Digress.5

【精霊の悪夢】

黒く淀んだ水の中。暗く沈んだ海の底。

何もない。たゆたう。泡の果て。

――ご、ぼっ。

配水管が詰まったような音で吐く酸素。

開いた目に感情は、色彩は、澱んで掠れた。

虚無だけを映す。彼の思念に似た灰色。


――虚ろ。


歪んだ波が押し寄せて、僅かな視界が揺らいだ。

呑まれる。

耳を介してケタ、ケタケタ。

ケタケタケタケタケタケタケタ。

なんでもない何かの笑い声。谺する。

劈く。劈く。劈く。飽和。奇声。

塞ごう塞ごう耳障りを。

意思伝達回路は遮断。黒い蔦が邪魔してる。


――ひた……、


蔦は絡まる。首元這いずり締め付ける。

黒い蔦、黒い腕、怨んで逝った亡霊の誘い。

断末魔で囁いている。

手招き、招待。


『此方へおいで。手の鳴る方に。おいで。おいで』


泡に呑まれて業火。啼き叫ぶ幼い声。


 *


轟、と。

火が巻いて。火が巻いて。気が回って。目が回って。

暑い熱いあついアツいアツイ。

ぐるぐると、グルグルと、グるぐルグるグルグるグるグルと。

涙、火に溶けて。赤く。灼ける。爛れる。

肉塊はドロドロドロドロと。形成秩序の崩壊へ。


――ぐちゃり。


眼が転がってた。己の目玉が下から見上げてた。

哀しそうに、自分を見ていた。憐れんだ。

亡者が囁く問いかけ論。


『なんで……』


劈く。


『殺したの』

『なんでなんで、なん、で、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで』


己の目玉の映す世界にて。

自分は、爆ぜた。


 *


落。空中にて闇。

頭は下へ。足は上に。

くらくらグラグラアンバランスにて重力の加護。

果たしてどちらが正しい常識?

聴力を掠めた風の音。


――ふわり。


天上埋める積乱雲と締め付く温さ。

火柱雨粒風のカーテンで巻き込んで。


――生気を止めて。


空気抵抗で心肺停止信号。

アオハススメでアカハトマレ。

キイロハアシブミでクロハシネ。

シネしねシねしネしね死死死死死死死……。


――ごぼっ。ごぼぼぼ…………。


そして思い出したかのように泡ぶくを吐く。底の中。

苦しさ表した泡沫歪んで。空虚に飲まれた。


 *


 そこに、彼の意識は在った。在ったが、何もしない。

 灰色の海に沈んでいく中で、彼は感じたモノ全てに一切の反応を示さず、呑まれるまま、流されるままにそこにいた。

「(めんどくさいなー……)」

 彼はそれだけを思った。息もせず、光を映さず、死んだようにたゆたう彼は今、別の世界に居た。

 精神世界、とも言うべき心の中の世界。ここは

「(精霊の悪夢の中か)」

 つまり夢の中。彼は夢を見ている。

 これは世界を形成する精霊がその元素や力を通して見た様々な生き物の心の記憶だ。

 精霊の力を借りる『勇者』に課された代償。心の記憶の闇を具現化した夢は人間にとって心を抉る程の『途轍もない悪夢』と認識される。

 人々はそれを『精霊の悪夢』と称した。

 最高にグロテスクで最悪な人間の心理の混沌とした夢。

 悪夢を見ることで契約の代償とし、精霊の力もとい世界の理をその身に宿すことを許された人物――勇者は『精霊の悪夢』の唯一の犠牲者だった。


 悪夢から逃れることはできない。この夢の姿をまともに見ようとすれば人は必ず悪夢に呑まれて心は壊れる。それが例え勇者でも、だ。

 思考せず、干渉せず、同情せず、心を殺して、傍観する。身体に訴える苦痛も錯覚だと思えば痛くも痒くもない。そうしてやり過ごすことしかできないのはなんとも無力で無様だ。

「(はやく終わんないかなぁ)」

 とはいえ、この身と心にまとわりつく悪夢が不快であることには変わらない。

 誰にも届かない愚痴をこぼした瞬間、視界が黒に染まった。



 ハッとしたように目を覚ました。すぐに咽返るような呼吸をした、一刻も早く酸素を肺に取り入れたかったのだ。

「……………」

 胸が大きく上下する。息は荒く、額には汗が滲み、白い顔はいつも以上に青ざめていた。

 膝を抱えたまま眠っていた彼は自分の腕を引き寄せて布の部分をつまんでねじる。その姿は感情の薄い彼になけなしの感情を押し殺しているようだった。

 ひとまず深く呼吸をして息を整えてから、無機質なコンクリートの地面を見つめた。それが目に見えるわかりきった現実であることを示しており、何よりも安心感を感じられたのだ。悪夢(ゆめ)から醒めた。

「相変わらず、何が怖いんだか全くわかんねぇな」

 彼の心持ちとしてはその言葉に偽りはないが、。心の奥底で感じるものはそれを恐怖として認識していた。

「……でも、これ以上に怖いモノもないな」

 自嘲気味に彼は呟いて、口元をゆがませた。

 この悪夢(ゆめ)を見るたびに己が人間として生きてる、という実感を再確認するのはどうしようもなく哀しいことだった。

 そんな自分が可笑しくて、憐れで、妙に笑えた。が、サボりすぎた表情筋は仕事を諦めてまた笑うことをやめてしまった。

「めんどくさ」

 些細な、けれどどうしようもないモノに意味もわからず怯えている自分が阿呆らしくなって、忌々しげに吐き捨てた。過ぎたことをいつまでも引きづってまで思考する程馬鹿らしいものも無いだろう。



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