第11話 律己の散髪

「今日はどうする? もうそろそろ夏だし、サッパリしてもいいと思うが」

 先輩が俺の髪の毛に霧吹きで水を掛けながら聞く。

「あんまり印象変えたくないんですよね。浮きたくないと言うか」

「まあ確かに、学生にとって髪型と言うのは一つのアイデンティティでもあるから、それを大きく変えるのには抵抗があるよな。じゃあ、今日もあまり長さを変えずにく感じで良いかな?」

「あ、はい。それでお願いします」

 と言う感じで、俺は中学生からずっと同じ髪型を貫き通している。トレンドと言うものが髪型に存在しているのも知っているし、周りの男子がそれに迎合して髪型を季節ごとに変えているのも知っている。が、そこに己は居ないと思う。マジョリティである事による安心を得たいから、皆こぞって同じ髪型にするのだろう。であれば、俺はマイノリティに属したいから髪型を変えていないのかと聞かれれば答えは否だ。俺も安心にすがりついている。今までの自分の髪型と言う安心に。

 結局、トレンドに乗っかっても、乗っからなくても、どちらかの安心は手に入れられるのだ。皆と同じと言う安心か、今までと同じと言う安心か。そのどちらか心地の良い方を選んでいるだけなのだ。

 この店には有線音楽放送が無い。よって誰も話さなければ、髪の毛を切るサリサリと言う音だけが響く。

 客は俺以外にはいない。先の客も既にお会計を済ませて帰って行った。先程まで掃除をしていた律己りつき先輩のお父さんも、今はここに居ない。バックヤードで休憩しているのだろう。

 ――サリサリサリ。

 その音の切れ間に、店の前を走る車のアスファルトを裂く音が挟まっては抜けて行く。

 この、静かな空間が堪らなく心地よい。

 パーマ液の鼻を突く匂いが染みた壁。シャンプーの匂い。蒸しタオルの匂い。フローリングの木の匂い。

 嗅覚も聴覚も満ち足りている。鏡越しに見えるのは、艶やかな栗色を後ろで束ねた美しい女性。これほどの眼福がんぷくが有ろうか。

「学校は、どう?」

「楽しいですよ」

「そうか。なら良いんだ。杞憂きゆうだったのかな。なんだか、いつもと様子が違うから」

「友達にもそう言われたんですけど、そんなにおかしいですかね?」

「おかしいとかではないよ。何と言うか、物凄く悩んでいるようで。もしも私の所為で誰かから虐めを受けているのなら、遠慮せずに言ってくれ。できる事は少ないだろうが、私にできる事は何でもしよう」

「お心遣いは嬉しいですが、大丈夫ですよ。それより、俺の方が先輩に迷惑かけてるんじゃないかって、ちょっと心配です」

「迷惑? 何が?」

「ほら、俺がここに来ると毎回学校の事聞くでしょう? なんだかんだ言って学校に居たかったのかなって。本当は卒業までは通いたかったのに、俺が余計なことしてトドメ刺したんじゃあないかって、そんな俺が毎度毎度来店してたら嫌な気持ちにならないかなって考えちゃうんですよね」

「それは勘違いだ。前にも言ったけれど、君の所為じゃあないんだ。確かに自分もどこかで思ってはいたよ。せめて卒業するまではって。でも、君を巻き込んでしまった時に気付いた。私はなんとなく自分の達成した感の為だけに、毎日来たくもない学校にダラダラと来ているんだよなって。結果無関係な人も巻き込んだ。そう、君はあの時無関係だったはずだ。それなのに、君はただ私を助ける為に自分の得にはならない事をやった。私は君に出会うまで、そんな素直な優しさに出会った事は無かったんだ。だいたいの優しさが、見返りを求めてのもので、底抜けに尽くすものじゃあなかったから。その素直さに触れて、私はようやく自分の心を受け入れた。達成した感なんていうぼんやりとした未来ではなくて、こんなところから早く逃げ出したいと言うはっきりとした今の自分の欲望に忠実になる事が出来たんだ」

「欲望に忠実……?」

「ああ。弱い自分を受け入れる事が出来た」

 話しながらに手際よく髪を梳いて行く先輩。

「何を言うんですか。先輩は弱くはないし、ましてや欲望に忠実になったわけじゃあない。欲望から距離を置いて、知性に従ったんですよ」

 先輩の手が一瞬止まり、間を置いて動き出す。

「そんな高尚こうしょうなもの、私は持っていないよ」

「いいえ。持っています。虐めと言うのは、自然界における淘汰とうたに似ています。勿論全てが全てその限りではないですが、本能が自らを守る為の手段として行っているのは間違いない。ですがそれはとても野性的で非人間的な事なんです。そこから距離を置くと言う行為は、極めて人間的でまた知性的だと言わざるを得ない」

 ばさみから刃の短いものに変える。

「君はまるで哲学者の様だな」

 鏡の中で、俺の真剣な顔とバランスを取るかのように微笑む先輩。

「哲学がなんなのか俺にはわかりませんが、先輩が正しい行いをしたという事は事実です。その事実を俺は全肯定しますよ」

 先の場の雰囲気を取り持とうとした笑顔とは違い、今度はどこか自嘲を孕んだカサッとした笑顔で以って相槌あいづちを打つ。

「先輩は綺麗です。それこそ見返りありきの優しさを振りまけば、かしずく男子生徒も居たでしょう。そうすれば一転、スクールカーストの最上段に君臨する事も可能でした」

 先輩はふるふると左右に前髪を揺らす。

「でもそれをやらなかった。なぜか。それをやったら先輩が虐める側に立ってしまうからだ。権力を持てるのに持たず引き下がる。かつて偉人たちがついぞ手に入れる事が出来なかったその聡明さを、高尚と呼ばずして何と呼ぶのか」

 俺の頭に置かれていた視線が鏡に向けられる。

「彼らは先輩の心の芯を知らずに、利己の精神というものさしで測り切れない貴女の尊大さを意味不明の一言でけがした。そんな恥知らずな奴らには俺からは何も言う事が無い。どれほど彼らのわかりやすい言葉を並べたとて、芋虫に宇宙の広大さを説明する程に無意味で無価値な時間の浪費にしかなり得ないのだから」

 先輩の栗色の瞳が俺の瞳を捉える。鏡越し。

「それが出来ない代わりに俺は、貴女の秀麗しゅうれいさと尊大さと聡明さを肯定します。どんな下劣な野生が貴女を否定しようとも」

 一際大きく目が見開かれた。

「好きだ」

 ――ジョギン。

「え?」

「あ、すまない。急にこんな事……ああ! すまない!」

「ダブルミーニングで!?」

 彼女が持つ鋏から、かなり長めのそして多めの毛束がばらりと落ちる。

 その量に一瞬狼狽うろたえたが、目ん玉をひん剥いて慌てる先輩を見たらなんだか可笑しくなってしまって狼狽ろうばいも引っ込んだ。こんなにも人間味のあるところを見るのは初めての事だったから、多分面白い以上に安堵あんどがあったのだろうと思う。

「本当に申し訳ない……。ここから整えると結構、いやだいぶ短くなってしまう。かと言って整えないとここだけ禿げているように見えてしまう。だから、切らなくてはいけないのだが、その」

 歯切れの悪い説明だ。先輩は今までこういうミスをしたことが無いのだろう。ミスったのが俺の頭の上で良かった。

「短くなっていいので、違和感ないようにお願いします。髪型は俺に似合うようであれば何でもいいので、お任せします」

「その、なんだ、君の大切にしていたアイデンティティが」

「俺は無個性の向こう側にこそ究極の個性があると確信してやまない中二病高校生ですから」

 先輩が一生懸命俺の髪型をやり直していると、ドアの方からカランカランと来客を知らせるベルが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 と店長がバックヤードから出てきて、先輩を見る。客に向き直り、また見る。二度見だ。

 客は慣れた様子でウェイティングシートに名前を書いているようだった。

「律己、えらく時間掛かってるな」

「あ、えと」

「店長、すみません。切り終わった後でやっぱりイメチェンしたいって無理を言ってしまったので」

「ああ、そうだったのかい。そう言う事ならゆっくりやりなさい」

 すると今し方入ってきた客を皮切りに二人ほど新たに入ってきた。

 それを見ても店長は動じることなく、にこやかに客を案内していく。

「焦る事は無いからな」

「はい」

 場慣れした老兵が新米兵士を鼓舞しているようでカッコイイ。

 それから先輩は黙々と俺の髪を切って行った。

 初めて額が見える程の長さまで切られた。自分の顔に自信が持てない俺は、なるべく顔が見えないように前髪は眉毛の位置より上に来ないように切ってもらっている。だがここでもしも俺が嫌そうな顔をしようものなら、折角のリカバリーが無意味なものになってしまう。だいたい、これは俺の顔面の問題なのであって、多分イケメンがこの髪型にしたらすごくカッコイイはずだ。そう、これはカッコイイ髪型なのだ。よし、俺はカッコイイ。せめて律己先輩と別れるまでこの自信を保たねば。

「どう、かな?」

「凄く、良いと思います。素材はともかく髪型は凄くカッコイイです」

 どれだけ自分に自信を持っても、髪型のおかげで顔も格好良く見えますよねなど言ったりできる程の可能性を秘めた顔面ではない。

「自分の失敗の言い訳をするわけではないが、こういうスポーティな髪型も似合うと思う。と言うか君はいい素材だと思うから、卑下ひげしてはいけない。うん、格好いいよ」

「あ、はい」

 これでまたそんなことないですよなんて言ったら話がこじれそうなので素直に頷く事にした。

 それからシャンプー、ブローと、店長が言っていた通り、先輩は焦らず丁寧な仕事をしてくれた。

 会計の際、俺が財布からお金を取り出す時、紙にペンで何かを書いていた。お釣りと同時に紙が渡される。この店の宣伝用の名刺の裏に数字が掛かれている。

「私の番号だ。今日の事、ちゃんと謝りたいしおびもしたいから時間がある時に電話ください」

 なぜか敬語の先輩に頭を下げ、床屋を後にした。

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