八話    祈之十三歳、そして十四歳の頃 Ⅰ

  1

 正夫は中学を卒業すると寝食共にした祈之の部屋を出て庭のプレハブ小屋に移った。祈之の子守係を返上して雑務係として雇われ給料も出るようになった。諸経費を引かれて数万円の事だったが、母にやっと仕送れると正夫の喜びもつかの間、命の火だった母は正夫が中学を卒業するのを見届けたようにこの世を去った。正夫は泣く事は無かった、返って無感情なほど淡々と事を終えた――。

「息子孝行で死んだのよ、長かったもの、正夫もほっとしているわよ」

 と、亜子に語らせるほど何も無かった様に日々は過ぎていった。正夫は人と殆ど語ることが無いほど無口であったが、祈之への優しさは変わる事無くより深みを増しているように思えた。

 家の周りをめぐるモルタルの塀を水飛沫を浴びて正夫は洗っていた。その焼け付くような陽射しの中、Tシャツは汗と水飛沫に濡れそぼり力仕事で培われたその逞しい身体に張り付いていた。

 中学生になったばかりの祈之は玄関先に学校の道具を投げ出すと、その足で正夫の所にやって来た。その分厚い胸に張り付いたTシャツを眩しげに見つめ「まーちゃん」と声をかけた。正夫は振り向くと、

「お帰りなさい」真っ黒に日焼けた顔に真っ白な歯を覗かせて笑った。

「最近忙しそうだね……前はいつもいつも一緒だったのに……」

「学生の時みたいな訳にはいかないよ、祈も中学生なんだから遊んで何かいられないだろ?勉強しなくちゃ……」

 祈之は無視する様に

「僕も手伝うよ」

 ブラシの付いたホースを手に取り燥ぐ様に壁を洗い始めた。

「駄目だよ、制服!制服!洋服が汚れるよ。もういいよ!手伝わなくて」

 正夫は祈之の後ろから羽交い絞めにしてホースを取り上げようとした。

 繊細で華奢な祈之を、最近とみに逞しさを増した正夫が有無を言わせずにホースを取り上げようとすると、すばしっこく祈之はホースを正夫に向けようとして自分も正夫もびしょびしょに濡れ、攻め立てるように正夫に水を浴びせ掛けた。


 突然亜子から言い渡され、祈之の部屋からプレハブ小屋に引っ越したのは祈之が学校に行っている時だった。

 今まで子守りという曖昧な存在で同居していた正夫も中学を卒業する事で亜子の家に就職をする形を取り、無給から有給の使用人になった。

「主人の息子の部屋に寝泊りしていては可笑しいでしょ?仲が良いのは良いけれど、彼は主人で貴方は使用人なのだから、その辺はっきりしていたほうが貴方もこれから過しやすいんじゃないかしら」

 亜子は一線引く様にはっきりと正夫に伝えた。正夫は無言で頷くと、僅かな荷物を持って引越しをした。引っ越し先は出入りの定期的に入る庭師、あるいは家の修理の職人等の着替えたり、お茶を飲んだりする休憩場所に使われているプレハブ小屋で、八畳程の板張りの部屋に流しとトイレが付き、奥にアコ―ディオンカーテンで仕切られた四畳半程の小部屋の付いたプレハブ小屋で、家族や使用人が使っている裏玄関近くの木立の中にあり、板張りの部屋には、庭師の置いて行った色の抜けた藍染半纏が掛かっており、窓際には職人たちが置いて行った工具類等が並んで置いてあった。正夫の過せる場所は奥のアコーディオンカーテンで仕切られた小部屋であったが、職人たちは修理や管理に定期的に入るだけだし、婆やの掃除が行き届いて小屋も小奇麗に片付いていた。

 木々に囲まれ、風がいきわたり夏も涼しく、部屋に折畳みの簡易ベットを置くと結構快適に過ごせそうではあった。

 その日、帰ってきてからの祈之の騒動は大変なもので声を嗄らすほど泣きじゃくり、小屋から正夫の運んできた段ボール箱を引き摺って戻そうとし顔を真っ赤にして段ボール箱にしがみ付いた

「中学生にもなって一人で寝れないなんて馬鹿な話がありますか!お友達にでも誰にでも聞いてみなさい。ママが言ってる事が可笑しいかどうか」と母に一喝された。

 正夫に押さえつけられ「祈、止めろ」と、耳元で囁かれると堪えるしかなく、泣く泣く従った。正夫とて祈之と離れての初めての夜は、祈之がどうしているかそれだけが案じられた。

 翌朝、幾筋もの光線を伴って太陽が昇り始める頃正夫は、もう裏山に立ち黙々と仕事を始めていた。まもなくやってくる梅雨の為排水溝に詰まった枯れ草を取り除いていた。掃除の手を止め下方を眺め下ろした。そろそろ祈之が学校に出かけていく時間であった。その場所は丁度門から下りる坂が良く見渡せ、野生の紫陽花がその若い固そうな花びらを朝日に晒して輝いているのが見えた。

「まーちゃん!…学校に行くよ」

 捜し回ったらしく、息を切らして祈之が裏山にやって来て、正夫の顔を見ると飛びついてきた。

 顔が泣きはらして浮腫んでいるように見えた。正夫はその顔を優しく両手の中に抱きしめた。

「何でそんなに大袈裟に考えるの、会えない訳じゃないんだから、 僕はいつも祈の側にいるよ……何も変わらないよ……」

 祈之は正夫を見つめていたが、すっと視線をそらすと正夫のはずした軍手を手に取ると手を入れた

「汚いよ、やめなさいよ」

 正夫はそれを取り上げると、促すように少し一緒に山を下り

「気を付けてね、いってらっしゃい」と笑い掛けた。

 正夫は坂の見える場所まで戻り、その華奢な体がつんのめるように坂を下りていくのを見つめていた。やがて右へと道がカーブするところに来ると、祈之は後ろを振り向いて立ち止まり、小高くなった樹木の間に正夫の姿を見つけ、哀しみと反発の狼煙のように、いつもより大袈裟に大きく手を振った。手を大きく振って答えながら正夫はその頼り無い弱々しさに祈之の行き所の無い淋しさを思った。


 梅雨も半ばに入り霧雨のように切りの無い湿った天気が続いていた。

 表玄関の飛び石を歩きづらいからと職人を煽って石畳に変えさせている最中で、梅雨がその工事を長引かせていた。積み上げられた資材の横に置かれた工具類にビニールシートは掛けただろうかとうつらうつら眠りが浅くなった時、

「まーちゃん」と声を聞いた。

 意識混濁とした中、祈之が枕抱えて立っているのが見えた。

「 祈?……どうした」

 正夫が半身起きかけると、祈之はさっさと布団の中に入ってきて正夫の胸に顔を埋めると「……ここで寝るの」と呟き、何に対してか微かに頷いてすぐに寝息を立て始めた。正夫も気が遠くなるように酔夢の中へと引きづり込まれ、習慣のように胸の中に祈之を抱くと寄り添うように眠った。

 祈之はたまに戻ってくる亜子の様子を窺いながら、夢遊病者のように遣って来て無言で正夫の横に滑り込み、お互い眠りから覚めないまま無意識に顔を寄せ合って眠った。

 亜子の旅公演が始まり、当分は帰る予定が無いのを知ると正夫の所に入り浸り、疎遠になっていた恋人の気持ちを取り戻したように祈之は見る見る元気になり、朝になると祈之は自分の部屋に戻り学校の支度をすると裏山に飛んで行き、枯れ葉や枯れ草を集めて燃やしている正夫に「まーちゃん行って来るよ」と必ず声を掛けて行った。そして坂を下り、道が左へカーブする所で立ち止まり見送る正夫に大きく手を振った。


「まーちゃん!ちょっと来て、来て……」

 裏山の境界線の金網の修理で忙しい正夫を祈之は強引に手を引っ張り、小屋の中に張られた大きな全紙版のポスターを見せた。

 それは正夫の故郷の山林地帯の地図で正夫の家の前の山道も細い線で書かれてあり滝のマークも入っていた。

「どうしたの?このポスター…」

「ね!?…凄いでしょ…ハンズに有ったんだよ!この地図、吃驚したよ」祈之は歓喜して 「ここ解る?」と指差すところは病院のマークが入っていた。二人で過した正夫の故郷、山深い村を祈之は忘れていなかった。

 正夫も思わず身を乗り出し二人で顔を寄せた。

  

 正夫は応接間に集う客たちが一人二人と部屋に引き上げ一階の喧騒が静まる頃裏口からそつと風呂場に向かった。大きく開かれた応接間の扉の向こうに数人の意に満たない不平分子の輩達が宴席を小さくし、未だに酒に張り付いて気炎を上げているのが見えた。この風呂は三人か四人ぐらい入れるような大きさでゲスト用に造られてあったが、外から直接出入りが出来るようになっていて、鎌倉の海で遊んで砂だらけになっても外に設置されたシャワーで砂を落とし、直接風呂に入れるように設計されていた。亜子や祈之は寝室に備わったバスルームがありそれを使っていた。正夫は独りになってからは人とダブらないように時間を見計らってこの大風呂に入るようにしていた。シャワーを強くして頭から浴びると、その日一日の汗が流れ落ち一日の労働がやつと終わるような気がした。十六歳にしては頑強な、褐色に焼けた筋肉質のその身体は父に良く似ていた。弾力のある張り詰めた肌に跳ね返るように湯が飛び散り、顎先からも湯が滴り落ちた。

 突然、入り口の扉が開き冷たい空気が流れ込んだ。吃驚して振り向くと、祈之が裸で入ってきた。

「一緒に入る」

「一緒に入るの?みんな入る所だよ、大丈夫?」

「大丈夫だよ……どこに入るかなんて僕の勝手だもの」

 正夫は「はいはい…」と頷いて笑い、祈之の頭からシャワーを浴びせ掛けた。つい最近まで二人は一緒に入っていた。三歳の時から洗い続けた見慣れた祈之の身体であった。祈之は正夫のするがままに身体を任せ、正夫は祈之を立たせ真っ白に泡立ったスポンジで股をごしごしと擦り足の間から尻を洗った。

 その羞恥心の無さはまだまだ十三歳の子供であった。


 2

 一年過ぎても二人の仲は変わる事なく、疑似恋愛にも似て戯れて過ごしていた。

 日曜日の朝、正夫のベッドで目覚めた祈之は正夫に戯れついて眠たがる正夫を組み敷いたり組み敷かれたりして戯けまわって「もう…部屋に戻れよ…勉強、午前中は勉強しなさいよ」と正夫に悲鳴を上げさせるほど騒いだ挙げ句引き上げて来た。

 日曜日は正夫の公休日でまだ寝そうな正夫に勉強、勉強と追い立てられ、まだ起きてこないだろう正夫の様子に仕方なしに机に向かった。口元にペンを点てながら木々を揺らす鳥の囀りを見つめ、いつも正夫の胸の中に居られる今の状況を思った。部屋を分けられた時の失望感を思いだし、正夫と離れさせられた事に泣いて母に猛烈に抗議し、まして正夫の引っ越し先がプレハブ小屋だった事に我慢ならず「部屋なんて死ぬほどあるのに!何でまーちゃんは小屋なの!」と、食い下がったが「小屋ってあなたは言うけどあそこは一軒のお家ですよ」と、聞き入れない母を恨んだ。が、今にしてみるとプレハブ小屋で正夫と過ごすひと時は母屋との隔絶感があり、祈之の部屋で過ごした十年間とまた違った、何か知らないちょっとインモラルな幸福感に満たされた。

 大分時間を過ごし、そろそろ起きて来る頃かなと一階に下りた。

 食堂に行くと婆やが今片したばかりのテーブルに再び調味料のセットを用意しながら「ご飯にしますか?…パンにしますか?」と聞いた。

 祈之が小さい頃サロンのように賑わっていたこの家も、母の美貌の陰りとともに些か勢いが失せて来ていたが、それでも母のシンパの芸能記者二人が有名俳優の恋愛沙汰を話題にして持ちネタの交換をし合いその駆け引きで探りを入れ合っていた。祈之はチラッと台所のテーブルを覗き「まーちゃん…まだ?」眠ってるなら起こして来よう、行きかけながら婆やを見ると、

「今日何の用事も無いかって、さっき聞きに来て…食事も食べないで出かけて行きましたよ、昼前には戻るって言ってましたよ」

「えっ!いつ?…どこ行くって?…」

「三十分ほど前ですよ、どこ?…さあ…買い物じゃないですか」婆やは首を傾げた…。

「嘘…」祈之は心が萎むほど寂しくなり、ちょっと立ち尽くしたが、とりあえず後を追って飛び出した。

 下る坂を駆け下りるように急いだが、駅に着くまで正夫の姿は見えずホームの何処にも見当たらなかった。

 皆目見当がつかず思い巡らしていると、パッと閃くものが有った。

 最近、正夫は出入りの職人から貰ったギターを見よう見まねで独学で譜面を読んで上手に弾くようになっていて、祈之と鎌倉の小町通りを歩いている時、魅入るように楽器店のウィンドーの中のギターを見ていることがあった。

 あの楽器屋だ…祈之は鎌倉を降りると迷うことなく楽器店に向かった。

 祈之がその店の中を窺い見ると、奥のレジカウンター横の椅子に座って、一人の男と何やら楽しげに談笑している正夫の横顔が見えた。

 二人は盛んに何かを覗きこみながら楽しそうに話をしている。

 見つめる祈之にその男は気付き、正夫に何か言うと正夫が振り向いた。

 正夫はちょっと吃驚して、にこっと笑うと手招きをした。祈之は知らない男の存在を気にし、じっと見つめながら正夫の所までそっと歩いて行き正夫の手の中に抱き寄せられ「よく解ったね…」と覗き込む正夫に微かに頷きながらその知らない男を上目づかいにじっと見つめた。

 男はその視線にちょっと怯むようにおどけ「いらっしゃい」と笑った。

 祈之は男から視線を外すと正夫に顔を寄せ視線を伏せた。

「こんにちわ…って、挨拶しないの?」正夫に促されても祈之はちょっと正夫を見たが、下を向いたまま無言であった。

「おいおい…ラブラブだな」男は口を挟んだ。

「祈に可愛い女の子の恋人が出来たら、すぐ捨てられますよ。それまでの仮の恋人です…僕は」顔を寄せる祈之を見つめながら正夫は笑った。

「何かゾクッとするぐらい可愛いね…やっぱり母親が美人だとこんな可愛い子が生まれるんだね、こんな子に見つめられたらどっかの神経がおかしくなりそうだ」男は持ってた鋏を一回転させ、見惚れるように祈之を見つめた。

 男は髪を後ろに束ね、シルバーのリングや年代物のシャツ、ヴィンテージらしきジーンズの装いがアーティスティックな感じで、正夫よりはだいぶ年嵩のようだった。

 正夫は祈之を足の間に座らせ抱きこみ、楽譜を見ながら男が横に置いてあるギターを握ると熱心に覗きこみ、巧みな弦の押さえ方、指の動かし方等コード表と、交互に見比べた。それはとても熱心で自分の不安定で拙い見よう見まねの自己流じゃ無くて本当にしっかりと学びたい、そんな思いがあった。

 あい間に「この間の話はどう?」と盛んに男は正夫に誘いをかける。

「正はさあ、ルックスも良いし感じさせるものが有るから育ててみたいって言うんだよ」

 不安そうに正夫を見つめる祈之を正夫は笑いながら見つめ、

「この人がちゃんと幸せになれるまでは……」

「だってだんだん年をとって間に合わなくなるよ、今だよ、今なんだよ」

 男は熱心に正夫を口説いた。祈之は自分の知らない世界を正夫が持っていた事への驚き、正夫を〈正〉と呼ぶ男の親しさに嫉妬した。

 客が入ってきたのをきっかけに正夫は新しいコード表を手に持つとそろそろと立ち上がった。

「今度いつ休み?また顔出しなよ…今度の日曜日も来る?」

 男は祈之の肩を抱いて入口に向かう正夫を送りながら、背に手をかけた。

「…うん…でも約束はちょっと…けっこう用事が出来ちゃうんです…」

 正夫は自分を慕って止まない祈之の視線を見つめながら

「いつも…すいません。時間が空いたら又来ます。これ有難うございました」

 正夫はコード表を掲げ頭を下げると白い歯を見せ健康的な笑顔で別れを告げた。

 家に帰るまで祈之は終始ふくれっ面で小屋に入っても板張りの部屋に置いてあるソファーにドカッと座りぷーっと口を膨らませて正夫を見つめた。

「何怒ってるんだよ」正夫は苦笑しながら、窓際に置いてある藤の椅子に座り込み習ってきたコードを復唱しようとギターを手に持ちかけた時、

「正ちゃん帰っているの?ちょっと…」と、婆やの声がした。

「ハイ!…」正夫は慌てて返事をすると膨れる祈之を残して戸口から出て行った。

 結局、正夫は東京のテレビ局にいる亜子のマネージャーからの用事でそのまま東京に出掛けて行き部屋に戻らなかった。

 夕方、大きな荷物をマネージャーと運び込んできた。

 それは亜子の熱烈なファンである洋画家から贈られた亜子をモデルにした絵であった。

 立派な額縁に入った大きな油絵で居間でテーブルや椅子など片して大事に広げられた、逗留客達が一人二人と集まってきてホーと歓声を上げたが、幻想的で影のようなその女性像はおおよそ亜子とはイメージが離れているように正夫には思われた。

 正夫は梱包されていたものを家の外に運び片付け終ると陽はとっぷりと暮れていた。

 小屋に戻り、灯りを点けると、ベットの上に祈之が俯せて寝ていた。

 膨れて寝てしまった祈之を暫く見つめていたが、タオルケットを掛け、そのまま寝かしたまま、椅子に腰を下ろしギターを手に取った。それは何も持たない正夫に出入りの職人が息子の使わなくなったギターを「これで遊びな」と、楽譜の本と一緒に持ってきてくれたモノだった。

 今日教えてもらった技をポロン、ポロンと爪弾いた…コツを教えてもらうと一段と上達したように思えた。その学ぶ楽しみは、ただ働き続けた正夫にとって味わったことの無い楽しみで、店で聞かせてもらったセゴビアの音色にに魅了され、いつかこんな風に情感豊かに弾いてみたいと思った。

 と、祈之が目を開け簿やっと正夫を見つめた。

 正夫はその視線に気が付くと「おはよう」と構うように笑い、ギターを横に置くと祈之の手を引っ張り起こし

「腹減ったろ?…そろそろ婆やさんの手がすく頃だから、ご飯食べに台所に行こう」と、顔を覗き込んだ。

 祈之は引っ張り上げられ座り込んだまま拗ねたようにプーと顔を膨らませた。

「まだ怒ってるの?祈は午前中は勉強と思ってたから…昼前には帰るつもりでいたんだよ…でも…言わないで行っちゃって、ごめんよ」

「まーちゃん、あの人と親しいの」

「ギターのこと教えてくれたりするんだよ、口を聞くようになったのはほんの最近…一ヶ月ほど前かな…婆やさんに買い物頼まれて小町通に行った時、通るたびに楽譜の本見ていくの知ってたらしくて向こうから声をかけてきたんだよ、見本で送られてきてる楽譜本あるから上げるよ…ってね、

 一度ギター持っておいでよ…って言われたんで…仕事が終わって行ける時があったので一寸行ったんだよ…偶然、彼の友達のプロのギタリストの人が来ていたんだよ、少しね…教えてもらったんだ…」

「祈は?…その時祈はどうしてたの?」

「祈はママと夕飯食べてた」

 祈之はふーんと黙った。

 祈之は殆ど客達の寛ぐ食堂にはいかず正夫のいる台所で食事をとった。母の戻っている時だけ母の横で食事をした。

 自分のいない間に正夫をプレハブ小屋に移した母への消える事ない不信感を持っていて、正夫への想いを母に悟られると正夫に会えないように図るんじゃないかと恐れ正夫の側に行かないように気を付けていた。

 それは正夫を守ろうとする十四歳の知恵であり、そうする事はわりと容易い事で…何故なら、今恋人と半同棲していると噂される母が鎌倉に戻る事は少なかったし、まして仕事の都合では殆ど戻る事は無かった。

 それでも、最盛期の陰りを見せ始めた母は何日か続けて戻る事が以前よりは増え、三日も正夫の温もりを感じないでいると切なくて、よけい思いを募らせた。

 ベッドの端に並んで座り祈之の機嫌を直させようと肩を抱き顔を覗き込む正夫に

「…何で…何であの人、まーちゃんの事…まさ…って呼ぶの?…」

「誰にでもそうなんだよ、要するにフレンドリーなんだな」

「フレンドリー?」

「そうする事が友好的って思ってるんだよ…きっと」

「呼ばせないで…嫌だ!…まさ…なんて言わせないで…」

「名前なんてどうでも良いだろ?」

「嫌だ!嫌だ…普通はお客さん、とか言うじゃない」

「だって勝手に呼ぶのに、名前で呼ぶの止めて下さい、お客さんと呼んでください…とか言うの?…嫌だよ、それに意識してるみたいでかえって可笑しいよ」

「この間の…話って何?」

「この間の話?」正夫はちょっと笑い、首を傾げた。

 その日は、仕事が早く終わり、まだ暮れきらない夏の日差しの中居間では久しぶりに帰宅した亜子を囲んで宴が始まろうとしていた。母のいる日は祈之は顔を出さない、二人の関係を守ろうとする健気な覚悟で祈之は母を警戒していた。

 風呂に入る時間まで間がありそうで、正夫はふっと思い出してギターを持つと楽器店に出掛けた。

「丁度いいところに来た」と、店員はある男に引き合せた。

 その男は色白で妙に赤く色づいた薄い唇が印象的で見つめる眼差しに妖しい光を湛えていた。

「彼はクラシックギターの名手でCDも出してるんだよ、見て貰いなよ」

 店員はギターを抱えるように促した。

 正夫は少し緊張してそんな名手に見て貰うには粗末過ぎるギターを抱えた。二年間の間に多少は弾けるようになったもののそれは所詮拙いもので「凄く好いね」と称えられても、あまりピンとこなかった。

 ただ後ろから抱え込むように手を取るギタリストの熱い吐息だけが印象的で彼がある嗜好の人種である事を感じさせた。

 一から教えたいから内弟子になって付き人をやってくれないかと、熱心に誘ってきた。

「ねぇ…この間の話って何?…」

「何でも無いよ…ギターを習いにいらっしゃいって…時間がありませんて断ったんだよ」

「ふ~ん…」

 祈之は納得したのか、しなかったのか、甘えるように身を寄せ

「じゃあ…まーちゃんは祈より、あの人の方が親しいんでしょ」

「何で?」

「だって!…まーちゃんと…まさ、だったら、まさって呼ぶ方が恋人同士みたいだもの」

 正夫は笑って祈之の鼻を抓んだ。

「あの人と僕はどう違うの?」

「さあねえ…」

 正夫は笑い構うように首を傾げると「も~う!」と飛びついてくる祈之から身を翻し、抱き縋ろうとする祈之から逃げ回り、小屋を飛び出し台所へと走ると、追いかける祈之はその背中に飛びついて崩れ込むように台所の戸を開けた。婆やが目を見張り

「何ですよ!吃驚するじゃないですか、まあ…大きい成りして追い掛けっこですか?」

 婆やは二人のふざけた様子に訳分からないまま、まあまあ…と笑い、

「もう、まーちゃんは…ねえ、まーちゃん」と寄り添い正夫に世話を焼かれながら甘える祈之のそんな様を意味無く安堵するように「仲良くていいですね」と呟いた。それは祈之にとって確かな愛を手中にし、永遠に続くはずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る