覚悟

 次に意識を取り戻した時、その気配はすぐ近くにあった。

 ふうー、ふうー、というような呼吸の音。

 何日も着たままの服ようなキナ臭い体臭。


 今度は目覚めた瞬間に自分の立場を思い出したグリステルは、両手を思い切り振り上げて叫んだ。


「私に触るな!」


 それは獣人の鼻先に当たったようで、鼻はグニャリと気持ち悪い感触で潰れ、獣人はヨタヨタと後ずさって、手にしていた物を床にぶち撒けた。それは器に入った何かの液体のようだったが、何なのかは彼女には分からない。


 獣人は器を拾い上げると、肩を竦めるような動きをして牢を出、その格子扉を閉めて鍵を掛けた。

 そしてそのまま、がたがた鳴る木の扉を抜けて、奥の部屋に姿を消した。


 しん、と牢に静けさが戻る。

 先に気を失ってすぐなのか、それとも何日か経っているのか、外はまた夜のようで、皿に持ち手と火芯を付けた簡素なランプが牢の中を頼りなく照らしている。

 彼女は嗚咽を漏らして泣き始めた。


 夢では……悪い夢ではなかったのか。


 ちゃりん、と手枷を繋ぐ鎖が鳴る。


「う、うう……」


 彼女は神を恨んだ。運命を呪った。これから彼女の身に起きるだろうことを嫌悪し、拒絶した。だが、頭は勝手にあるだろう未来の出来事を繰り返し想像し、固く閉じた彼女の瞼の裏にそれを映した。陵辱と姦淫、その先は妖魔の子を身籠もるのか、堕胎させられて殺されるのか、生きながら喰われるのかも知れない。女として、人間として、最悪の更に下の運命を与えた神を、生まれ初めて彼女は憎悪すらした。

 そして神を憎悪している自分に気付き、そんな自分自身をまた嫌悪した瞬間、彼女は吐いた。

 胃の中は空っぽで、少量の酸っぱい液体が飛び出しただけだったが、彼女は繰り返しえづいて、もともと空っぽの胃を更に空っぽにした。


 木の扉がまたがたがたと鳴った。


 あの妖魔が来るのだ。抵抗したから、仲間を連れて来たのかも知れない。何匹だ? 私は沢山の闇の魔物たちの慰み物になって、繰り返し強姦されて死ぬのか──?

 ならば、いっそ……そんな目に遭うなら、いっそのこと……!


 扉が開いた。グリステルは悲鳴を上げて寝台の上で縮こまり、後ずさるようにして背後の壁に張り付いた。

 

 だが、入って来たのは初めに見たオーク一匹だった。手に湯気の立つ器と、長い槍のような物を持って。


「何をする気だ! 私を気高き春光の騎士と知っての所業か⁉︎ 殺すなら殺せ! もし私を穢すつもりなら、その瞬間に舌を噛み切って死ぬ! 死ぬからな!」


 なんと不気味な風体だろう。生気のない皮膚の張り。たるんだ皮と空洞のような虚ろな目。影になっていて良くは見えないが、顔の造形はブタそのもののようだ。首から下は鞣した革の服を着て、腰に太いベルトを巻いている。麻のズボン。編み上げのブーツ。

 その邪悪な生物を肌を泡立てて嫌悪しながら、グリステルは服装は意外にまともだな、とどこか場違いなことを頭の片隅で考えた。


 ブタ男は、また肩を竦めるような仕草をすると格子扉を開け、のそりと中に入って来た。


「くっ……我が愛馬ライトニングと霊剣シャベーリーンがあれば……貴様など戦場の骸に変えてくれるものを……!」


 グリステルは覚悟を決めた。

 運命とは残酷なのだ。

 思えばこれまでも、自分と同じか、それ以上に敬虔な神の使徒であった仲間を何人も失っていた。神に仕えていても死ぬ時は死ぬ。そんな死者の中に、自分だけが加わらないことを約束される道理もないだろう。

 神はお試しになるのだ。

 その最期まで。理不尽とも思える残酷な運命のさなかにさえ、我々信徒が、気高く崇高な魂を保った神の子でいられるかどうかを。


 服を脱がされ、裸にされた瞬間に、舌を噛み切ろう。そして心に神の御名を唱えながら天に召されよう。それがきっと、今の私に残された、神の御心に叶う死に様に違いない。


 彼女は目を閉じて深呼吸をし、その瞬間を待った。


 ごと、と何かが寝台のそばの椅子の上に置かれた。オークはそのままゴソゴソと何か作業をしている気配だった。


 グリステルは、恐る恐る目を開けてみた。


 オークは、床を掃除していた。

 槍に見えたのは長柄のモップで、彼はそれでグリステルが叩いて彼の手から零した液体と、グリステルが嘔吐した胃液とを綺麗に掃除して、格子扉を潜り鍵を掛け、木の扉をがたがたと鳴らして出て行った。


「…………」


 彼女は状況が飲み込めず、阿保のようにぽかんとしていた。


 椅子の上では、木の椀に注がれた温かいスープが湯気を立てていて、その匂いに彼女の腹が、ぐう、と鳴った。

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