第3話 “日本名僧・高僧伝”3、玄昉


“日本名僧・高僧伝”3、玄昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日(746年7月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。安斗阿加布の子とする系図や、善珠の父とする史書もある。僧官は僧正。義淵に師事。養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7年(735年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。天平8年(736年)封戸を与えられた。翌天平9年(737年)僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。

聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12年(740年)には藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌天平13年(741年)7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)任地で没した。玄昉に関しては奇怪な逸話が多い。まず史書である『続日本紀』の彼の卒伝に、「藤原広嗣が霊の為に害せらる」とあり、当時広嗣の怨霊によって彼が死んだとの考えがあったことが知られる。

これが後世の書物になると話があらぬ方向に広がっていく。

もちろん、いずれも後世の史料であり信用する必然性はとぼしい。やはり早くから破戒僧と信じられていた道鏡と混同された形跡もみられる。玄昉の栄達が妬まれたこと、さらには彼の没落と死去が広嗣の怨霊と結びつける理解のあったことは認められるだろう。

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