第十一話 絶滅おしるこ

 人は何のために生きているのか。


 突然のあたしの問いかけに、ぶ厚いステーキ肉をスキレットに投入して叔父さんは笑った。


 そりゃあ美味しいごはんを食べるためさ。


 ステーキ肉は熱いスキレットの上で油を跳ね飛ばしながら、まるで生きているかのように少し震えて美味しそうな音を立てた。しまった。どうやら質問のタイミングを間違えたっぽい。この魅惑のステーキ肉を前にして、人類は自らの生きる目的を意識高く語れる訳があろうか。


「そんなもんだよね」


 あたしはバターを一欠片、少し迷って、もう一欠片ステーキ肉に落としてつぶやいた。


 叔父さんは指揮棒のように振り回していた肉焼き用フォークでステーキ肉をちょいとめくって、あたしの顔をちらっと覗いて、またお肉の焼け具合を確認してから、まるでお肉に話しかけるようにさらっと言った。


 何かあった?


「ん、別にないよ」


 あたしは嘘をついた。


 そうか。そんな事より、お嬢様。焼き加減はいかがいたしましょうか?


 叔父さんはあたしの嘘を汲んでくれたようだ。あたしは叔父さんの顔を見れず、焼けるお肉を見つめながら答える。


「焦げるぎりぎりまでこんがりと」


 叔父さんはまた笑った。


 わかってるじゃないか。よく焼いてステーキソースをじゃぶじゃぶぶっかける。肉の一番美味い食べ方だ。


 美味しそうにいい音を立てているステーキ肉に肉焼き用フォークを突き立てて、くるり、叔父さんはきれいにお肉をひっくり返した。溶けかけたバターがスキレットに敷かれて、焼ける音がさらに美味しそうに匂ってくる。


 有名店のステーキソースを取り出して、叔父さんは宣言通りじゃぶじゃぶとお肉にソースをぶちまけた。


 焼き具合を気にしたり、素材本来の味とか求めたり、そんなのどうだっていいんだよ。食べたいように食べたいだけ食べる。それがキャンプ飯であり、人が生きる目的でもあるんだ。


 叔父さんはあたしの方を見ないで独り言のようにそう言って、とっておきの醤油の小瓶を取り出した。そしてスキレットの縁に醤油を数滴垂らす。


 仕上げだ。日本人のDNAに刻まれた醤油の香りはどんな時でも俺達を空腹へと誘ってくれる。人間、空腹には絶対勝てないぞ。腹が減ってると、おかしな事を考えてしまうもんだ。まずは腹いっぱい肉を食う。悩みの解決にはそれしかないって。


「あのね……」


 はいはい、わかりました。叔父さんのずいぶん方向違いなベクトルの説得に負けました。心の内を打ち明けるわ。


「……クラスの子達にね、あたしが一人でキャンプしたり、カブに乗ったりしてるのがバレちゃった」


 そんな事か。キャンプは別にいいだろ。カブだってちゃんと免許持ってんだ。多少の校則違反も問題ない。たぶん。


 溶けたバターとステーキソースがじゅわっと沸騰しているスキレットに蓋をして、叔父さんはさらっと言った。蓋しちゃうんだ。お肉が焼けるの、もっと見ていたかったのに。


「問題はそこじゃないの。焚き火でお肉焼いたり、海で魚釣って焼いて食べたり。あたしがそんなキャンプしてるって何か盛り上がっちゃって、みんなでキャンプいこーとかわいわい話してたら、嫌な奴に難癖つけられたのさ」


 女子高にも嫌な奴っているのか。みんなかわいい子達だと思ってた。


 女子高にどんな幻想を抱いていたのか、叔父さんはしみじみと首を振った。


「クラスでも浮いてたそいつは、肉食のあたしは残酷な動物虐待主義者だって喚き散らしたの。めんどくさい奴に絡まれたなーってみんなで無視してたけど、何かしつこくってさ」


 その子は極右的ベジタリアンだったのかな。


「さあ。ファッションヴィーガンって感じ。元々仲が良かった子じゃないし、むしろ自由な家風のあたしを毛嫌いしてたかな。あたしを攻撃するいい口実になったんだと思う」


 何か、あたしの口から自分でも不思議に思うくらいするすると言葉が出てきた。不安を相談するとか悩みを打ち明けるとか、そんなつもりはなかったのに、心の中から湧き上がる言葉を止められずにどんどん話してしまう。叔父さんは静かに頷いて聞いててくれた。


「一方的に攻めてきてさ、あたしの事を生き物を殺して生きる野蛮人って決めつけて、あたしだけすごい極悪人に仕立て上げられちゃった。ソロキャンプでお肉焼いて食べたくらいで悪者扱いよ。誰だってお腹空けばお肉くらい食べるじゃないの」


 それで、人間は何のために生き物を食べて生きてるんだろうって悩みにぶち当たったのか?


「まさか。あんまりムカついたんで、お昼休みにそいつの目の前で照り焼きチキンたまごサラダサンドを美味しそうに食べてやったわ」


 さすが。兄者の教育の賜物だな。


「そいつが美味しいのも食べずに、そうやって他人を攻撃して生きてて何が楽しいのかなって可哀想に思えただけ。あの子、何のために生きているんだろう。ヴィーガンの主張とか、他の生き物の命を奪う事とか、あたしにはどうでもいい事。お腹が空くから、美味しいものを食べるだけ」


 叔父さんは黙ってスキレットの蓋に手をかけて、コンロの上で少し揺すった。じゅわっていい匂いの湯気が蓋の隙間から沸き立つ。開けるのね。ついにその蓋を開けるのね。お肉の蓋が、今、開かれる。


 今度さ、その子に謝まろうな。


 叔父さんはスキレットの蓋を少しだけずらして、自分だけお肉の焼ける匂いを確かめながら静かに言った。


 人が何のために生きているかなんて、その人それぞれに理由があるんだ。俺は甘いものを食べるために生きている。君は美味しいごはんのために生きている。その子は、えーと、なんだろな。生き物達を守るために生きてるのかもな。


 何も言えないでいるあたしの顔を見て、叔父さんはさらに続けた。


 人の生き方にとやかく難癖つけるのは野暮い事だ。うん、野暮いな。


 スキレットを揺する手が止まる。叔父さんはぐっと手に力を込めた、ように見えた。


 その子もキャンプに誘ってさ、焚き火作りとか水汲みとか働かせて、うんとお腹空かせてやってから、目の前でとびきり旨そうに肉を焼いてやれ。


 スキレット、ご開帳。見事に焼けたお肉があたしの目の前に現れた。溶けたバターとステーキソースの緞帳の向こう側、本日の主役が焦げる寸前のベストなタイミングでふわりと醤油の香りを身に纏って登場だ。


 ごめんねー、ごはんはお肉しかないのー。お腹空いてるんでしょー。今日だけお肉食べてみないー? ってな。


「あたしにそこまで意地悪くなれと?」


 ヴィーガンの本質を見誤ってる子にはそれが一番の対抗策さ。もちろん、その子用に動物性の脂を使ってない野菜カレーも用意するんだぞ。


「あいつ、キャンプに誘ったら、来てくれるかな」


 興味のない奴にケンカを売ったりはしないさ。相手がどんな奴か知りたいからこそ難癖つけて論破したくなる。お腹を空かせた奴の目の前で肉を焼けば、もう余計な事は考えていられないもんだ。あっという間に共通意識を持った友達だ。


 確かに、こんがりと焼けてステーキソースにまみれたぎらぎらしたお肉の前では、空腹な人間は無力だ。もう何も考えられなくなる。


「もういいよ。お腹減った。早く食べたい」




 キャンプでの一番の楽しみはキャンプ飯だ。何を作ろうか。いや、違うな。何をどうやって食べようか。前日の夜からそればっかり考えてる。何だったら食材の仕込みだって始めちゃうくらいだ。


 お肉が食べたい。でも人類絶滅後の世界でそれはとても難易度の高いミッションだ。人間だけでなく動物もみんないなくなってしまったから、狩りをする事も出来ない。ここの道の駅でも食べられそうな肉類は見つけられなかった。


 東京にも牛とか豚を出荷してる牧場があるのか、地元産のベーコンのパックが売ってあったけど、さすがに十ヶ月も常温で放置されていたベーコンを口に入れるだなんて。あいにくとあたしはそこまでの勇気を持ち合わせた人間じゃあない。怖過ぎるって。


 ここでの収穫は精米してあるお米、小豆、そして各種野菜の種だった。さすがは東京のスヴァールバル、アキルノ世界種子貯蔵庫だ。穀物、豆、種子。管理次第でいつまでも保存がきく生き物だ。道の駅の駐車場の向こう側、そこは区分けされて貸し出し農園となっているようだし、とりあえず農業の真似事は出来そうだ。


 で、農園作りの前に、今日のキャンプ飯。腹が減っては何も出来ず、だ。きれいな小豆が手に入ったんだし、叔父さんのおしるこを再現してみよう。


 道の駅正面エントランス前に陣取ってウッドストーブを設置する。薪もお水もたくさんあるし、そして誰もいないんだし、遠慮なく火を焚こう。


 小鍋に小豆を投入して、たっぷりのお水で洗う。しゃぐしゃぐと、妖怪アズキアライの登場だ。叔父さんの説だとアズキアラインと呼ぶべきかな。


 洗ったお水を側溝に流し捨てて、また小豆がかぶるくらいのお水を小鍋に入れて、今度は火にかける。お水が沸騰するまで軽く小豆をかき混ぜながら、ぼんやりと考え事タイムだ。


 人間が絶滅して、動物もいなくなって、そうなると妖怪もやっぱり絶滅してしまったんだろうか。


 妖怪とは。極めてレアなケースの自然現象にそれっぽい名前を付けてやって自分の日常へと強引に引きずりおろして無理矢理納得する行為だ。叔父さんがそう言ってた。そのレアな自然現象を観測する人間が絶滅したら、やっぱり誰にも見られないから妖怪もいない事になってしまうだろう。川縁で沢蟹でも探して砂利をしゃぐしゃぐと掘っていた小動物もいなくなり、同時にアズキアラインもいなくなった。そんなもんだ。


 くつくつとお湯が煮立ち始め、小鍋の小豆がゆらりと踊る。小豆を潰さないようにゆっくりとかき混ぜて、お湯が泡を立ててぐつぐつと言い出したらお水の交換だ。お湯を捨てて、また冷たいお水を注ぎ入れる。これを二回繰り返してやる。そうすれば小豆のほくほくとした食感がちゃんと残った粒あんができるんだ。やっぱり粒あんでしょ。こしあんなんてただの甘いペーストだ。


 で、妖怪だ。新しいお水が煮えるまでゆったりと小豆をかき混ぜながら、再び考え事タイム。動物系妖怪が絶滅したのはまあいいとして、植物系妖怪はどうなんだろう。


 人類を絶滅させた黒い夜は動物達も飲み込んでどこかに消し去ってしまった。でも植物達は以前と変わらずにそこに在り続けている。いや、むしろ前より元気に茂ってるようにも思える。


 アスファルトを引き裂いて芽吹いた名前も知らない雑草達。道路を覆うように生い茂る歩道の植え込み。道路どころか周囲の建物も取り込もうと枝葉を伸ばしている街路樹。人類絶滅からおよそ十ヶ月、街はミドリ色に支配されつつあった。


 異様な速度で成長している緑色を見ていると、植物系妖怪はまだ生き残っているように思えてしまう。まあ、それもあたしの観測のさじ加減次第だけど。


 さじ加減。そろそろ二度目のお湯捨てだ。柔らかく炊けそうな小豆を潰さないように丁寧にお湯を入れ替える。色が付いたお湯を捨てて、また冷たいお水で小鍋を満たす。今度は水量に気を付けないと。


 美味しく小豆を炊くのに重要なのは、小豆と砂糖とお水の分量のさじ加減だ。小豆と砂糖とお水、みんな同じくらいの分量が小豆炊きのセオリーだけど、叔父さんは小豆の味を活かすために砂糖を減らしていた。そして何かを隠し味に入れていた。


 普通なら小豆と同量の砂糖、そしてひとつまみの塩を入れてやる。そのほんのちょっとの塩があんこの味を決定付ける。そう言い切っても過言じゃない。でも叔父さんは小豆を炊くのに塩は使っていない。そのほんのちょっとの差って何だろう。


 砂糖が溶けて、小豆はすっかり柔らかくなって、小鍋の中身は全体がもったりと一つの柔らかめの塊みたいになってきた。あと、ほんのちょっとで叔父さんのおしるこが出来上がる。ただ、そのほんのちょっとがわからない。


 ほんのちょっと、と言えば。動物と植物の違いもほんのちょっとしかない。黒い夜はどうやって動物と植物を見分けているんだろう。人間も含めて動物を飲み込んで消して、植物はそのまま放置、どころか逆に急成長させちゃってる。動物と植物の違いって何なのさ。


 ふと、あいつの顔が思い浮かんだ。ファッションヴィーガンのクラスメイト。あたしを目の敵にしたあいつ。目の前で照り焼きチキンたまごサラダサンドを食べてやったら泣きそうな顔で睨みつけてきたあの子。


 あの子、キャンプに誘ったら、来てくれただろうか。


 動物も植物も同じ生き物なのに、どうして命の区別をつけたがるんだろう。動物のお肉を食べる私が悪者で、植物の果肉を食べるあいつは偽善者で。何だかお似合いじゃないか。


 うんとお腹空かせて、叔父さんが焚き火で焼いたステーキを前にしても同じ事を言えるのかな。焦げる寸前までかりっと焼いて、ステーキソースとバターにたっぷりとまみれて、日本人のDNAに刻まれた醤油の香りで極限の空腹へと誘ってやる。


 はっとして、あたしは思わず膝を叩いた。


「そうか。醤油だ」


 叔父さんはおしるこに醤油を使っていたんだ。


 早速あたしはお店の中に飛び込んで、商品棚にいろんな種類の醤油のボトルが並んでいる中で、ちょっと迷って、濃口醤油の小さなボトルに手を伸ばした。


 すぐさまウッドストーブまで飛んで戻って、小鍋を火から下ろして、慎重に慎重に鍋の縁に醤油を数滴垂らした。醤油のしずくは熱い鍋の縁でじゅわっと音を立てて、照りのある粒あんと化した小豆の渦に溶けるように馴染んで消えた。ふわり、香ばしい甘じょっぱい匂いがあたしの鼻をくすぐってくれる。うん、もう一滴。いや、二滴。


 小鍋を掻き混ぜていた木ベラの先端にほくほくと湯気を立てる粒あんを乗せて、ふうっと唇に触れるか触れないかの瀬戸際のところで息を吹きかける。さて、隠し味の醤油は吉と出るか、凶と出るか。


 このおしるこなら、あの子も食べてくれるかな。


 そんな事を思いながら粒あんを口に入れた。大人しい小豆の風味、控えめな砂糖の甘さ、ふわっと現れてはすぐさま消えてしまう香ばしい塩っ気。うん、叔父さんのおしるこ、完全再現成功だ。


 でも、このおしるこを食べてくれるあの子はもういない。誰もいない。あたし一人で食べるしかない。


 そして、あたしはある重大な問題にぶち当たり、がっくりと膝から崩れ落ちてしまった。


 お餅を焼くの忘れてた。

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