Reincarnation inverted⇔転生反転
奈凪余白
第1章 誰がために鐘は鳴る
第1話 ~ epilogue ~ 子守歌
「こういう結末はやっぱり……やだよ。一緒に、仲良く、なかよく……、ずっと一緒にいたかった」
《死者の姫》は、禍々しい剣で《生者の英雄》を貫き、呟く。
《死者の姫》が手にした剣に、《生者の英雄》の血が、枝を伝う雨水のごとく這う。
ほどなくして、英雄の目から光が消えた。
ルビーを太陽に透かせたみたいに赤く透き通った瞳で、彼女は彼が死に行く様を見届ける。
生者の英雄の頬に添えていた、死者の姫の手が、微かに光る。
彼女は、彼の瞼をそっと閉ざし、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「奉魂の時、我望むるは汝のもう
死者の姫は虚空を見つめた。
その視線は徐々に上へ。
雲間から漏れる光芒に透かされた男の魂の行方が、彼女には見えていた。
転生魔法は成功した。
これで《生者の英雄》は来たるべき時、この世界に、再び新たな生を受けるだろう。
《死者の姫》は胸に抱いた《生者の英雄》を見つめ続けている。
すると、彼女の眼に留まることを止めた涙が、彼の頬へとこぼれ落ちた。
もらい泣きだと言わんばかりに、空も、雨を落し始める。
止め処なく涙を溢れさせる《死者の姫》の身体が光りに包まれ、〝元の姿〟へと戻る。その姿は、緑がかった青い目と金色の髪をした
転生魔法では、今生の記憶を来世へは持ってはいけないだろうという、やるせない確信めいたものが彼女にはあった。
でも、きっと、ううん。
絶対、巡り会える。
少女はそう信じる。
信じるに足る根拠も、あるにはある。
「だから、ね。
そこまで言って、少女は血を吐く。
少女も、生者の英雄が放った一撃で、致命傷を負っていた。
男の顔にかかった血を震える指先で拭いながら、自らの命が事切れる前に、と、言葉を紡ぐ。
「あなたと私の道が、次は違わぬよう、願いを込めて……
やることはやった。
男と身体をあわせる。
あとは、静かに、
死を待つのみだった。
〝死季物語り原典〟エピローグりより一部抜粋
~Reincarnation inverted~
この世に誕生した瞬間から自身に起こった覚えている事柄を記憶というのなら、僕には二つの記憶が存在する。
一つは、前世の記憶だ。
ひどく頼りないものだけど。
名前や、どういう人生を送ってきたのかは分らない。
覚えている、というか、染みついていたのは、複数の言語。
あとは男であったということくらいだろうか。
考え方や計算、判断力とかそういったものも、おそらく前世から引き継いでいるのだとおもう。
大袈裟に前世の記憶と言ったのだけど、この程度のものしかなかった。
何歳まで生き、どのような死に方をしたのかもわからないのだ。
そして、もう一つの記憶は、今現在のものだ。
今の記憶は、不意に始まった。
自我を得たのと同時に、思考ができた。
複数の言語を理解していた。
このことから、僕には前世があるのだと確信することができたのである。
第一の人生は死んで終えたものとし、今の僕に生まれ変わったのだと。
なぜそのような考えに至ったのかというと簡単だ。
単なる記憶喪失ならば、僕の身体はある程度の大きさがあるだろう。
少なくとも複数の言語を修めることのできる年齢であるはずなのだ。
今の僕はと言えば、実のところ目すらも見えない。
声も出せない。
というか、呼吸……、いや、酸素を身体に取り込む感覚が、知っているものではないのだ。
けれど、僕は前世の知識からこの状態の自分をなんと呼ぶのかを知っていた。いや、思い出したのだ。
だから、パニックになるようなこともなく、大人しく過ごしていられた。
さて、生を受けておそらく数ヶ月。
始まったばかりのこの人生に、最初の転換期が訪れようとしていた。
それが何かはわかっているのだけど、やはり不安だった。
ここの居心地があまりにも良いというのもある。
とくんとくんという心地の良い振動が、心の中にまで染み込むようで、すごく満たされるし、何より安心するのだ。
そう。
僕は胎児で、転換期とは出産だ。
※
安心に包まれた闇が、鈍い光りによって切り裂かれた。
同時に、予想していたけれど、ものすごい不安に駆られた。
母から生まれ落ち、繋がりを断ち切られたことが理由だった。
その断面を結われ、臍からぶらさがったわずかな重みを感じたとき、僕が個としてこの世界に降り立ったのだと実感させられた。
生後一ヵ月から三ヶ月頃まで、個人差はあれど目が見えづらいという知識を僕はやはり知っていた。
この状態でできることは限られている。
もし、初めて聞く言語ならば、それを覚えることに費やそうと、母の体内にいる頃から計画していた……のだけど。
産まれてすぐ。
自分の泣き声や周囲の騒がしさが邪魔して、言葉がよく聞き取れなかった。
母の体内から出ることで体力を使い果たしたのか、はたまた環境の変化でへとへとになったのか、僕はすぐに眠りこけてしまった。
次ぎに目が覚めたとき、優しい声音が耳を打つ。
「ノア、起きたのね」
そう言いながら優しく頭を撫でられた。
おそらく母なのだろう。
そして、母の話す内容が理解出来た。
知っている言語だったのだ。
ちなみに、僕が思考する際に用いる言語は、記憶にある言葉の中で一番難易度の高いものだ。
確か、その言語の文字だけでも他の言語と比べ複雑で種類もあり、言葉の言い回し一つとっても難解極まりない。
けれど、その言語が一番馴染んでた。
だから僕はこう結論づけた。
前世の母国語なのだ、と。
そして、今世の言語は母国語ではないけど、知っていた。
と言うことは。
この世界のどこかに前世の僕の母国がある、ということになるのだと考えた。
※
窓辺に置かれた花瓶には、同じ種類の黄色い花が沢山生けられていた。
母が好きだと言っていたその花は、前世でも見たことがある気がする。とはいえ、花の名なんて覚えていないし、きっと前世の僕も興味がなかったのだろう。
そんなこんなで、僕の目はようやく世界の輪郭をとらえることができてきた。
その時点で僕は、この世界について疑問を抱いていた。
僕の前世の母国があった世界と、この世界は果たして同じなのか? ということだ。
母や使用人達の服装に違和感があるのだ。
前世の記憶が影響しているのだろうけど、僕は直感的に彼女達の服装を〝前時代的〟だと感じた。
それも母国のものというよりも、そう、ファンタジーだ。
中世の外国の服装のようなものが一番イメージに近く、そこにこの世界特有のデザインを加えたみたいな。
母は作りの良さそうなドレスや、ワンピースを好んで着ており、それらも毎日違っていた。
使用人の女性達は、エプロンドレス。俗にいうメイド服だった。
メイド服はさて置き、母の服装や、これまでの周囲の言動から察するに、もしかしてこの世界は前世とは別の世界かもしれないという可能性を感じはじめたのである。
もしくは、古めかしいファッションが流行しているのかもしれないけども。
ちなみに、過去へタイムスリップしたのかもという発想もしたものの、すぐに無いなと断じた。
そんなことを考えていると、二回ノックの音がした。
「ノア、入りますよ」
我が子の部屋にもきちんとノックをする母というのは、決して珍しいものではないのかもしれないけど、それでも子供が赤子となれば、世間ではどうなのだろう。
何にせよ、丁寧だなという感想と、母の育ちの良さを感じ……ん?
「いないいない……」
と籠もった声で母が言いながら扉の隙間から身体を滑り込ませてきた。
ばあっ、と言うのと同時に、奇っ怪な顔がデザインされた鉄兜のようなものをすぽっと脱いだのだ。
「ぶふうっ」
僕は吹きだしてしまった。
これは赤子の反応ではないのだろうけど、仕方がないんだ。
だって、母の顔といったら、形容しがたいほど笑えてしまう所謂〝変顔〟だったのだから。
加えて鉄兜の気持ちの悪い顔がまた笑えた。
「うふふ、喜んで貰えた……のかしら? ま、ノアが吹きだしたのだからよしとしましょう」
目が見えるようになったことが周知されると、母や使用人達が僕のラブリーな反応を見たいがために、このように構い方が凝ってきたのだ。
「いないいないばあ」や「変顔」など、国が違っても、どこの親もすることは同じなのだなと思えたのと同時に、前世の僕が「いないいないばあ」や「変顔」を知っていたことも思いだしたとでもいおうか、自分の中でもややこしいのだけど、この世界での知識が増えるにつれ、前世でのことも知ることができていったことに、妙な気分がした。
このことは、ドレスやメイド服などの服装のことを知っていた(思い出した)ことも同様だ。
それはさて置き、僕の精神年齢はゼロ歳児などではなく、もっと上だと思う。
精神年齢というか、有り体に言えば前世で死んだ時の年齢だが、さすがにいないいないばあや顔芸でキャッキャするほど幼くないはずだ。
いや、マジで吹きだしてしまう変顔もあるのだけど。
先ほどの通り、育ちの良さそうな母親ばかり。
さて、何語なのかは知らないけど、言葉の知識は既に持っていた。
ならば次は文字だ。
もちろん文字も知っている可能性は十分にあるとおもう。
どの国も言葉と文字は密接な関係があるのだから当然だろうと予想した。
ということで、この国の文字を見たい僕は、幼稚なあやされ方を拒否する。
鳩の首のようにしか動かない腕を必死に振り、本棚にある本を読んでもらえるよう催促した。
「ノア、絵本がいいの? まだ早いのではないかしら」
少し驚いたように、母親が本棚を見るが、胸元に垂れた長く薄茶色の髪の毛を肩へまわすだけで、僕のそばに張り付いて、本棚へ行こうとしてくれない。
自分で取りに行きたくても、まだ寝返りくらいしかできないのがもどかしい。
お願い、本取ってください!
深い赤色の背表紙を睨みながら、もどかしい気持ちから歯がみした。
歯、生えてないけども。
背表紙にタイトルでもあれば文字の判別ができたのだけど、生憎、数冊しかない本はどれにも背表紙に文字はなかったのだ。
「ではノア。そろそろ寝ましょうか」
無慈悲だ。
というか、日没からまだそれほど時間は経っていない。
いくら何でも早すぎると訴えたいのに、まだ喋ることができない。
ここでも歯痒さを感じていると、母は無情にもサイドチェストに置いてあった蝋燭の火を、鋏のような道具で抓んで消してしまったのだ。
僕はたまらず喚いた。
というか、泣いた。
こうするしか意思を伝える手段がないのだから仕方がない。
「それほど絵本を見たいの?」
けろりと泣き止んだ僕はぎこちない動きで首肯する。
「わかりました。なにより、この月齢で私の言葉を理解していることを考えると、絵本の内容も理解できるかもしれませんね」
よっしゃー、とガッツポーズ。は、無理だったけど、握った小さな拳を不器用に振り回し、「きゃっきゃ」と喜びの声をあげておく。
「でも、火をけしてしまいましたし……。仕方がありませんね、久しぶりですが自分で点けましょう」
うん? 自分で火を点けなくても誰かが点けてくれるくらいの家柄ということなのだろうか。って、そりゃそうか。使用人とかいるんだった。
この思考からして、前世の記憶と齟齬があることから、僕は平凡な家庭で育ったのだろう。
とか考えていたら、
母が、なにやら呟く。
ただそれだけで、蝋燭に灯が灯ったのだ。
「ほぎゃぇ!?」
その文言を、別の思考をしていて聞き逃してしまったのが痛い。
「驚いたの? ふふ、これはね、魔法って言うのよ。炎の精霊魔法、世間では火魔法と言うの」
母はくすっと小さく笑うと、
「たまには今のような、赤ん坊らしくてかわい顔を見せてほしいわ」
と言った。
僕、普段からどんな顔をしていたのだろうか。
中身の年齢はもっと上なのだから、赤ん坊のような無邪気な表情ではなかったのだろう。
「実はね、お母様は火魔法が得意なの」
すごいでしょう? と控えめながら得意げな顔で。
そんな母を見て僕は、素直にこの母のことが好きだなと思った。
「お母様のお兄様、ネルザールはもっと凄いのよ。剣の腕も魔法の腕もね。
さらに、あなたのお父様だってそうなのよ。何せ、大魔術師なのですから」
父親か。
目が見えなかった頃に何度か男性の声は聞いた。
おそらく彼が僕の父なのだろうけど、視覚を得てからはまだ会ったことはない。
「だからきっとノア、あなたにも素晴らしい魔法や魔術の才能があると思うわ」
という母の言葉に、僕は父のことなどすっかり忘れてしまう。
そりゃそうだろう。僕にも魔法が使える可能性があるらしいのだから。
と、そこで僕は重大な事に気が付く。
魔法。
そう、魔法である。
母国のある世界には、存在しなかったものだ。
少なくとも僕の頼りない記憶から知る限りでは、だが。
それこそ、お伽噺や、なんだったか、そう、ゲームや漫画、ファンタジー世界の住人が扱う科学とは反対みたいな概念の便利ツール。
魔法、か。
今し方思考した〝便利ツール〟というワードに触発され、少し好奇心が湧いた。
本を棚から引き抜いてみよう。魔法で。
寝ながらものを取り寄せる。
便利ツール以外の何物でもない用途を僕は思いついたのである。
ベッドのそばに座る母の奥に、立派な本棚がある。
そこに収まった赤い背表紙の本をを見つめる。
本がカタッと音を立て震えた……気がした。
「なに? 何の音?」
母が背後を振り返る。
母の反応から気のせいでは無いし、それに、もう一つ、確信するに足ることがあった。
背表紙のわずかな出っ張りに指先がかかったような感触があったのだ。
といっても、本当に指に何かを感じたわけではない。
なんというか、触覚ではなく、僕の脳に直接その感覚が伝わったとでもいおうか。
前世から含めて、生涯で初めての感覚だということだけは確実に理解できた。
もう一度試みる。
すると、棚からするりと本が抜け落ちた。
落としてたまるか。
具体的に本がどのようにして僕の元へ来るのかを想像しながら本を睨め付ける。
母の耳元を掠めた本が、自分の胸の上へぱさりと、静かに着地するイメージをしたところ、その通りとなったのだ。
「きゃっきゃ(まじ!? ええええ、すごいなこれ!)」
「の、ノア……魔法なの? 本を飛ばせた……、風魔法、かしら。というか……詠唱は……うそ、でしょう」
母親の言葉に僕は、眼をしばたかせたり、ぶきっちょな首肯をしてみたりして、なんとか肯定の意思を伝えようと試みた。
「生後わずかな赤ん坊が言語を理解するだけに留まらず、魔法を使うなんて……しかも無詠唱……」
なにやらぶつぶつと呟いていた母親が急に扉の方を振り返る。
「誰か! すぐに主人を呼んでちょうだい!」
何だか大事になってしまった。
使用人を引き連れ駆けつけた父親に、母親がまくしたてるように事情を説明すると、場の空気が一変した。
驚愕と歓声が部屋に満ちる。
この件以降、僕への対応は、僕の望むものへとがらりと変わった。
魔法や国の歴史、世界史など、四肢が自由に動かせない僕に語って聞かせることのできる様々な知識を、母が教えてくれることになったのである。
ついでに。
母国の文字ではなかったものの、この国の文字も予想通り知っているものだったので、語学の学習については見送る形となった。
※
ある日の昼下がり。
この日は母が僕に、とある物語を読み聞かせてくれる約束をしていた。
世界中で、知らない者はいないのではないかしらと母が言うその物語りは〝死季物語り〟という。
⇔
昼に見上げれば太陽が、
夜に見上げれば星々や二つ月が見えるでしょう。
辺りを見回せば、広大な台地が見えるでしょう。
私たちの住むこの世界は、二匹の竜の衝突により産まれました。
太陽に星や月、この台地、あなたの目に映る全てが産まれたのです。
二匹の竜とは、聖竜と死竜です。
世界がまだ何も無い頃から、二匹の竜は戦っていました。
世界が生まれてからも、二匹の竜はこの世界で戦い続けていたのです。
二匹の力は常に互角でした。
均衡を破ろうと、最初に動いたのは、死竜でした。
死竜は、忠実な部下を創り出します。
名を《死者の王》。
怖気のするくらい透き通った、美しくも怪しく輝く、赤い眼を持った人型の異形です。
死者の王は、聖竜の相手をしている死竜に替わり、生ある人々を襲います。
さらに、死竜が忽然と姿を消したのです。
聖竜は慌てました。
死竜を追えば死者の王は野放しです。
死者の王と戦えば、死竜の後を追うことが難しくなり、見失ってしまうかもしれません。
聖竜は決断します。
聖竜は、自らの身体を別けることにしたのです。
より力のある本体を死竜の追撃に。
分体をこの地に留まらせることにします。
これを好機とした死者の王は、《死者の軍団》を作ろうと考えます。
同じ目の色をした仲間を作り続け、弱くなった聖竜にぶつけようとしたのです。
ですが、聖竜はこうなることを見越し、手を打っていました。
強い魂を持った人々に能力を与えたのです。
《竜の子》の誕生です。
聖竜は竜の子に、様々な人種を束ねる英雄として、死者の軍団と戦うように言いました。
竜の子にして英雄の誕生です。
黒い髪と眼を持つ青年、ノアール・ロードナイト。
金の髪に青い眼の少女、ルノルーシュ・エリュシオン。
灰の髪と銀の眼の青年、アーシュレイン・ハウリング。
ですが、志中半で死んでしまいました。
ルノルーシュは、
ですが、その直後、リリノーアも殺されてしまいす。
大勢の仲間や
英雄ノアールは死者の王を滅ぼし、死者の王の腹心である《死者の姫》と最後の闘いを繰り広げます。
その闘いは凄まじく、辺りの景色は破壊し尽くされ見る影も無いほど変わり果ててしまいます。
そして、ノアールは死者の姫をも滅ぼしますが、自分も死んでします。
強い部下を失った死竜は、さらに逃げようとします。
聖竜は分体と離れたまま、死竜を追いかけました。
その結末は誰にもわかりません。
けれども、結果は皆に伝わりました。
そうです。
死竜の配下である死者の軍団がいなくなったのです。
生ある人々の象徴である聖竜は役割を終え、その分体は《六花》の山深くで眠りにつきます。
この世界を見守るかのように。
世界に平穏が訪れ、皆が幸せに暮らせるようになりました。
⇔
「おしまい、おしまい」
母が読み聞かせてくれた絵本は、とても興味深かい内容だった。
なぜなら、自分の名前が英雄と一緒だったのだから。
僕は、淡い色彩で描かれたノアールを指差しながらきゃっきゃと声をあげる。
「そうなの。あなたの名前は英雄ノアールから貰ったのよ。
魔術にしか興味の無さそうなお父様が、珍しく「産まれた子にはノアールと名付ける」ときかなかったの」
うふふ、とその時の父親を思い出したのか、微笑ましさを湛えた顔で、嬉しそうに母は言う。
ノアールだからノア。
うん、自分でもこの名前は気に入っている。
というよりも、妙にしっくりくるというか。
この名前しか僕にはないのだ、と、自分で思えてしまうくらいだ。
それはそうとして。
死季物語りとやらの内容はさすがに〝お噺〟なのだろうけど、登場人物についてはどうなのだろう。
実在した人物や出来事なんかを、フィクションと織り交ぜて物語りとして完成させたのだろうと僕は考えたのだけど、そのことを母に聞いてみたい。
うーん、どうやって聞こうか。
ペンでもあれば、魔法で操って文字くらい書けそうだけど、無いし。
そうだ。
蝋燭をペンに見立てて、空中で文字を書くように操れば察してくれないかな。
我ながら名案である。
早速、蝋燭の炎を持ち上げようと、注視したそのとき、ノックが聞こえた。
「何ですか?」
母が応答すると、
「王都よりオムバス大臣の使者がおいでになられました」
扉越し、いつもより少し早口で家令が言う。
母を見ると、顔色が少し悪いような。
何より、その表情に陰りが見えた。
「わかりました。しばらくお待ち頂いて。ノアにお乳をあげてから参ります」
母が言うと、家令も返事を返し去って行ったのだろう。
母は、暫くの間じっと扉を見つめていた。
なんとなく重苦しい空気に僕は戸惑った。
「まさかとは思うけれども、もし、使者の用件がわたくしの想像通りなら……」
そこで言葉を濁すと、母は僕を見つめた。
優しく前髪を梳いてくれる指が、少し震えていた。
「きっと、ノア、あなたのことを調べにきたのだと思います……。
あのとき、うかつにあなたの能力のことで皆を呼ばなければよかった……。ああ、本当に馬鹿なことを……」
うん?
あのときのおかげで、僕は色々なことを母が教えてくれるようになったのだから、感謝しているのだけど。
「万が一にでもノアの能力が認められ王都に連れて行かれたらと考えたら……」
ちょっと待って、なにその未来予想図は!?
特殊な能力があるというだけで、産まれて間もない赤子を親元から引き離す?
ありえない。
いや、ありえなくはないのかもしれないけど、僕は嫌だ。
まだ数ヶ月とはいえ、僕は今の生活を、というよりも、母のことを気に入っている。
僕には胎児の頃から自我があった。
だから、物心ついてから一緒に過ごし、絆を深めていく家族とは違うと思うけど、だからといって、母の事を母と思えないかと問われれば、否だ。
すんなりとそう思えたのは、前世の記憶に、そういった人間関係のようなものが何一つ残っていないから、かもしれないけども。
母は僕にとって本当の母であり、とても大切で、大好きな母なのだ。
そんな母と引き離される可能性をちらつかされては、内心穏やかではない。
まぁ、使者とやらの用件を聞いていないのだから、母の早とちりという可能性だってある。
うん、まだわかっていないのだから、今取り乱しても仕方がない。
「わたくしの兄は、自分の娘のことは隠し通したと言っていたのを聞いて……、後悔しかありませんでした……」
母が小声で囁くように言う。
母の兄、僕の伯父で、名前はたしかネルザール・カーライル。
一度だけ会ったこともある。
彼の娘ということは、僕の従姉妹になるのか。
その従姉妹のことを、伯父は隠したのだと母は言う。
隠した方が良いと判断したのだろう。
そして母も、そうしたほうがよかったのだと後悔しているのだ。
ああもう、嫌な予感しかしなくなってきた。
そして、どれだけ不安に思っても否応なしに訪れる眠気に、赤子の身体は抗えないようで、大きな欠伸がでてしまう。
きゅるる。
さらに場の空気を読まず、僕のお腹が鳴った。
「お休み前に、お乳飲みましょうね。使者殿の用件も、ノア絡みのものではないと信じましょう」
出された乳首に僕は吸い付く。
これだけ自我がはっきりとしていても、こういった行為に気恥ずかしさとかは無い。
口の中いっぱいに甘さと良い香りが広がり、胃の中から母に暖められているみたいだ。
さっきまでの不穏な考えはもう消えていた。
母は僕に乳をやりながら、いつもの歌を口ずさむ。
歌詞には何度も『ノアール』という僕の名前が出て来て、最後はこう締めくくられる。
「一緒に、歩こう。巣立つまで」
瞼が重くなり、眠気に支配されていく。
母が優しい手付きで、僕をそっとベッドへ降ろしてくれる。
「こんなに色々と凄い子なのに、まだ喋ることができないことが不思議だわ」
そんなことを言われてもなぁ。
身体の発育はいたって普通なのだから仕方がない。
もしかしたら、母は、不安を和らげるためにそんなことを言ったのかもしれないけど。
喋ることすらできない子供じみた子供を、大の大人が、それも国の重鎮が興味を持つわけが無いと。
かろうじて瞼を持ち上げている僕を見つめながら、母がくすりと笑う。
「おやすみなさい、ノア。いつかノアも、おやすみなさいお母様って返してね。約束よ」
「おああ……、おあ」
「ふふ、難しいわよね。あ、そうだわ。〝ママ〟なら簡単だから、まずはそれから練習しましょう」
良い事を閃いた、という感じの明るい表情で母が言うと、僕の額にキスをした。
さっきまで感じていた不安は、腹が満たされ、未来の手近な目標が出来たことでさっぱり消え去っていた。
僕は嬉しくなって、眠気に抗いながら口と舌を動かしてみる。
ママと、言ってみるのだ。
「あ、あ。まあ」
おしかった。
破顔した母が僕を抱きすくめ、もう一度、次は頬にキスし、
「おやすみなさい、愛しい私のノア」
と告げ、部屋を去った。
僕の第二の人生は、このようにして、順風満々なチートスタートになるのだろうと思っていた矢先、少しばかり不安要素が付け足された。
だが、ただそれだけの事だ。
きっと、何事も無かったかのように平穏な暮らしを送れるのだろうと、呑気に考えていた。
けれど、その不穏が別の形となって現れた。
王都から使者がやってきた夜。
連れて行かれるのは、僕ではなかった。
母が、急死した。
訃報を届けに駆けつけてきたメイドも、僕の目の前で血を吐いて倒れた。
その直後から、次に目が覚めるまでの記憶が僕にはない。
きっと夢の中で母に甘えていたのだろう。
一緒に歩こう、巣立つまで――。
作詞作曲は私なのよ。
得意げな顔をした母の笑みは、僕に温もりを教えてくれた。
~to be continued~
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