【第五章】梨本康介
5-1
部活が終わり、康介は自転車で家路を急いでいた。高校3年生も残り僅かとなった今、受験に重きを置いた生活にシフトしつつあったが、康介はいまだに柔道部の部室に顔を出しては、後輩たちから煙たがられていた・・・ というのは後輩たちの冗談めかした言い分で、その実、康介は後輩たちから慕われる先輩の一人であった。
お気に入りの白いマウンテンバイクに跨った康介がコンビニ横のハンバーガーショップの角を走り過ぎる瞬間、父、十蔵が知らない老婆と話し込んでいるのを発見した。事件の聞き込みだろうか? 悪戯心が芽生えた康介は、自転車を脇の駐輪場に停めると、そっと店内に忍び込んだ。ちょうど腹も空いていたし、チーズバーガーとドリンクのセットを注文すると、父からは死角となる隅の席に身を沈めた。
しかし、どうも様子がおかしかった。
「十蔵さん。あんた、自分がうちの孫娘に何をしでかしたか、忘れたわけじゃないだろうね?」
「セツさん、いきなりそんな言い方をしなくたって、自分の罪は十分認識していますよ」
「あんたが無理やり孫を犯したことを、世間様に黙っているんだ。それなりの誠意を見せたってバチは当たらないと思うよ」
「私が『犯した』なんて言い方はやめてくれ。確かにあれは『過ち』だったことは認めてるじゃないか」
「認めたからって、孫が傷物にされたことには変わりないさ。そんなもんじゃおまんまは食えないね。未映子に洋服だって買ってやりたいし、学費だってかかるんだ。あんたには良心の呵責ってぇもんは無いのかい? あんたは鬼なのかい? 未映子が可愛そうだとは思わないのかい?」
「思ってるさ。だから毎月決まった額を口座に振り込もうって提案してるんじゃないか」
「それじゃぁダメなんだよ。判ってないね、あんた。それじゃあんたは、自分が加害者だってことを忘れちまうに決まってるんだ。だから私が、時々あんたのところにやって来て、そのことを思い出させてやらないとダメなのさ。判ったかい? まさか、それは困るとか言い出すんじゃないだろうね」
「判ってるよ。判ってるさ・・・ そんなことは言われなくたって判ってる・・・」
店内に流れる軽率な音楽と、大声で騒ぐ女子高生、携帯電話で話し込むサラリーマンなどの騒音に紛れ、会話までは聴き取れなかったが、断片的な単語が康介の耳に届いた。それらは、決して他人に聞かれてはならない類の単語で、父が仕事をしているわけではないことは明らかであった。そして父が懐から茶封筒を取り出すと、老婆はそれをひったくる様に受け取り、中身を確認することも無くポケットに押し込んだ。高校生にだってそれ位は判る。父が手渡したのは金だ。
康介は老婆の後を追った。歳の頃なら60過ぎだろうか。その年齢に似合わず、老婆はシャキシャキとした足取りで街中をぬい、自宅へと戻っていった。それは決して大きくはなく、決して新しくもない、小さな平屋で、老婆はその玄関へと吸い込まれて行った。むしろ貧困を匂わせるその佇まいは、老婆のハゲワシのような雰囲気と相まって、康介に何とも言えない嫌悪感を湧き起こさせた。それはゴキブリのような害虫が隠れ棲む暗部の様にも見えたし、邪悪で醜い魔物の巣くう巣窟の様にも思えた。その家に表札などは無く、朱色の郵便受けの前扉に差し込まれた厚紙を確認すると、油性マジックで書かれた「渋川セツ」の下に「未映子」の名を発見した。渋川未映子は康介の高校に通っていた女子生徒で、確か今年入学してきた1年生のはずだ。スラリとした立ち姿で、何処か陰のある美しい顔立ちの女の子が入学して来たと、同級生たちが色めき立ったことを覚えている。確かどの部にも所属することなく、あまり社交的でもない性格が災いして(?)、いつの間にか男子生徒たちの話題に上らなくなった。そうこうしているうちに、入学してから一年も経ずして東京の高校へと転校してしまったと聞いている。その未映子の祖母と父との間に、いったいどういう関係が有るのか? 今、目の前にある貧相な家と意地汚そうな老婆。それらが、心の中に残る未映子のイメージとどうしても繋がらなくて、康介は混乱した。
自宅に戻った康介は、母が台所で忙しなく働いているのを確認すると、十蔵の部屋に入った。
「珍しいじゃないか、康介が俺の部屋に来るなんて。どうした? お小遣いでも欲しいのか?」
そう言ってズボンのポケットに入れた財布に手を伸ばした十蔵を制して、康介が言った。
「渋川さんのお祖母ちゃんと話していたね?」
十蔵の顔から血の気が引いた。
「いったい、何を話していたの?」
「仕事だ。お前には関係ない。余計なことに首を突っ込むな」
十蔵の横暴な態度にカチンときた康介は声を荒げた。
「仕事? じゃぁなんで金を渡したの? あの金は何なの?」
目を見開いてワナワナと震える十蔵は何かを言おうとしたが、結局何も言わず視線をずらした。「まさかだんまりを決め込むつもりか?」カッとなった康介は、更に激高して叫んだ。
「だったら渋川さんに直接聞くからいいよ! 友達に聞けば東京の連絡先くらい判るさ!」
「いや、それだけはやめてくれ!」
その言葉を無視して部屋から飛び出そうとした康介が振り返った時、その目に飛び込んで来たものは、両手を付いて土下座する十蔵の姿であった。それを見た時康介は、十蔵が途轍もなく大きな問題を隠していることを知った。
十蔵は未映子を傷付けるようなことは決してしない、という確約を康介にさせた上で、全てを打ち明けた。未映子の妊娠も中絶も。無論、その相手が自分であることも。幸いにして、彼女の祖母であるセツが未映子の妊娠、中絶に気付くことは無かったが、二人が関係を結んでしまったことを何かのはずみで嗅ぎつけたようだ。しかし、セツにはその事実だけで充分だった。十蔵はセツに強請られていたのだった。康介は眩暈を感じた。十蔵は言った、あんな風に脅されなくたって、生活費や学費の面倒は看るつもりだったと。しかし、孫娘の養育費を手に入れることに躍起になっていたセツには、そんな十蔵の言葉に耳を傾ける余裕は無く、十蔵の顔を見る度に未映子が身体と心に負った傷を当て擦り、被害者としての立場を強調し、そして金銭を要求した。その姿勢は執拗を極めていたし、半ば狂信的とすら思えた。ただし、自分の祖母が十蔵を脅迫した上で金を受け取っていることに、未映子が気付いていないのが救いであった。唯一の身内である祖母の、そんな醜い姿を未映子に知らしめることなど出来るはずも無かった。
康介は全てが許せなかった。父の自制心の無さに呆れたし、不甲斐無さも許せなかった。普段、偉そうなことを言っているくせに、何だ、その無様な姿は? いや、無様とかそういう問題ではない。未成年と関係を持つことは、そこに金銭の授受が無かったとしても違法行為だ。現役の刑事が法に触れることをしたうえに、それをネタに強請られるなど、情けなくてお話にならない。反抗期と言われる時期など、とうに過ぎてしまった康介であったが、久方ぶりに父親に対する侮蔑や失望など、怒りに似た感情が沸々と湧き上がるのを感じた。勿論、未映子は被害者だったが、父の人の良さに付け込んで金をせびるセツの卑劣さも許せなかった。それよりも何よりも、つまらない好奇心で父の過去をほじくり返してしまった自分の愚かさが許せなかった。
そう言いながらも、十蔵が単なるスケベ心でそのような行為に及んだわけではないことは理解していた。むしろ康介にとって驚きだったのは、そこまで心の深部で繋がっているような人物を、家族以外に持っていたという事実だ。康介があずかり知らない所で、赤の他人との間に「絆」とも呼べるような信頼関係を、他でもない自分の父親が築いていたことが驚きであった。未映子の不幸な過去を聞くにつけ、それに同情しないではいられないし、もし自分の父が、それに同情すら抱かない人間であったならば、今以上に失望していたことは確実だったろうという思いが、康介の心を掻き乱していた。
それ以来、梨本家の雰囲気はギクシャクし出し、その理由が判らない母だけが一人オロオロとするだけであった。もちろん、それを母に話せるはずも無かったし、元来無口なたちである父も、決してその件には触れようとしなかった。そんな家庭の雰囲気に耐えかねた康介は、地元大学への進学という当初の予定を変更し、東京の大学へと進学した。そうして康介は、自分の心や、父との軋轢に決着を付けることを先送りする形で、家から逃げ出したのだ。
/ もちろん、中絶手術の費用は十蔵さんが
/ 払ってくれましたが、これを仕組んだ祖
/ 母本人は、まさか私が妊娠までするとは
/ 思ってもいなかったのでしょう。私の妊
/ 娠ににも中絶にも気付くことはありませ
/ んでした。そうです、祖母は私のことな
/ ど見てはいなかったのです。
/
/ でもそれは逆に、私達にとって、唯一の
/ 救いだったのかもしれません。私は十蔵
/ さんと相談し、この件は祖母には内緒に
/ しておくことにしました。でも十蔵さん
/ はそれを黙っていることで、より一層、
/ 罪悪感に苛まれていたようでした。結局
/ は自分の身かわいさに、祖母に嘘をつき
/ 続けているのと変わらないと、ご自分を
/ 責めていらっしゃったようです。
「十蔵さん・・・ そんなに自分を責めないで」
「いや、ミーちゃん。あれは全部、俺が悪いんだ。この通りだ。すまん! 許してくれ!」
この件に関しては、十蔵は一歩も譲らなかった。この手の犯罪行為を、心の底から憎んでいた十蔵だ。自分がその加害者になってしまったことは、想像を絶する罪悪感をもたらしていた。
「そんなこと無いよ。あれは私が悪かったんだと思う」
「いや、許してくれなんて言える立場じゃないんだ。俺は・・・ 俺が責任を取る。あの責任は俺が取る!」
未映子にとっては、あれが十蔵による「犯罪行為」であったと考えること自体が、自分を貶める考え方であった。そんな風に思われることが、むしろ未映子を傷付けていたが、熱血漢の十蔵にはそのような少女の心情を慮るデリカシーは無かったのだ。
謝ってなんて欲しくない。未映子が欲しいのは、そんなものではない。未映子が求めていたのは、むしろあの時の再現だったのかもしれない。無論、十蔵を自分のものに出来るなどとは考えてはいなかったし、実際にその「犯罪行為」が再現されることは無いと判っている。再現させてはいけない事だとも思っている。それでも、ほかの誰よりも近くて、全てを曝け出せる相手が欲しいのだ。そんな関係に、あの夜だけはなれたのだと思えるのだった。
/ それでも祖母は、私達が関係を持ったこ
/ とをいいことに、人のいい十蔵さんから
/ の資金援助を当たり前の様に受け取って
/ いたようです。一度、十蔵さんからお金
/ を貰うのをやめたらどうかと言ったこと
/ が有りますが、その時、祖母は鬼の形相
/ で私にまくしたてたのでした。
いつもより上機嫌で帰ってきたセツを、未映子が問い詰めた。セツがあの件をネタに、十蔵から金をせびっていることに薄々感付いていたからだ。居間の卓袱台に向かい、一人で一万円札の枚数を数えている後ろ姿に向かって未映子が声を掛けた。
「お祖母ちゃん、何やってるの?」
「おぉ、未映子かい。もう帰ってたのかい?」
セツは慌てて札束を割烹着のポケットに押し込んだ。その様子を見た未映子は、それが十蔵から巻き上げた金であることを確信した。
「お祖母ちゃん、十蔵さんからお金貰ってるでしょ?」
セツの顔には、作り笑いの様なものが浮かんだが、心の動揺は隠し切れていなかった。
「お前は何も心配することは無いよ」
祖母の的外れな反応に、未映子の声に棘が生えた。
「心配してるんじゃなくて・・・ そんなこと止めなよ!」
自分の行いを咎められたセツの顔色が変わった。セツには、自分が非難される理由も道理も、何一つ心当たりが無いのだ。
「だってアイツはお前のことぉ傷物にしたんだよ。当然の報いじゃないのかい?」
「私、自分が傷物にされたなんて思ってないよ!」
思わず口から出た言葉の意味を、セツが理解できるとは思えなかった。自分が「傷物」だと認めてしまったら、傷付くのは自分だ。自分が傷付いたことを、自らが肯定してしまうことなのだ。そういう風に見られるから、今まで辛い思いをしてきたのに。どうしてそれが祖母には判らないのだろう?
「バカな子だねぇ。それじゃぁアイツがお前をめとってくれるとでも言うのかい?」
「それは・・・」
「判ってるじゃないか。そういうのを傷物にされたって言うんだよ。お前はもう傷物なんだよ!」
判るはずは無かった。セツは、未映子が傷付くことを望んでいたのだから。自分たちが傷付くことでしか、自分たちの正当性を主張できないいのだから。
「だからって、お金をせびるなんてこと、していい事じゃないよ」
「うるさい子だね! アンタの為にやってるってのが判らないのかいっ! あたしらは被害者なんだ! 加害者から金を取って何が悪い!」
「でも、それは犯罪だよ」
この言葉を投げ付けられて、セツの被ってきた面が真っ二つに割れて落ちた。その下から姿を現したのは、未映子の知る祖母ではなかった。
「犯罪って言うんだったら、あの男だって犯罪者さ! あんな奴に、情けをくれてやる必要なんで無いんだ。金持ちが貧乏人に優しくしないなんて法は無いねっ! アイツらからむしり取るのは、あたしたちの当然の権利。金持ちはそういう目に遭うのが当然の義務。そんな当たり前のことも判らないのかいっ!」
この時のセツの目は、既に常軌を逸していた。心の底から噴出する憎悪が全身から迸り出ていた。これがセツの本性なのだろうか? それとも、怒りに我を忘れてしまっただけなのだろうか?
「・・・・・・」
「あたしぁ止めないからね。これからもずっとむしり取ってやるんだ。骨の髄までしゃぶり尽して、思い知らせてやるよ。あたしらは被害者で、可愛そうな人間だってことをね。絶対に放しゃしないからね」
「・・・・・・」
未映子は思った。今までの自分が知っていたセツは、彼女の半面でしかなかったことを。未映子が今まで気付かなかった、もう一つの半面が、今目の前に姿を現していることを。こんなにも醜い顔を持つ「血」が、自分の中にも受け継がれていることを想像し、身の毛がよだつ様な思いがした。
/ あんな祖母を見たのは初めてでした。祖
/ 母の中に、烈火の如き憤怒というか、地
/ 獄の如き憎悪というか、そういったもの
/ が秘められていた事実が、私にはショッ
/ クでした。それ以来、その件について触
/ れたことは有りません。
/
/ そんなことをしなくても十蔵さんは学費
/ くらい出してくれたかもしれません。た
/ とえ支援が得られなかったとしても、私
/ がアルバイトをしながら大学に行くこと
/ は可能だった筈です。でも祖母は、脱線
/ 事故の一件以来、被害者として生きて行
/ くことしかできなくなっていたのでしょ
/ うか。自分が被害者であることを認識で
/ きた時だけ、祖母は安心できたのかもし
/ れません。自分が被害者になるためだっ
/ たら、何だってしたのでしょう。
/ 息を引き取る前日、祖母は十蔵さんを陥
/ れたことを打ち明けてくれました。自分
/ の唯一の肉親である孫娘が夫でもない男
/ と絡み合う姿を物陰からジッと見つめる
/ 想いとは、いったいどんなものだったの
/ でしょう? それを思うと、そこまで追
/ い詰められていた祖母が不憫でなりませ
/ ん。
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