第31話 良煙寺家
「ありがとうございました」
降りる前は先の首振りの所為で頭がクラクラするかと思ったが、それよりも尻が痛くなっていた。考えてみれば荷台なので、尻への労りゼロだった。忘れていた。
駆け上がって行く軽トラを手を振って見送り、良煙寺家に向き直る。
石畳が真っ直ぐ伸びており、その先には2メートルを超える巨大な門が
通路にも門にも同じく苔が生えているが、周りに雑草がない事から手入の具合は窺える。恐らく敢えて苔は取り除かない趣向なのだろう。
チチチチ。
上空で小鳥の
見上げた空は、高く狭い。
背の高い木々から伸びた枝が、日差しを恭しく畳んで柔らかくしている。
優しく舞い降りた光に熱は無く、あくまでも明かりとしての役割に徹しているようだ。
辺りは涼やかな空気で満たされており、ただ立っているだけで体が洗われている感覚があった。
石畳を抜け門の前に着く。
呼び鈴を探すがボタンのようなものは無い。
代わりに縄が垂れており、その行き先を見ると鐘が付いていた。
縄を引っ張ると鐘が揺れ、ガランガランと音を立てた。
静寂に包まれたこの場所だからこそ、この音でも良いのだろう。そう思うほどにこの鐘の音は控えめだった。
程無くして中から足音が聞こえ、門が開いた。
中から顔を出したのは気の良さそうな老婆だった。
「こんにちは。よくいらっしゃいました」
腰は少々曲がっているものの、顔にはとても艶が有り、お婆さんと言う表現は失礼に思える程若々しい。
「こんにちは。見学の予約をしていた……あっ」
見学の予約をする時、俺は名前を言ったっけ?
「えっと、
「はい、どうぞ、中へ入ってください」
「ありがとうございます。お邪魔します」
いつの間にか名前を言っていたのだろうか。
門を潜ると、そこにはまた石畳が有り、その先に母屋が有るようだった。
庭園と言っても差し支えない程の見事の庭だった。
まず目に入ったのは松だ。門や塀の高さを超えないように調整された松は
池には鯉が3匹ほど泳いでいた。
奥の方では、ちょぼちょぼと言う音を発しながら石を伝い落ちる水が、水面に不規則な波紋を作っていた。
「見事なお庭ですね」
「ありがとうございます。旦那の
「理三郎さんと言う方がこの稽古場の師範ですか」
「はい。私は
「あの、菜花さん」
「はい?」
「自分は予約の時に名前を言った覚えが無いのですが」
「ええ。言ってませんでしたね。ですが理三郎さんが、名前は解らないが少年が来るよと言っていましたので、聞き覚えの無い名前を持つ少年を待っておりました」
「すみません。言い忘れていて」
「いえいえ。こんなところにわざわざ訪ねて来てくれる若い人と言えば、もう間違えようがありませんので」
菜花さんはキャラキャラと笑った。やはり老婆と表現するにはあまりに可愛らしい笑い方だった。
母屋に案内された俺は、お土産の東京ばな奈を渡して、居間で二人を待たせて貰う事にした。
居間からふと玄関を見ると、見覚えのある自転車が置いてあった。
「いや、まさかな」
自転車などどこにでもあるし、これがあいつのものと言う確証はない。
不意に玄関が開いた。
「あれ?
汗で湿った亜麻色の髪を顔に張り付けながら、
「おう。お疲れ様」
「あ、うん。でもなんで?」
「俺が魔王討伐を迷っていると言うのに、お前は勝手に
最大の理由はそこではないが、それは帰りの電車の中で話すとしよう。
「ところで、あの自転車って、まさかお前のじゃあないよな」
「私の」
「え、じゃあ、まさかお前、ここまで」
「そう、チャリで来た」
「マジか!」
すげえ! 紗凪と出会ってから今までの間で一番プリクラを撮りたい!
しかしこんな山奥にプリクラを撮る機械など有るわけもない。
「紗凪、取り敢えず写メ撮ろう」
「え。なぜ?」
「いいから。記念記念。チャリで来た記念」
「燈瓏君は来ていないけど」
そう言う紗凪を無理矢理ファインダーに収め、一枚記念に撮った。
よし、絶対あのフレーズを入れて加工しよう。
と、興奮していて紗凪の凄さが薄れていたが、こんな場所まで自転車で来るなんて正気の沙汰ではない。よくよく見ると自転車は泥まみれでボロボロのガタガタ。タイヤはパンクしておりリムもベコベコ。今更敢えて言うが、これは競技用の自転車ではなくママチャリだ。
「それにしても良くこれで来られたよな。と言うか、まず出発の時点で行こうと思ったよな」
「私はここに稽古に来たわけだから、体力作りも兼ねて自力で行くべきと判断したわ。ほら、ジムに通うのに車で行って、中でランニングマシンに乗るって言う矛盾を、私は生んではいけないと思ったから」
「それはそうかも知れんが……一体何日掛かったんだ?」
「土曜日の朝に出て月曜日の昼に着いたから、三日は掛かってない」
俺の電話やメールになかなか返答が無かったのは、自転車で爆走していたからか。
「この家までの悪路も登ったのか?」
「当然。途中で気付いたんだけれども、私多分クライマーだから」
いやスプリンターとかクライマーとか関係なくない? あの悪路。
「パンクしているが?」
「大丈夫。車軸は死んでなかったから、リムで無理矢理登った」
だからベコベコに。仮にリムが生きていたからと言って、あの自転車はもう再起不能だろうが。
二人で自転車を見ながら話をしていると、玄関口の方に人影が現れた。
「こんにちは」
そちらを見ると良煙寺理三郎さんと思しき老父が立っていた。背筋がピンと伸びていて、こちらもお爺さんと言う言葉は当て嵌まらない程に若々しい。
俺はお辞儀をした。
「初めまして。比々色燈瓏と申します。先日は電話で名前も名乗らず、大変失礼しました」
「いえいえ。こちらも受け付けておきながら名前も住所も電話番号も聞かずに、誠に失礼しました」
深々と頭を下げられたので、俺はもう一度頭を下げ直した。
「今日の稽古はもう終了、と言うか朝薙さんの稽古は修了してしまったので、見学はできませんが、明日から体験していきますか?」
ん?
終了って?
「えっと、今日は終了って事じゃあなくて、修業って意味の修了ですか?」
「はい。彼女は物凄く呑み込みが早かったので、今日にて、教えられることは全て教えました」
紗凪を見ると彼女は顔を背けながらも控えめなピースサインを送っている。しかもダブルピースだ。どういう所存? 今どういう所存なの?
「それで、比々色さんはどうされます?」
「あー、えっと、紗凪が帰るなら一緒に帰ります」
「そうですか。折角着て頂いたのに、申し訳ないですね」
「いえ、こちらこそ! なんだか冷やかしみたいで申し訳ないです!」
俺が理三郎さんと話している隙に、紗凪は何やら準備をしている。もう帰る気なのか?
すると紗凪は理三郎さんの前に来てぺこりと頭を下げる。
「お風呂、頂きます」
「はい、どうぞ」
お風呂? ああ、汗を流しに行くのか。凄いなここ。稽古場と言うより旅館みたいだ。
「比々色さんもよろしければ、どうですか?」
「お風呂ですか?」
「はい。うちの風呂は広いですから、気にせず入れますよ。比々色さんが古武術を体験されないにせよ、朝薙さんは明日までここに居る予定ですので、今日は一泊して行ってください。なに、お金は気にしないでください。ここまでわざわざいらしてくれたお礼だと思って頂ければ」
なんていい旅館なんだ。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
俺は着替えを持って風呂場に向った。
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