第94話 GO

「やぁ、今日はよろしく。調子はどうだい?」


 俺たちの姿を見つけるなり、マシューは気さくに声を掛けてきた。いつもと変わらぬ声のトーン。いつもと変わらぬ、自信に満ちた綺麗な顔。

 だがその気さくさとは裏腹に、俺はその周囲に張り詰められた緊張感に気圧けおされそうになっていた。マリッカは。まだ楽器に触れてさえいないのに、バンドの完成度が溢れ出ているようにさえ感じた。


「よろしくお願いします。準備はばっちりですよ」


「それは何より。こちらも楽しみにしてるからね」


 俺はマシューと握手を交わし、そしてマリッカのメンバーは楽屋へと向かって行った。

 準備はばっちり。その言葉に偽りはない。自分たちは自分たちにできる限りのことをやってきた。だから不安を感じてはいなかった。


 この瞬間までは。


 マリッカの曲は知っている。CDも持っているし、サラダボウルの夏合宿ライブでコピーもした。曲の完成度も表現力も、非常に高いことはわかっている。

 だけど、cream eyesなら張り合えると思っていた。いくらマシューが天才だろうとも、莉子が天性の歌声を持っていようとも、ダンボが生ける伝説と呼ばれていようとも、牡丹が尊敬に値するベーシストであろうとも。それでも負けないと思っていた。


 だが、今はその気持ちが揺らいでしまっている。何なんだこの空気は。ライブを直前に控えて、相手のプレッシャーに怖気づいてしまったのだろうか。


「朔さん」


 マリッカを見送ったまま黙っていた俺に、玲が声を掛けてくれた。彼女もまた、いつも通りの声のトーンで。


「うん、大丈夫」


「マリッカの皆さん、気合入ってる感じでしたね。私たちも頑張らなくちゃ!」


「……あぁ、もちろん!」


「あ、クリームの皆さん。ちょっとこっち来てもらっていいっすか?」


 日下部さんに呼ばれ、俺たちは今日のスケジュールについて改めて説明を受けた。これ以降は会場の外に出ないこと、物販はシルバー・ストーンのスタッフが行うこと、マリッカのライブ中は楽屋か舞台袖にいること等。おそらく以前の打ち合わせの時にも聞いた内容の確認をしていたんだと思う。だが、俺の耳にはそのほとんどが入ってこなかった。


 どうしたって言うんだ。マリッカがバンドとしてハイレベルだなんてことは、最初から分かっていたことじゃないか。何をそんなに怖がる必要があるんだ。今日のライブがアウェーだからか? 自分たちを見に来る人がいないからか? でも、それだって初めての事じゃない。シンタローさんたちのnuclearニュークリアと対バンした時だってそうだったじゃないか。

 あの時も、まったく怖さを感じなかったわけじゃない。ただそれより、あの場にいる人たちに自分たちの音楽を認めさせてやりたいという気持ちの方が大きかった。


 今はどうだ。もちろん、この会場を埋めるであろう500人の観客オーディエンスたちへcream eyesの音楽をぶつけられることにワクワクする気持ちはある。だが、俺たちの音楽は果たして届くのだろうか。

 今夜比較される対象は、言うまでもなくマリッカだ。才能に溢れ、花があり、人気もあり、それを裏付ける確かな技術を持っている。


「マリッカのリハ見てく? 楽屋戻る?」


 そんな本物と比較して、俺たちの音楽が全く届かないのだとしたら……


「おい、朔どうした」


「ん? あぁ、俺に話しかけてんのか」


「当たり前だろ。どうしたんだよ、ボーっとして」


「別に何でも……いや、同じバンドのメンバーに強がってもしょうがないか」


「リーダーが隠し事はあかんねぇ。何か思うところがあるなら言うてみ」


「そうですね……正直言うと、けっこうビビってます」


 俺の発言を咎める人はいなかった。いまさら何言ってるんだ、とか、リーダーがそんなんでどうする、とか、そんな風に言われると思っていたのに。


「マリッカと比較されるってことは、それはもう言い訳ができないってことでしょ?」


 誰も止めてくれないものだから、弱音が溢れてしまう。


「お客さんだって、今までみたいにバンドの知り合いが付き合いで来るなんてことはなくなるわけだし。純粋に音楽が好きで足を運んでくる人ばかりだろうから……今まではどこかで、『もともと音楽に興味の無い人たちが自分たちに興味を持てなくても仕方ない』って、それは俺たちの音楽が悪いからじゃないって、自分に言い聞かせることができてたけど」


 こんな話、ライブ前にする内容じゃない。俺はリーダーなんだから、もっとポジティブで皆を鼓舞するような発言をしなければいけないのに。


「今回のライブで俺たちの音楽が誰にも届かなかったとしたら、それはもうぐうの音も出ないほど俺たちの限界を見せつけられるような気がして、怖いんだ」


 こんな情けない話を、メンバーのみんなは黙って聞いていた。うじうじしていて、実に男らしくないと自分でも思う。嫌気が差しただろうか。モチベーションを削いでしまったんじゃないだろうか。


「なんだ、そんなことか」


 俺の思いをよそに、京太郎はあっけらかんと言い放った。


「良かった。怖いのは私だけじゃなかったんですね」


 玲は胸に手を置いて、心から安堵した顔を見せた。


「怖いってことなら、ウチだって同じや。皆そうやろ。誰だって本物と比較されるのは怖い。でも、それを乗り越えなきゃ何時まで経っても先に進めへん。そうやろ?」


 琴さんは、優しく諭すようにそう言ってくれた。


「琴さんの言う通り。それに、今日届かなかったとしてもそれが俺らの限界じゃねーだろ。今日届かなかったなら、次の長野でまた手を伸ばせばいい。それでもダメならその次だ。大体俺らが目指してるのは、そんな簡単に行けるような場所なのか?」


「そうですよ、怖くても皆と一緒ならきっと大丈夫です! 『赤信号、皆で渡れば怖くない』って言いますし!」


「玲ちゃん、それはちょっとちゃうかな」


 意外な反応、ではないのだろう。俺は、皆ならこう言ってくれることを期待していたのかもしれない。察して欲しいとか言う、面倒くさい恋人みたいじゃないか。恋人いたことないけど。


 そう思ったら、なんだか笑えて来た。


「なに笑ろてんの」


「いや、すいません。何だか嬉しくて」


「気持ち悪い奴だな」


「うるせーありがとよ。おかげで気持ちが楽になったよ」


 メンバーの誰もが、怖いのは変わらない。ただ、それでもその先に俺たちの目指すべき場所があるのは確かなのだ。だから、怖くても進まなくてはいけない。


 一人では立ち止まってしまったかもしれないその道も、皆がいるなら大丈夫。弱くてダサくて格好悪くて、思い描いた理想とは違うけれど。


「あーやべーめっちゃ緊張する! おしっこ漏れそう!」


「阿呆か。さっさと済まして来んかい」


 肩の荷が下りたわけではない。怖さが無くなったわけでもない。それでもきっと大丈夫。


 気持ちも膀胱もスッキリとした気分で見たマリッカのリハーサルは、呆れるほどの完成度だった。笑いが止まらない。人間、本当に良いものを見たときは笑うしかないものだ。

 俺たちはそこに手を伸ばそうとしている。今の立ち位置からどれくらいの距離があるだろうか。


 カラオケボックスで玲と出会ったあの日まで、俺はどこにも行けないと思っていた。でも今は違う。道は拓けているじゃないか。一緒に歩いてくれる仲間がいるじゃないか。


「玲、マリッカのリハーサル見てどう思った?」


「すごかったですね。演奏は完璧だし、何より莉子さんの歌が圧倒的でした。聞いてたら涙が出そうなくらいに」


 玲は心からそう言っているのがわかる。本当に素直なやつだ。そしてその先に続く言葉が何なのか、俺はもう知っている。


「でも、負けません!」


 その言葉を現実にするんだ。覚悟を決めろ。怖くても、打ちのめされても、馬鹿にされても、ひたすら前へと進め。進め。進め!

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