第29話

 美蛾娘の宮にいた伍仁は、酒楽が黒官に連れられ部屋に入ってくるのを見て、とっさに身を隠した。

 くれないを基調とした美蛾娘の宮は豪華で、仕切りがわりとして、透ける緋紗幕が垂らされている。そのうしろに隠れたので、向こうからは己の影しか見えないはずだ。美蛾娘の宮に何人もいる黒官たちと同じ、お付きの者であるようにして息を潜め、紗幕越しに酒楽の様子を窺った。顔は青ざめているがどこも怪我をしている様子はない――まずは無傷。そのことにほっとした。朝に自分が選んだ、黒地に金桜の豪奢な着物のままだが、結っていた髪は崩れてしまっている。肩下まで降ろされた栗色の髪はつややかで、うす暗い宮にあっては僅かな光を集め、絹のようだ。こうして見ると、顔の造りが愛らしいので、少年か少女かもわからない。先ほど目にした柘榴帝との睦みごとを思い出し、胃の奥が重くなった。


 すぐそこに立つ酒楽は無表情で、いなくなった自分のことを心配している様子はない。ここにいる、そう告げるべきだろうか。実際に彼を前にすると、その意気がなぜか萎えてしまう。もう必要とされないのではないか。その恐ろしい考えがつきまとい、離れないのだ。


(今朝に戻れたら)


 座す美蛾娘の前に、泰然と立つ少年の何かが決定的に、今朝とは変わってしまった気がした。胸をかきむしりたくなる。心中を知りたいのに、おそろしい。このまま後宮に留まると言われたら、どうすればいい?

(柘榴帝を好きになったと言われたら。私は――?)


「よう来たのう、廿野酒楽」


 鼻歌でも歌い出しそうな美蛾娘は、機嫌がよかった。酒楽を跪かせると黒官たちに両脇から押さえつけさせる。まるで罪人の扱いだ。酒楽は冷静で、淡々と口を開いた。


「これは、どういうことでしょうか」

「どうもこうも、そちが遊舎貴人を殺したのであろう。あの夜、天河に突き落としてなぁ」

「なにを仰せなのか、わかりかねます」


 酒楽はいつも通りの無表情だが、瞳の中にかすかな動揺が見えた。

 遊舎貴人は女宮では名の知れた踊り手だ。二週間前、美蛾娘が天河に突き落とし殺したのを、酒楽も伍仁も見ている。あの夜、船べりや川沿いには他にも多くの目撃者がいた。黒官や遊舎貴人の侍女たち、その全員が、下手人は美蛾娘であると知っている。それなのに「酒楽が殺した」とはどういう了見か。美蛾娘は、黒官のひとりに画を持ってこさせた。酒楽の宮から探させたのだろう、遊舎貴人の美人画だ。


「これは、おぬしの手によるものだな。ふうむ、よく描けておる。この見事な白い指。遊舎貴人の着物の柄まで正確に描かれておる――まるでおぬしがその場にいて、遊舎貴人が溺れるのを見守っていたようではないか。そうであろう?」


 酒楽は無表情だったが、眉をかすかに上げた。瞳の奥できらめく苛立ちが大きくなっていくのは、良くない兆候だ。


「とんだ茶番ですね。貴女はその画を見て、それが遊舎貴人だとすぐにわかった。そこには溺れる女の手と、着物しか描かれていないのに。その場であなたも、彼女を助けずに見ていたからわかることだ。そうでしょう?」


 酒楽は慎重に言葉を濁していた。ありのままに「美蛾娘が殺したのだ」と伝えないのは、隙を見せないためだ。下手に美蛾娘を断罪すると、不敬罪で罰されてしまう。緋紗幕の影で見守っていた伍仁は、はらはらしてきた。嫌な予感がする。美蛾娘は余裕の笑みだ。


「おかしなことを言う。おぬしが遊舎貴人を殺すのを見た者は、ここにたくさんおる。だが、妾を見た者は誰もおらぬ。なんならお前の言うとおり、妾の姿を見たという目撃者を探してやってもよいぞ。黒官、侍女、誰でもよい――そんな者が存在すればの話だが」


 酒楽が何か言う前に、美蛾娘は黒官たちにその両袖を探らせた。ぎくりと、少年の表情が強張る。反射的に抵抗しようとしたのを止め、酒楽はされるがままになっていた。やがて黒官のひとりが、小さな桐箱に入った翡翠飾りを見つける。それを美蛾娘の手に捧げ渡した。


「ふうむ。中々に見事な飾りじゃ」

「安物です。ひびが入ったので、もう捨ててしまおうかと」


 その言葉に体を矢で射られた気分だった。美蛾娘の前だから本心ではないだろう。そのはずだ。痛む胸を抑え、そう考えてしまう。酒楽は平然としたままで、今告げた言葉は本心に見えた。動揺のかけらも見せない少年に、美蛾娘は桐箱から翡翠飾りをつまみ、揺らしてみせる。


「おぬし、いつもこれを付けておったなぁ。考えてみれば、後宮にきて妾とはじめて会った時からそうじゃった。それほど気に入った飾りなのに、ひびのひとつで捨ててしまうのは惜しくないかえ?」

「慣れているから、惰性で付けていただけですよ。お気に召したなら、さしあげます」


 伍仁は息が止まるかと思った。酒楽はつめたい視線で美蛾娘の手にある翡翠飾りを眺めている。やはりあれは演技などではない、酒楽の本心なのだ。

(私は、捨てられたのか……)


「ふむ」


 美蛾娘はつまらなそうに翡翠飾りを眺めていた。


「こんな安物、妾には必要ないわ」


 その瞬間、かすかに酒楽のほうを見て「だが」と言い添える。嫣然と現れるのは、おそろしい笑みだ。


「おぬしも要らぬというのだ。処分してしまおうか」

「っ、――」


 酒楽の両目が大きく見開かれるのを、伍仁は瞬きもせず眺めていた。驚愕に歪む少年の顔。それは美蛾娘が、翡翠飾りを固い石床へ落とした刹那に、恐怖に変わる。大きな翡翠の大玉は、耳障りな音を立て落ちたが、割れずになんとか持ちこたえた。ひびは大きくなったかもしれないが、まだ原型を留めている。美蛾娘のつま先のすぐそばで。誰が動くよりはやく、立ち上がった美蛾娘はかかとでその飾りを踏み割った。骨が折れるような音がして、翡翠の瑕疵きずが瞬時に広がった。



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