あなたの横顔
紺色の制服を着た彼女は、手に脱いだローファーを持ちながら、押し寄せる波を蹴りあげていた。紺色の靴下がローファーの中に丸まっていて、それが落ちないか見ていてひやりとする。
水しぶきが太陽に反射してきらりと光った。同時に、膝から少し短いスカートから伸びる白い足が眩しく、思わず目を細めた。彼女はそんなことを、少しも気にしないように波と戯れていた。
***
思わずこぼれた気の抜けた欠伸が教室の中に響く。教室の入り口脇に置かれた机の前に座って、大きく伸びをした。
「暇だなあ」
目の前の机に頬杖を付きながら呟く。誰も居ない教室と静かな廊下。文化祭の喧騒も、特別教室棟までは届かない。教室に展示された写真だけが、賑やかだった。
「なんで誰も来ない部作品展示に受付が必要なんだろ」
しかも暑いし、と小さく付け加え、セーラー服の中に空気を送り込むように扇いだ。開け放した窓から風が入って来る様子は無く、隣で動いている扇風機は教室の中の生温い空気を引っ掻き回すだけ。普通教室棟ならば、クーラーが入っている温度だろう。特別教室棟にはクーラーが入らない仕様になっていた。
飾り付けられている教室の入口に視線を向けると、廊下の窓越しに普通教室棟が見える。窓越しにカラフルな色が動いていた。さっきまで、わたしもクラスの出店の準備で忙しく動き回っていたのに、写真部の展示の受付の仕事のために、誰も来ない教室に一人でいることになってしまった。
「よいしょ」
わたしは大きな声を出した。そして、椅子から立ち上がる。文化祭前は準備に忙しくて、部員の作品をゆっくり見ることはできない。受付をされるのは自分の方だと気が付いて、苦笑いを浮かべた。
白いパネルで作った壁に、白や黒の台紙に貼られて展示される写真。テーマもサイズも、カメラも何もかもが自由。そのため、去年も今年も、個性的な写真が並ぶ。その中の一枚に一人の少女の笑顔のアップの写真があった。それだけなのに、わたしはその笑顔を見つめたまま動けなかった。それだけの力がその写真にはあった。
「わたしも入っていい?」
声に驚いて振り返ると、入口のところに同級生が立っていた。親しいわけではなく、試験の成績上位者が貼り出される中で名前を見るから知っているだけの同級生。猪貝柚は、染めたような飴色の髪を右側に流すように下ろし、こちらの様子を伺うように立っている。
「ごめんなさい、どうぞ。こちらに名前を書いていただけますか」
差し出したノートに書かれた文字は几帳面にそろっていて、性格が現れているようだった。名前を書いてもらい、受付に戻ろうとすると、猪貝さんが声をかけた。
「続き、見てていいのに」
驚いて彼女を見ると、微笑んで繰り返す。
「こっちの方は人が来ないから、忙しくないでしょう。わたしのことは気にしなくていいから」
ね、と告げる猪貝さんにつられるように微笑み返す。話したことのなかったわたしにはもっと固い人かと思っていた。
「どうして、ここに?」
今の時間なら、普通教室棟のイベントが目白押しで特別教室棟に来る生徒なんていない。わたしの問いに、猪貝さんは一枚の写真を指さした。その先を辿ると、わたしも気になっていた一枚の写真。写真の下の名札には”高瀬晶”と書かれている。
「友人なんだ。見てみたいなと思って」
部員の中でも、目立たない同級生。話した記憶も殆ど無かった。高瀬晶が撮る写真は、どちらかと言うとポストカードになりそうな風景写真が多かった。もう少し壊してみろ、と顧問に言われて、困ったように眉尻を下げていたのをとても良く覚えている。
「すごく良い目をしている」
そう呟いた言葉が、写真の中の少女のことなのか、高瀬晶本人のことなのかわたしには分からなかった。ただ、わたしは彼女の言葉に深く頷き、そしてその写真を黙って見つめていた。
***
猪貝柚と、わたしの交流は少しずつ始まった。一人で写真を撮るのが好きなわたしはカメラを持って、よく校内を歩き回っていた。海や空、山の写真を見るのは好きでも、わたしには大きすぎる被写体のような気がしていて、それよりも日常の一部を切り取ったような写真が撮りたかった。今しかないこの時間。
特別教室棟と普通教室棟に挟まれるようにできた中庭の隅でしゃがみこんで、蟻と花の写真を撮っていたわたしに、後ろから声がかかる。
「スカート、汚れるよ」
地面にスカートの裾がくっついていた。わたしは立ち上がると、スカートを持ち上げ、裾を軽く叩いて砂を払う。
「いつものことなんだ、でもありがとう」
声をかけてきたのが、猪貝さんだと分かっていた。彼女はよく、自習室や図書室で勉強をしていて、その移動中にわたしに声をかける。そのまま、一緒に写真を撮りに行くこともあったし、そこで別れることもあった。彼女は海を見るのが好きで、よく海に行きたがった。猪貝さんは何でも楽しめる人で、わたしに新しい発見をくれる。わたしはそうして過ごす時間を好ましく思っていた。
猪貝さんはわたしの足元をじっと見つめていた。不思議に思って、視線を下す。花びらの上にいた蟻が居なくなっていた。
「なにを撮っているのかと思って」
「蟻と、花びら。コンテストに出そうかなあと思ってて。でも考えすぎちゃうみたいで難しい」
写真部として以外に、わたしは公募のコンテストにも作品を応募していた。テーマが決められている中で作品を作るのも楽しかったし、ただ撮りたいように撮るのも好きだった。
「ね、海に行こう」
息抜きがてら、と彼女は笑った。学校の近くにある海は、歩いて15分もかからない。夏の終わりかけのこの時期は、まだ暑さの残る涼しさ。浜辺の砂が、まだ温かさを保っていた。砂が入り込むのが嫌で、ローファーと靴下を脱ぐ。前かがみになった猪貝さんの白いタイが揺れる。
片手で靴を持つと、二人で砂浜を歩き出す。砂を踏む感触が足裏に心地よかった。
「ねえ」
後ろを歩いていた猪貝さんがわたしの手を取った。猪貝さんの手はひやりと冷たい。
「わたしの、写真を撮って」
楽しくてしかたないように笑う彼女の笑顔が眩しい。写真を撮ってとお願いされたのは初めてだった。彼女は写真を撮られたくないのだとずっと思っていた。わたしは彼女の横顔が好きで、近くで猪貝さんを見るたびに、被写体にしたいと何度申し出ようと思ったか分からない。その度に、その願いを呑み込んできた。
驚いたような表情を浮かべたせいか、言い訳をするように彼女は言った。
「今を残しておきたいって、言っていたから。わたしの今も残してほしいなって思って、それで」
「ぜひ、お願いします」
わたしはまっすぐに見つめる。彼女を被写体にするなら、わたしも撮りたい写真がある。海の中で遊ぶ彼女は、学校に居るときよりも生き生きして見えて、わたしは好きだった。制服のスカートを翻し、波と戯れる。すらりと伸びた白い足と、セーラー服。好きにしてていいよと告げると彼女はいつものように、海で遊ぶ。高い笑い声が小さく零れる。わたしはその様子を見つめて、ひたすらシャッターを切った。この瞬間が、今が、二度と来ないことをわたしは分かっていた。
息を切らして近づいてきた猪貝さんにカメラを向ける。レンズいっぱいの彼女の笑顔。高瀬くんの写真をふと、思い出した。あの笑顔はきっと、彼にとって大切なもののような気がする。
隣に腰を下ろした猪貝さんが静かに海を見つめた。その横顔を、目に焼き付ける。そして、たった一度だけシャッターを切った。それで十分だった。
「文化祭の時の写真、覚えてる?」
「高瀬くんの写真、でしょう」
先ほど思い出したあの写真を、猪貝さんも思い出していたことが嬉しかった。しかし、高瀬くんと名前を出すと、目の前の彼女は少し困ったような表情を浮かべる。
「高瀬くん、だったっけ?」
「友達って言ってなかった?」
次に困惑したのは私のほうだった。友人だと、あの写真を指さして彼女は言っていた。
「ああ、友達は被写体の方」
なるほど、とわたしは思った。納得したように頷く。確かに、友達と言うのが高瀬くんとは言っていなかった。わたしが勘違いをしていただけ。
「あの写真を見て、わたしも写真を撮ってほしいなって思ったの」
視線を海の方へ向けたまま、彼女は甘えるようにわたしの肩にもたれかかる。
「ね、もう一つお願いがあるの」
彼女の飴色の髪から、水の香りが漂う。わたしはその匂いに絡め取られてしまったみたいだとぼんやり思った。
「お願い?」
「そう、日曜日が誕生日なんだけど、その時に一緒にまた海に来てくれる? できたら、今度は朝が良い。日の出が見たいな」
それくらいのことなら、わたしは何度もしてきた。朝日の写真を撮るためには、早起きは欠かせない。
「猪貝さんのお誕生日、お祝いしなくちゃね」
彼女の表情は髪に隠れて伺うことはできないが、小さく首を横に振る。
「知ってた? この学校には18歳の誕生日を迎えると、居なくなる生徒が何人か居るって」
誕生日を迎えると、なのかは知らなかったが、確かに三年生の転校が多いとは聞いていた。
「彼女たちはわたしと同じ、人魚。陸に上がった人魚は、18歳の誕生日に海へと帰る」
「にんぎょ?」
聞き間違えたのかと聞きなおしても、彼女はそうだと頷く。わたしの近くに潜んでいた日常と少しの物語。わたしは気が付かないうちにカメラを握りなおしていた。
「海によく来ていたのは帰りたかったから?」
それは違う、と彼女は小さく笑ったような声を出した。海風がわたしたちを包んでいく。
「帰りたいと思ったことはないよ。今も海に戻るのが不思議なくらい。わたし、楽しかったよ」
南森の生徒で良かった、と彼女は小さく呟く。明依子に会えてよかった、と。
***
約束の日、わたしたちは日のまだ登らない早朝に家を抜け出した。
浜辺に体育座りをして二人で並ぶ。静かに波の音に耳を澄ませていた。いつもと変わらないセーラー服姿の猪貝さんの姿は薄暗い夜と朝の間の闇にも溶け込もうとしない。わたしが紺色のワンピースを着ているのと対照的だった。
少し肌寒い海風を巻き込むように、少しずつ空が明るくなり始める。
「お誕生日、おめでとう」
忘れないうちに伝えておくね、とわたしは彼女にそっと写真を渡す。猪貝さんの写真は事前に渡していたけれど、二人で撮ったものは彼女に持っていてほしかった。わたしから、彼女への最後の贈り物。もう二度と会えなくても、わたしは彼女を忘れないし、彼女にもわたしを覚えていてほしかった。
「ありがとう」
彼女はその写真を見つめ、胸へとかき抱く。目が赤くなった猪貝さんとわたしが笑顔で並ぶ写真。たった二枚しかないもの。わたしはそれを、彼女の笑顔と横顔の写真と一緒に大切にしまっておいた。
朝日が海から顔を出す。空が夕日とは異なる明るい桃色に染まる。わたしたちは浜辺に照らされる。自然とお互いの手を握っていたわたしたちは、泣きださないように微笑みあった。
「少しの間だけだったけど、一緒に居てくれてありがとう」
「わたし、楽しかった。猪貝さんと一緒に居られて」
そっと手が離れる。隣に座っていた彼女が立ち上がった。セーラー服、飴色の髪、白い肌。
「ゆず」
思わず、言葉が零れた。驚いた表情でわたしを見下ろした彼女は、笑顔でなあにと応える。
「どうしたの、明依子」
「いってらっしゃい」
その言葉にはっとしたような表情をした彼女は、何かを振り切るように目を閉じた。そして、息をのむと、堪えるように笑顔になる。
「いってきます」
わたしの差し出した手を柚が取り、引っ張りあげられる。その勢いのまま、彼女に抱き着いた。水の底の香りが鼻孔を擽り、心地良かった。
「また明日ね」
耳元でささやくと、身体を離す。そして、彼女の背中を海の方へそっと押した。柚は何も言わず、海の中へと入る。波が彼女の足元を押し寄せては引いていく。朝日の中に溶けてしまうように、彼女は海の中で輝くように立っていた。飴色の髪が光を透かしている。溶けていく。柚は膝ほどの深さまで進むと、振り向いた。
「また、明日ね」
逆光になって顔は良く見えない。けれど、彼女が笑っていることは分かっていた。突然の吹き抜けた風にわたしは思わず目を閉じる。目を開けた時にはもう、柚の姿はどこにもなかった。ただ、朝日がわたしだけを照らしていた。
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