第87.2話 REC Track 01 KOTO

 琴さんの体力は限界を迎えようとしていた。


 息を切らし、腕を上げることにすら難儀している。これまで6時間、ろくに休憩も取らずにドラムを叩き続けてきたのだから無理もない。

 モニタールームから見るその姿は、いつもの余裕たっぷりの琴さんとは全くの別人だった。


「もう一回」


「琴さん、さすがに根詰め過ぎじゃないですか? レコーディングは今日だけじゃないんですから、一回ちゃんと休憩入れましょうよ」


 明らかに動きが鈍ってきている琴さんに、さすがにそう言わざるを得なかった。気合が入っているのはわかるのだが、これはもうそういう次元ではない。それに、この状態のままリテイクを重ねても演奏のクオリティが向上するとは到底思えなかった。


「もう一回」


「琴さん!」


「ええから。あとちょっとなんよ」


「あとちょっとって……」


 あとちょっとも何も、収録自体はとてもスムーズに進んでいたと思う。俺からすれば、もう十分出来の良いテイクが5曲分録れていたからだ。


 だが、琴さんが一向にオッケーを出さない。何度繰り返しても、満足する出来にならないらしい。そしてそのまま、6時間が経過していた。


「琴さん、あとちょっとで何か掴めそうなんですか?」


 今度は玲が、モニタールームのマイク越しに琴さんに問いかける。その問いに、琴さんは無言のまま頷いた。その仕草にさえ、もう力が感じられない。


「朔さん、あともうちょっとだけ、琴さんに頑張らせてあげてくれませんか?」


「いや、でもさすがに……」


「お願いします」


 真剣な顔で頭を下げる玲。オーナーの小林さんは何も言わなかった。京太郎はヘッドフォンをつけて自主練に没頭していた。


 あと少しで何かが掴める。その感覚はわからなくはない。前回のレコーディングの時、俺も同じような経験をしたからだ。

 しかし、他のパートに比べてドラムの演奏は体力の消耗が激しい。何かを掴めたとしても、それを表現するだけの体力が残っていなければ意味が無いじゃないか。


 やはり、一度止めるべきだろう。琴さんはムキになっている。「バンドの良さはメンバー全員の力が合わさって生まれる」と言っていたのは琴さんなのに、きっと天才と呼ばれるダンボを意識しすぎているに違いない。


「あ」


 琴さんの手からスティックが零れ落ちた。もはや指先にも力が入らなくなってきているようだ。スティックを拾う動きも緩慢で、正直もう見ていられない。


 限界だ。レコーディングを止めようとマイクに近寄った時、防音ガラスの向こうで、琴さんが脱力しきった腕を振るいスネアを叩いた。


 ズパァンッ!


 モニタースピーカーから届けられた鋭い音が耳をつんざくく。今まで聞いてきた琴さんのスネアの音とは明らかに異なる響き。死に体の姿からは想像もつかないほど、生き生きと瑞々しい、美しい波が打ち付けるような音色だった。

 そのまま短いフレーズを叩いた琴さんは、顔を上げてこちらに笑顔を見せる。そして右手の人差し指を上げた。


「もう一回」


 レコーディングを止めなければ。確かにそう思っていたはずなのに。


「よろしくお願いします」


 今の琴さんを止めるなんて、勿体なくってとてもとても。

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