出てあぜ道を歩いていた。左右には野原が広がっている。空は晴れ、風はそよぎ、小鳥は唄い、いい気持である。ポリゴンをVRで見るのとはわけが違う。圧倒的な臨場感である。なぜならこの世界はもう一つの世界、異世界なのだから。

「よし、魔王を倒して勇者になってやる」

 学校に行くのと比べて俄然(がぜん)、やる気になっている。現実世界のことはあいつに任せた。もはや未練はない。俺はこっちの世界で活躍してやる。もしかしたら特殊能力の一つや二つ、備わっているかもしれない。なにせやるゲーム、やるゲーム、ハードモードでイベント全クリア、トロフィー収集率100%である。俺の知識に準じているならば、この世界で成功するのはそう難しくないかも知れない。

 ―それにしても、言葉が通じないとはどういうことだろう?

 ゲームで例えるなら、ネットで間違って購入してしまい、フランス版やドイツ版だったというくらいの絶望感である。

「おっ?」

 小さな森が見えてきた。俺の知識ではああいう場所にこそ魔物が湧いている。俺は迷わず森の中に分け入った。昼間だというのにまったくといっていいほど陽が差し込まず、薄暗い。大地は苔にまみれ、異様に湿度が高かった。あまり長居したいとは思わない。

「なんか匂うな」

 卵の腐ったような強烈な腐臭が辺りに漂ってきた。


 グジュルグジュル


 気持ちの悪い音がする。

「いたっ!」

 そいつの見た目は、1メートル足らずのひしゃげた饅頭だ。半透明のピンク色の体に、ところどころ血管のような繊維が浮きでている。俺の知識を紐解けば、こいつはアニメであれ、ゲームであれ、多くの物語の冒頭に現れる、あの最弱のモンスターに酷似していた

「スライムだ!」

 俺は小躍りした。やはりこの世界は俺の知識に順じた世界に違いない。数多くのゲームが、最初にこいつを倒して金や経験知を稼ぐというスタートになっている。

「ひゃっほう!」

 俺は迷わずスライムに向かって駆け出した。木の棒を振り上げ、スライムに叩きつける。


 ビシャッ!


 木の棒はスライムに命中した。やったと思う間も無かった。スライムの体液が飛び散り俺の左肩に付着したのだ。


 ジュウウウウウッ!

 

「ぎゃああ!」

 スライムの体液は学生服やカッターシャツごと巻き込んで俺の肉を溶かしていく。俺はもんどりうって倒れこんだ。

「痛いっ、熱いっ、痛いっ!」

 あまりの痛さに、涙と鼻水が合流し、さながら白糸の滝のようになって口の中に注ぎ込む。俺は泥だらけになりながら這いずり、スライムから少しでも遠ざかろうと這いずり回った。


 ビュッ、ビュッ!


 スライムの体液が容赦なく背中に降り注ぐ。


 ジュウウウウウッ!


 俺の背中から、鉄板で肉を焼くが如き音が鳴り踊る。ただし食欲をそそるようなかぐわしい匂いが立ち昇るわけではない。一呼吸で卒倒するような悪臭だ。

「たっ、助けて、誰か、助けてっ!」

 もとよりこんなところを往来する物好きなどいない。俺の悲鳴は虚空に吸い込まれ、泡と消えていく。


 ビュッ、ビュッ、ジュウウウウウッ!


「ぎいああああああっ」

 俺は断末魔の悲鳴を上げた。

(死ぬのか? 俺はこんなところで死ぬのか?)

 死に際しての恐怖には二通りある。そいつに飲み込まれ絶望する場合、そして生への渇望が猛然とわきあがる場合である。

 (童貞のまま死ぬのはイヤだあっ!)

 情けない動機かも知れないが、俺の場合は後者だった。

 ―いや、情けなくない。決して決して情けなくないぞ! 

 野生の獣は、メスと交尾するために他のオスと激闘を演じ、ときに命を落とすという。戦いながらオスはこう思っているだろう。

「童貞のまま死んでたまるかあっ!」

 つまりこれは大自然の摂理であり、生存本能からほとばしる情熱なのだ。

(そうだ、立派だ! 誰に恥じることもないっ!)

 俺は最後の力を振り絞って立ち上がり、喉も裂けよと絶叫した。

「このピンクの饅頭野郎がああああっ!」

 力任せに右腕をスライムの体に突き入れた。腕はずぶずぶと抵抗なく肘あたりまでまで吸い込まれていく。このような攻撃に成算があるわけではない。出来ることが思いつかなかっただけだ。


 コツン


 何かが指先に触れた。

 ゲル状のスライムの体に固いところがあるのは意外だが、もし弱点があるとするなら、これしかない。何故なら、怪物の弱点は目か、それとも体の中心部分にある心臓のようなものだと相場は決まっているからだ。

 俺はやみくもにそいつをつかむと、一気呵成(いっきかせい)に腕を抜き去った。ブチブチブチッと繊維の束がちぎれ、スライムの体の中で唯一の固形物であろうそれは、俺の右手によって体外に摘出された。スライムは饅頭型の体を維持できなくなり、だらしなく地面に広がっていく。

「……勝ったのか?」

 みるみるうちにスライムは地面の染みと化していった。俺は膝から崩れさり、大きくため息をついた。一瞬とはいえ、スライムの体内に突き入れた右腕の皮膚はもうボロボロである。

 ―いや、全身が重度の火傷を負ったようにただれている。俺は天を仰いだ。

「もしかして死ぬのかなぁ」

 痛みという域を通り越し、全身にしびれたような感覚が広がっている。あのスライムには毒があるのかも知れない。それでなくとも傷からばい菌が侵入し、感染症にかかるかも知れない。

 それなのに、薬も食料もない。ここがどこだか分からない。知人もいなければ、金もない。ついでにスマートフォンもない。

 俺はようやく鼓動をやめたスライムの心臓を呆然と見つめた。


 人生、楽な道ばかりを選んでいると、いつのまにかより苦しい道が待っている。最後の最後まで、楽な道を選ぼうとした俺に待っていたもの、それは現実よりも厳しいエクストラハードモードの世界だったのだ。

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