幼少期との決別

 養女ラーズグリーズについての打ち合わせを終え、城に帰ったオーランドを迎えたのは、現領主ローレンスの肺炎が悪化しているという知らせだった。

 中央の貴族がオーランドが不在の間に何人か見舞いに来た、と執事がオーランドに言った。父親が若いころに中央にいたのは嘘ではなかったのだな、とオーランドは思った。執事が次の報告をしようとしたとき、執務室にニールが駆け込んできた。肩で息をしていて、表情も尋常ではない。


「緊急事態か?」


「はい。国王陛下が……亡くなったと。葬儀と、王弟アルス様の戴冠式に出席するよう、早馬が」


「寝耳に水だな。事故か?」


 オーランドはアメリカとの交渉ばかりやってきたので、ゼントラムについては全く把握していなかった。執事がオーランドの思い付きを否定する。


「いえ。おそらくは、寿命かと。ローレンス様のお見舞いにいらした、中央の王様に近しい貴族の方々は、王様が前から過労と年齢でいつ亡くなってもおかしくないとご存知でした」


 他にいくつか報告を受け、オーランドは書類の山に取り掛かった。アフェクに行っている間にたまった文書の整理に加えて、王の崩御に伴う儀礼の用意も増え、一日はあっという間に過ぎ去っていった。

 オーランドは倒れるように床に就いた。最近は多忙さに夢を見ない夜が続いていた。しかし、その夜、オーランドはか弱い少年に戻っていた。さらに母親――義理の母親、フレーデグンデが彼にのしかかっていた。久しぶりの悪夢だ。


 フレーデグンデが実の母親ではなくても、自分が毎晩彼女に暴行されていたという事実は消えない。オーランドは気が付いた。押し倒されたまま、オーランドはフレーデグンデに言う。


「これは近親相姦じゃない。色欲に振り回された女の罪に、俺は巻き込まれてしまっただけだ」


 フレーデグンデはオーランドにのしかかってくる。普段なら嫌悪感で泣き叫ぶが、今夜のオーランドは、彼女の滑らかな肌が彼の腹に触れても、何も感じなかった。それどころか、遠乗りの帰りにブリュンヒルドから言われたことを思い出す余裕さえあった。


――「誰も幼いオーランド殿を守ってやれなかった。これは当時フレーデグンデを止められる立場にあった我らの過失だ。オーランド殿が強姦されてしまったのは、オーランド殿が悪かったからではない。我々が悪かったのだ」


 ここでブリュンヒルドは息継ぎした。


――「しかし、女を遠ざけることを選んだのはオーランド殿だ。普通、母親に酷い目にあわされた男は、母親に復讐するかのごとく別の女を手ひどく扱うことが多い。オーランド殿には、もう自分の行動を決める力がある。フレーデグンデもこの世にはおらん。もっと言えば、オーランド殿は自分だけではなく、ノーデンの未来さえも決められる大きな力がある。それは時に人を傷つける恐ろしい力だ。それを、心に留めておいてほしい」


 そうだ。俺はもう、か弱い男の子ではないのだ。夢は過去の再生に過ぎない。過去そのものではないのだ。夢のか弱い自分の姿に引きずられず、今の自分として夢の中で行動すればいいのだ。フレーデグンデに対して、オーランドは言葉を重ねる。


「フレーデグンデ、お前はもうこの世にいてはならない存在だ。天国か地獄かは知らないが、死者は死者のいるべき場所へと立ち去れ!」


 立ち去れ、と言い放った瞬間、フレーデグンデは動きを止めた。オーランドに乳房を押しつけようとした姿勢のまま、凍ったように静止した。

 オーランドは彼女の顔をじっくり眺める。目、鼻、口の位置はわかったし、彼女の顔を乱れた金の巻き毛が半ば隠しているのもわかる。しかし、まるでもや越しに見た風景のように、細部がよく見えない。フレーデグンデの顔は、オーランドの顔のすぐ前にあるにも関わらず、である。


 ――とっくの昔に、俺はフレーデグンデの顔を忘れていた。彼女はほぼ毎晩、夢に出てきたというのに!


 顔さえ覚えていない女に悩まされてきたのか、俺は。なんてばかばかしい。オーランドは笑いが止まらなかった。彼の笑い声に合わせて、フレーデグンデの幻は輪郭をにじませ、じわじわと夜気に溶けて、薄れる。俺が覚えていたのは、フレーデグンデが好色で、若くて、美しかったというだけだった。それがこの世で最も恐ろしくて、彼女が死んだ後も彼女の影におびえ、安らかな眠りにつけなかったのだ。過去の恐怖が強烈なせいで、自分はいつまでたっても無力な子供だと思い込んでしまっていた。もしかすると、夢の中で過去を書き換えようとしていたのかもしれない。どちらにせよ、フレーデグンデの夢を見ていたのは、自分自身だったのだ。

 時は来た。俺のこれからの人生にお前は不要だ。もはや浮かぶ白い霞みになったフレーデグンデの残骸に、オーランドは言い放った。


「さらばだ、フレーデグンデ!」


 自分の声でオーランドは目覚めた。恐る恐る下着を確認すると、さらりと乾いたままだった。フレーデグンデは、悪夢と共に去って行ったのだ。俺は、彼女を拒むことに成功したのだ、やっと。オーランドは悪夢に打ち勝った達成感と、もう恐ろしい物はないと思い知り、暖炉の炎のような温かい充足感に包まれて、天にも昇る心もちだった。


「次期領主様! 入ってはならないのは重々承知でございますが! 起きてください! 領主様が! 領主様が!」


 激しく寝室のドアが叩かれる音で、オーランドは現実に引き上げられた。ニールが自分を呼んでいる。オーランドは廊下に顔を出した。

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