ネイティヴアメリカン・フリーズ

枕目

アイザック・ニュートンの林檎殺し

#1 そろそろお前も知っていいころだから

 ご存じのとおり、アメリカ大陸を発見したのはコロンブスです。

 ですからコロンブス以前は、アメリカ大陸はありませんでした。

 アメリカ大陸は存在しませんでしたから、いま地図上にアメリカ大陸が存在する場所は、巨大なひとつの大海原にすぎませんでした。ヨセミテ国立公園も、イエローストーン国立公園も、まだ生成されておらず、ひとつの巨大な海原で、ただの可能性のかたまりにすぎませんでした。

 ではそのころ、アメリカ先住民の諸部族――つまりイロクォイ族やアパッチ族やブラック・ホーク、今では米軍のヘリコプターに名前を冠されている諸部族のことです――たちはどうしていたでしょうか?

 もちろん、海上に暮らしていました。

 彼らは海上で生活し、海上で神話を語り、海上で星を数え、海の上を走るバッファローの群れを追いかけまわしていたのです。傲慢な西洋人であるコロンブスが彼らに大陸と、陸上歩行を押しつける以前は。

 アメリカのすべてが海だったのです。

 自由の女神は先端のソフトクリームみたいな部分だけが、引き潮のときにかろうじて顔をのぞかせるぐらいでした。モルモン教徒たちは海中を歩いて布教していましたし、ペンタゴンは巨大なオニヒトデまがいの海底基地でした。

 すべてが海だったのです。

 もちろん、我らがニューヨーク・ヤンキースも。

 これは、そのころのお話です。




 「引力を発見したのはニュートンだ、ニュートンの生まれる前、引力はなかった」

 ジョーは言いました。

 彼の白く乾いた頭蓋骨は、波の反射にきらきら光っています。

 「むかしは引力なんて存在しなかったんだ」

 そうジョーは続けます。ジョーというのはどのジョーかといえば、ニューヨーク・ヤンキースの四番バッター、アンデッド・ジョーに他なりません。世の中にジョーと呼ばれる男が何人いるか知るよしもありませんが、死なずの肉体を持ったジョーは彼ぐらいでしょう。

 「ザックの野郎、本当に迷惑だ」

 「ザックって?」

 彼の息子はそう問いました。

 「アイザックだ」

 「アイザック・ニュートン」

 「そう、それが奴の名さ」

 息子はもう一度その名前をゆっくりと繰り返しました。

 アンデッドジョーは、その乾いた眼球で息子の横顔をじっと見ていました。

 「そうだ。ニュートンだ。坊主、何度くり返してもいいことだが、ニュートンの誕生以前、引力は存在しなかった。何もかもが宙にぷかぷか浮いてたんだ。引力がなければ浮くしかねえ。りんごも、バナナも、モホーク族も、ヘラジカもバッファローも、みんなぷかぷか宙に浮いてたんだ」

 「ボールも?」

 「なんでもって言ったんだぜ坊主。だからもちろんボールもだ。ボールも宙に浮いてたし、バットもチアガールも宙に浮いてた。もちろん俺たちバッターもな。ベースボール全体が宙に浮いてたってワケだ。ボウリングは今よりずっとむずかしいスポーツだったし、五大湖はそれぞれ巨大な水の球だった。そのころは何もかもが、今よりずっと大まかだったんだな」

 「ニュートンが秩序を与えたわけだね」

 ホームラン・ボーイは海水で濡れたりんごをかじりました。そのころは何もかもが海水で濡れていたので、りんごの切り口はいまほどすぐ茶色くなるわけではなかったのです。

 「いま、なんて?」

 「秩序」

 「むずかしい言葉を知ってるな。坊主」

 古きを知るアンデッド・ジョーは遠くを見ました。目の前の大海原の、遙か遠く、地平線の、海の色と空の色があやふやになる境界線をじっと見つめました。まるで何かが海の向こうからやってくるのを待ちわびるかのように。

 もう少し近くの海上では、アルゴンクィン族のハンターが野ウサギをしとめていました。彼が弓を引くと、矢がうなり、見えない糸に引かれるようにウサギに吸いよせられていきます。

 ウサギたちはいやがるようなそぶりもなく、粛々と彼の得物になっていきます。まるでそれが古代からの約束ごとだったかのように。昔の支払いを済ませるように。ウサギたちは死に、ハンターは肉を得ます。海水が彼らの血を洗い流していきます。

 「スイングの神に誓って言うが、坊主。引力がなかったころは、なにもかもあんなふうにスムーズにいってたんだ。ニュートンの野郎がりんごを落とすまではな。引力がなかったころだったら、あの男の矢だってもっと遠くまで飛んだ。星まで射抜けただろうさ。きっと、そうさ」

 ジョーは歌うような口調でそう言ったあと、しばし間をおきました。

 「こんな話をしてるのは。坊主。お前もそろそろ世界の成り立ちについて知ってもいいころだと思ったからさ。ふさわしい年頃ってやつさ。おまえもそろそろ女の子に興味があったりするだろう」

 「そんなこともないけどね」

 息子はきまりが悪そうな顔をします。

 ジョーはくつくつ笑い、息子の小さな頭にひからびた手を置きました。

 「まあ女の子のことはいい。いまは引力の話だからな。女の子にも引力ってやつがあるが、それは実感すればわかる話で、おれが話すことじゃないのさ。もうちょっと物理的なやつの話なんだ」

 「いいから引力の話をしてよ」

 「そうするよ。これは、引力が生まれる前の話なんだ。坊主。アイザック・ニュートンの呪われた運命について、やつの落としたリンゴが本当はなんだったかについて、そろそろお前も知っていいころだろう。おれがどうして不死身になったかも」

 「うん」

 「だから、今からその話をするのさ」

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