口論
「君は馬鹿か?」
息を切らせて狭い路地裏の防火用水の積み樽の影に座り込んだ旅人風の男は、同じように隣に座り込んだクロビスに向かって開口一番そう言った。これには流石にクロビスもかちんと来た。
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
「馬鹿が気に食わなければ不作の
「くっ……」
それは確かにそうだった。その部分をあやふやにしたままでは、この者とはその先の話はできないとクロビスは判断した。
「私は……」
クロビスは名前を名乗ろうとしだが、王子であることが知れるのは避けた方が良いと思い、咄嗟に
「私はグリステル」
と憧れの英雄の名を借りた。相手は必要以上に驚いた様子で
「グ、グリステル? 本当に?」
と聞き返して来た。
「そうだ。グリステルだ。何か問題が?」
「いや、しかしその名は……」
「確かに今、吟遊詩人が歌うサーガにも似たような名前の者がいるようだが」
「女の名前だろう?」
「……そう。女にも付ける名前だが、父が変わり者でな」
クロビスは涼しい顔でそう誤魔化して
「私は名乗ったぞ。そなたも名乗るのが礼儀だろう」
と相手の名前を聞き出そうとした。そうしなければきちんと礼が言えない。
「私はグ……いや。……アンメアリ。アンメアリ・クレェァ」
「アンメアリ?」
「そうだ。アンメアリ・クレェァ。何か問題が?」
「それは女の名前だろう?」
アンメアリは少し複雑そうな顔したが、すぐに笑って
「私の親も変わり者だったんだ」
と言った。
「宜しい。アンメアリ・クレェァ。先程は危ない所を助けてくれてありがとう。お陰で私は路傍の泥の中に
「あ、ああ」
「だが、それはそれとして、互いに名も名乗りあっていない良くは知りもしない相手を馬鹿だの腐ったカボチャだのと罵倒したのは」
「不作の茄子だ」
「なに?」
「私が君を例えたのは不作の茄子。不作の茄子は見た目は普通でも実の中身がスカスカなんだ」
「成る程。だから馬鹿の例えに使うのか」
「そうだ」
「よし。訂正する。助けてくれたことには礼を言う。だが、会ってすぐの相手を馬鹿だの不作の茄子だのと罵るのは不当で失礼だろう。訂正と謝罪を要求する」
「確かに何事も起きていない状態で良く知りもしない君のことをいきなり私が罵倒したのならその行いは正されるべきだし、謝罪されるべきだろう」
「うむ」
「だが、君は無法で知られた人買いギルドの連中に五対一の状況で喧嘩を売った。勝てもしないのに。その行為を責めて私は馬鹿だと言ったんだ。それを賢いとでも言うつもりか」
「……相手の戦力を見積もり損なったという意味では愚かだった」
「そうだろう」
「しかし今回の件は、そもそも不当な暴力に晒されるご婦人を助けるという正しい目的の為だ。その行いを馬鹿とは言えまい」
「そうだな。あの女性を助けようとした君の行いは気高く、尊い」
アンメアリの声のトーンが
「しかし、行動の目的とその手段とは別の話だ。目的が如何に正しくとも……手段が悪手ならば責めは負うのが筋だろう。私が君を馬鹿と呼んだのはその手段の短絡さゆえで、君の崇高な使命感を損しようという意図ではない」
「成る程。ならばその罵倒は受け入れよう」
「私も言い過ぎの嫌いはあったかも知れない。その点は謝罪する。すまなかった」
「いや。考えてみると貴殿の立場からすれば、私の愚行で不必要に命の危険を犯したのだ。腹を立て、言葉が乱暴になるのは至極まっとうな話だ」
「理解が得られて幸いだが、グリステル。君は中々変わった男だな」
「君もな。アンメアリ。私は誰かとここまできちんと会話が成り立ったのは初めてのように思う」
「お互い親に似た、というわけか」
「そうらしい」
アンメアリが吹き出すように笑い、クロビスもそれに誘われるように笑った。
雨はまだ降り続いていて、二人は追われていたが、クロビスにとってこんなに愉快な気分になったのは初めてだった。こんなに心から笑ったのは初めてだった。
その時、表通りでランタンの灯りが揺れて「こっちだ!」「探し出せ!」というようなチンピラたちの声が聞こえて来た。
アンメアリはピタリと笑うとのをやめて立ち上がる。
「さて、もうひとっ走りだ。走れるか? グリステル」
「もちろんだ。だがアンメアリ。貴殿はここに隠れていろ。私が囮となり、私一人で逃げる。元々これは私の始めた喧嘩だしな」
「すでに私の喧嘩でもある。乗りかかった船、という奴だ。待ち合わせもすっぽかしてしまったし、最後まで付き合うさ」
「それは申し訳ないことをさせた。ことが納まったら、私が同行して待ち合わせの先方に謝罪と説明をしよう」
アンメアリは動きを止めてまじまじとクロビスを見たようだった。
「本当に変わった奴だな、グリステル」
そしてその纏っていた空気がふわ、と緩んだ。
「だが君のそういう真面目な所は美徳だ。君のような人物が私は好きだ。お喋りはここまでだ。私が先行する。付いて来い」
そう言うとアンメアリは姿勢を低くしたまま猫か狐のようなしなやかな動きで狭く足元の悪い裏通りを走り出した。
クロビスは必死でその後を追いながら、こんな非常事態に際して次々と妙に場慣れした的確な対応をするこの男は何者だろう、と改めて疑問と興味を抱いた。
そして彼に「好きだ」と言われたことが彼の胸を温かくし、誰に褒められた時よりも誇り高い気持ちになっていることを意識した。
***
人買いギルドはその面子に賭けて二人を捕まえようと決めたようで、通りはどこへ逃げてもランタンを持った追っ手が駆け回っていた。
大きな通りを横切った一瞬を見咎められた二人は細い通りを選んで逃げていたが、運悪く袋小路に駆け込んでしまった。
「くっ、行き止まりか!」
「どうするアンメアリ、奴らが来るぞ!」
袋小路の入り口側にはランタンの灯りが四つ五つと揺れて、こっちだ、見つけたぞ、というチンピラたちの声が聞こえる。
「グリステル!」
アンメアリは行き止まりの壁にもたれかかると膝を曲げて見えない椅子にでも座るような仕草をした。
「おう!」
急いでクロビスは彼の真似をして彼の隣で壁にもたれ同じ姿勢を取った。
「で、これはなんだ?」
「違う! 私を台にして君が上に上がるんだ! 上がったら私を引き上げてくれ!」
「成る程。心得た!」
彼は壁から離れると三歩助走を付けてアンメアリを踏み台にし、煉瓦の塀の上に飛び乗った。
「アンメアリ!」
「ああ!」
クロビスはアンメアリの腕を掴むと力一杯塀の上に引き上げる。彼は小柄な体躯だとは思っていたが、その身体は想像以上に軽かった。
「ありがとう」
「お互い様だ」
二人は壁から飛び降りると集合住宅のせまい裏庭のような場所をゴミにつまづきながら駆け抜けた。
上手く逃げたように思えたがしかし、彼らは広い通りに飛び出しだ途端、二人の追っ手とぶつかり掛けるほどの距離で鉢合わせしてしまった。
反応はアンメアリが一番早かった。
彼は腰から鞘に入ったままの剣を抜くと鞘を付けたままその剣を一閃して追っ手の一人の側頭部を強かに打った。その一撃でそいつは白目を剥いて気絶した。もう一人は合図の笛を吹こうと口元に呼び笛を当てた。これにクロビスは反応してその口元の笛を掌で思い切り叩いた。笛はまるっと追っ手の口の中に入り込んでそいつは、げぼうっ、とえずいた。その隙にクロビスは男の右膝裏を両手で取って、思い切りひっくり返すように持ち上げた。一回転した男は全体重が後頭部に掛かる形で転倒して、咥えた笛から泡を出しながら気絶した。
ピウ、とアンメアリが口笛を吹いた。
「やるじゃないか。グリステル」
クロビスは服の佇まいを直しながら応えた。
「君ほどじゃないよ。アンメアリ」
安心したのも束の間、「見つけたぞー!」「こっちだ! 早く来い!」という声と、笛の音が幾つも重なって聞こえ、通りのあちこちからランタンの灯りが集まって来るのが見えた。
「キリがないな。本当に私は……喧嘩を売ってはいけない相手を敵に回してしまったようだ」
クロビスは落ち込んだ。これは私も、この頼りになる相棒も助からないかも知れない。私は本当に馬鹿だったのだ。あの時、いたぶられる女を助けようなどと思いさえしなければ……。
「後悔しているのか? あの女性を助けたことを」
「……私一人ならいい。しかし、私のせいで君まで……」
「白状するとな、私もあの酒場で飲んでいて、女の悲鳴を聞いて様子を見に出たのだ」
「君も?」
「そうとも。グリステル。君がやらなくても私があの女を助けただろう。そして私は同じように追われていた」
「…………」
「それにまだ我々は死んではいない。死んでいないなら諦めるのは早い。だから顔を上げるんだ友よ。もう少し走ろう。活路はすぐそこだ」
「私を……友と呼んでくれるのか? この馬鹿で愚鈍な私を」
「ここまでこれたのは我々が協力したからだ。我々が友でなくてなんなのだ?」
アンメアリは右手を差し出した。
クロビスはその手を強く握った。
アンメアリは更に強く握り返し、二人の重なった拳を目の高さに持ち上げた。
「さあ、行くぞグリステル。諦めるのはやれることを全てやってからだ」
「そうだな、アンメアリ。我が友よ。私がまた弱音を吐いたら、頰を打ってくれ」
二人は見つめ合ってニヤリと笑った。
雨はいつの間にか止んでいた。
二人は重い外套を脱ぎ捨てて、再び夜の街道へ走り出した。
***
「どこへ向かってるんだアンメアリ!」
沢山のランタンと叫び声を引き連れ、自信満々に走るアンメアリを追いながら、クロビスは尋ねた。
「脱出口さ。ところで君は泳げるか?」
「溺れはしない程度だ。城内では……」
「城内?」
「いや! あまり広い所で泳いだことはない。庭の湖が狭くてな」
「よく分からないが溺れはしないんだな?」
「あ……嫌な予感がするぞ」
クロビスの嫌な予感は当たっていた。
前方に大きな弓なり橋が見えて来た。
そして橋の向こうからも、沢山のランタンがこちらに向かって来ていた。
アンメアリは迷わず橋のアーチを駆け上がり、中央の一番高い所の手摺に登って、両岸の追っ手たちを見渡した。
「どうしたグリステル。みすみす捕まって奴らに奴隷として売り飛ばされたいのか?」
雲の切れ間から月明かりが差して、橋の欄干の上に立つアンメアリを照らした。背筋を真っ直ぐに伸ばし、腕を組み、体重を片方の足に掛けて不敵に微笑むその様子は、男とは思えない妖しい魅力を滲ませていて、クロビスは息を呑んだ。
雨は止んでいたものの河は増水し、濁流がごうごうと唸りを上げている。そこに飛び込む事を思うと背筋に妙な汗が吹き出た。
「城壁の水門を出て百メルテほどで河は右に大きく曲がる。その時までになるべく進行方向左側に寄っておくんだ。曲がりの外側の岸は浅い砂州だ。そこに上がる」
「しかし……」
「怖いか?」
「…………」
「私と一緒でも?」
クロビスは首を小さく振った。
「さあ……行こう」
正直、クロビスの心にはまだ恐れと迷いがあった。
だが、アンメアリが差し出した右手をクロビスの右手が勝手に取っていた。
両岸から追っ手たちが橋板を踏む音がどたどたと近づいて来る。
アンメアリはそのままベッドにでも倒れ込むように背中をふわりと宙に預けた。
アンメアリに吸い寄せられるようにクロビスもそれに続いた。
深夜の大河に大きな水柱が上がった。
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