驚愕
「なあ……きみ」
いつものようにスープの椀を持ってきたオークの、部屋から出て行こうとする背中に、グリステルはそう声を掛けてみた。
オークは言葉に反応して、動きを止めた。
「言葉は……分かるのか?」
オークは振り返ると、グリステルを正面から見た。
『分かる』
空洞に響くようなくぐもった声で、オークは答えた。彼女は悪寒をグッと堪えながら、なるべくフレンドリーに会話を続けようとした。
「私の名は……グリステル。グリステル・スコホテントトだ。きみの……名前は?」
だがオークはそれには答えず、がたがたと木の扉を鳴らしてそれを開けた。グリステルは、彼女の「まずは見張りのオークとの距離を縮める」という作戦の第一段階が失敗したと思った。
『ザジ』
「えっ?」
オークは奥の部屋に消え、ばたん、と扉は閉まった。
「ザジ……ザジか」
グリステルは彼の名を忘れないよう、口に出して繰り返した。
彼女はそして、魔物にも人間のように個別の名前があるのだと知った。
***
互いに名乗り合って三日ばかりが過ぎたが、グリステルのザジからの情報収集は思うように行かなかった。
ザジが来るたびに、グリステルは世間話のような振りをして、この牢獄の周りの様子や地図の上での位置、近くに魔物の軍勢はいるのか、など、脱出計画のために必要な情報を得ようとしたが、ザジの大体の答えは「さあな」とか「知らん」などの何の参考にもならない短い言葉で、グリステルの計画はその当初にして既に頓挫しつつあった。
しかし、やはりどうやら根は温厚なオークのようで、彼女をすぐに取って喰ったりしないだろうことはその物腰というか、態度から伝わって来て、この頃になると彼女は牢にあっても食事をしっかり食べ、夜はぐっすり眠るようになっていた。
***
すーっと風が冷たい。
グリステルは布団代わりの布をたくし上げようとして、違和感に目を覚ました。
慣れない環境の緊張と疲れが溜まっていたのか、いつもより深く寝入ってしまったようで、明かり取りの窓から入る日の光から推し計れば牢の外は真昼に近い時間のようだ。
彼女は麻の一枚布を布団代わりに与えられていたが、その肌に触れるザラザラとした感触がいつもより強い。いや違う。
「なっ……⁉︎」
彼女は全裸だった。
一糸まとわぬ正真正銘の全裸。
その姿に麻布一枚を被っているのだ。
彼女は羞恥に顔を赤らめながら、麻布を巻き付けるようにして縮こまった。
ザジだ。
それだけははっきりしていた。
自分が馬鹿だった。
相手は所詮、低劣な妖魔なのだ。
言葉を話せても、名前を持っていても、獣欲を御する理性も信仰もない。
自分ではよく分からないが、彼女の純潔はもう失われているのかも知れなかった。
情け無さと悔しさ、屈辱と怒りで、涙が出た。
がたがたと木の扉が鳴った。
グリステルは咄嗟に麻布を頭まで被った。
卑しい妖魔め。よくもおめおめと。
まだ私を辱しめ足らないのか。
近くまで来い。
私が、なんでもかんでも貴様の思い通りになるわけではないことを思い知らせてやる!
鍵の開く音。格子扉の開く音。
足音と、大きな妖魔の気配。
その気配が、グリステルを覗き込むように動いた時、
「近寄るなケダモノッ‼︎」
彼女は足を思い切り振り抜いて、その顔を蹴り飛ばした。
ぶちぃ、と何かが千切れる音がして、ザジの頭がぐるりと一周し、その首から上が胴体を離れて、ぼとり、と牢屋の床に落下した。
その手には、綺麗に洗濯された、彼女の服が握られていた。
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