第七話 生と死は近くて遠い


「川原さんはね、ケーゴと同じように東京の大学に進学して就職したんだけど、上手くいかなくて体調を崩しちゃってね。五年くらい前に星坂に戻ってきたんだ。しばらくは療養してた筈なんだけど、ストレス発散の為にホストクラブにハマっちゃったみたいでさ。悪い男に騙されて、お金取られた挙句に子供まで身籠っちゃって」

「……詳しいな、お前」

「さっきみたいに、たまたまこのマンションのエレベーターで会ったんだ。大きなお腹を抱えて、一人で凄く思い詰めた顔してたから。関わりたくなかったけど、それで自殺でもされたらそっちの方が気が滅入るし。ま、結局は話を聞いてあげることくらいしか出来なかったけど」


 あの後、衝撃の真実に放心状態となった俺を零が引っ張って自分の家まで連れて来てくれた。酒を飲み直す気分にもなれず、二人ともミネラルウォーターのペットボトルをちびちびと煽るだけ。

 先に口を開いたのは零だった。川原さんの相談相手をしていたおかげで、彼女の事情にはかなり詳しくなったのだと言う。彼が言うには、彼女は未婚のまま娘を生んで一人で育てていた。だが、結果は悲惨なものとなってしまった。

 相手の男は行方をくらまし、両親にも頼れないまま。心身共にボロボロとなった彼女は、娘をストレスの捌け口にした挙句に殺してしまった。

 俺とは違う、普通だった彼女が残虐な事件を起こしてしまった。別に、彼女が心配だったということではない。エレベーターで会った時も、零に言われなければ彼女だとは気がつかなかったくらいなのだ。

 それなのに、なぜこんなにもショックを受けているのか。簡単だ。人間嫌いでも、社会不適合者でもなかった川原なずなという人物が、殺人事件を起こして逮捕された。

 普通の彼女が駄目なら、自分はもっと悲惨なことになるのではないか。相手や周りの雰囲気に流されて、婚約をしてしまったことを後悔した。ただ、それだけだ。


 ……いや、違う。


「なあ……川原さん、さ。俺が、自殺したって言ってたけど……あれ、どういうことだ」

「そのままの意味さ。きみは死んだんだよ、ケーゴ」


 まるで明日の天気の話でもするような表情で、零が素直に頷いた。そうか、そうだったのか。おかしいとは思っていたんだ。

 十五年も前に引っ越していた両親に、目の前に居る自殺した親友。一体どういうことかはわからない。でも、自分が自殺したという事実は思いの外、キツイ。


「……なんで」

「さあ、それはわからないよ。きみは遺書を残さなかったからね」

「俺は、いつ死んだんだ?」

「中学三年生の十二月。今でもよく覚えてる。春になる前に、きみの両親は星坂から引っ越してしまったこともね。おばさん、ケーゴが死んでしまって精神的にまいっちゃったみたいだよ」

「十二月……? それは、違う! 俺じゃない、あれは……」


 あれは零、お前だ。そう言い掛けるのを、何とか堪える。言ってしまったら、今の世界が壊れてしまうと感じた。

 でも、彼には声に出さなくても伝わってしまったようだ。


「……死んだのは僕だって、そう言いたいのかな?」

「っ……」

「あー、なるほど。よくわかんないけど、なんとなくわかったかも」

「なんだよ、それ」


 意味がわからない。頭がガンガンと痛んで、気持ちが悪くなってきた。目を瞑ったら、すぐにでも意識を手放してしまいそうだ。


「僕さあ、本当は死のうと思ってたんだよね。中学三年生の冬に。卒業した後の未来がさ、苦痛だったんだよね。ケーゴにも話してなかったと思うんだけど、僕……高校に行くのが堪らなく嫌だった。ああ、学校って場所自体が僕にとっては拷問だったんだけど」


 そこまで言ってから、零が立ち上がり窓を開けた。少々じめつくが、涼しい夜風が部屋の中に吹き込んでくる。懐かしい、星坂の風だ。

 この風だけは、ずっと変わらない。


「だってさ、同い年の人間を一部屋に詰め込んで同じ行動を強制させるんだよ? 今でも考えただけで発狂しそうだよ。でも、中学生の頃はまだ良かった。ケーゴが居たし、クラスの人達も理解ある良い人達ばかりだったからね。でも、高校に行ったら皆バラバラだ。高校だけじゃない、その先の人生で何度もそういうことを続けなきゃいけない。それを考えただけで、うんざりしちゃってさ」

「まさか、それが自殺の原因か?」


 窓のサッシに寄り掛かりながら、零が頷く。正直、呆れた。怒りなどという感情は湧いてこなかった。

 を、ただ面倒だからという理由で実行したというのか。


「ねえ、ケーゴは何で死んじゃったの?」

「……俺は死んでない。お前には幽霊か何かに見えてるのかよ」

「人が一人消えたところで、世界は何も変わらない」


 思わず、息を飲んだ。零が最後に残した言葉。さらさらと髪を揺らしながら、彼が再びその言葉を紡ぐ。

 思い出される。彼との最後の別れを。棺に入れられて、美しい花々に囲まれていたたった一人の親友の亡骸を。


「何でそんな顔をするの? ケーゴが自分で言った言葉じゃん」

「お、俺が?」

「最後に会った時に言ったんだよ。あー……でも、きみは覚えてないのか。きみはさ、ケーゴ。やっぱり、こことは異なる世界から来てくれたんだよ」


 そう言って、彼が笑う。異世界転移。昼間に言っていた与太話が、急に現実味を帯びてきてしまった。

 零が生きて、俺が死んだ世界。俺が生きていた世界とは明らかに違う。かと言って、夢や幻でもない。海風の匂いも、零という存在も何もかもが生々しい。

 それでも、これが夢だと言うのなら……なんて、幸福な夢なのだろう。


「僕が死ぬのを諦めたのは、きみが死んでしまったからだよ。自ら海で溺れて、真っ白な顔で永眠ねむったケーゴが怖かった。死というものが怖くなった。だから、死ねなかった。情けなくて我ながらどうしようもない話だけど」

「それは……俺も、同じだ」


 そうだ、俺も零と同じなのだ。俺も、死のうと考えていた。俺は他人が苦手だ。人間が嫌いだ。何よりも、自分自身が大嫌いなのだ。

 誰かを疎ましく思うことが気持ち悪い。他人に助けられて生きている癖に、そう感じてしまう自分が嫌だ。

 だから、死にたかった。これ以上、人に嫌悪したくなかったから。疲れてしまったから。それなのに、零が死んでしまった。親友が、俺の唯一の理解者が。それで、俺は死が怖くなってしまったのだ。


「っ…………」


 不意に、意識が遠くなる。床に倒れ込み、目を開けていることすら難しくなる。学生の頃、徹夜を繰り返したことが何度もあったが、あの時以上の眠気が襲ってきたのだ。

 眠い。嫌だ、まだ眠るわけにはいかないのに。助けてくれ、と零に向かって手を伸ばす。


「れ、零……」

「一体この現象が何なのかは、一生理解出来そうにないな。でも、きみと再会出来て嬉しかったよ、ケーゴ。本当はもっと色々と話したかったけど、それも難しそうだ」


 零が俺の傍まで歩み寄り、膝をついて伸ばした手を自分の両手で握り締めた。間違いなく、生きている人間の温度だ。

 それだけで、目が熱くなって視界が滲む。眠ってしまったら、もう二度と零には会えない。何となく、何の根拠も無いけれど、わかってしまった。


「ケーゴは、僕の為に泣いてくれるんだね。そうか、やっぱり僕の方がろくでなしだったみたいだね」

「れ、い……お、おれ」

「ありがとう、ケーゴ。僕に、一人の人が死ぬということが、どういうことかを教えてくれて。世界は何も変わらないかもしれないけど、周りに居る誰かを変えてしまうということを教えてくれて」


 もう、零の顔が見えない。目蓋が閉じて、意識が遠退く。彼の手を、握り返すことが出来ない。

 零、待ってくれ。


「僕はこの世界で、それなりに精一杯生きてみるよ。だからケーゴも、自分の世界で無理せず生きてね」


 バイバイ。意識が薄れて、何もかもがわからなくなった。零の声も、もう聞こえない。ここがどこか、今が何時なのかもわからない。


 次に俺が目を覚ました時に最初に見たものは、真っ白な知らない天井だった――

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