第六話
それからまた一週間が経過し、とうとうキティの帰国の日の前日を迎えた。
最後にお別れ会をしようということになって、キティの家に俺と雄大、鈴木、綿貫が集合した。
「本日は私のためにこのような会を開いてくださり、本当にありがとうございます。日本に来てたくさんのことを学ぶことになるだろうと、予想はしていましたが、このような友人たちに出会えることは想定外の事でした。でも、うれしい誤算です。皆さんは他では得難い、一生の宝物です。私は生涯皆さんのことを忘れることはないでしょう。今日をもって、一旦お別れとなりますが、私たちの出会いと、皆さんのこれからの人生を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
「よし、飲もう!」
「酒はないけどな」
別れの宴は深夜まで続き、ジェームズも交えて、大いに騒いだ。こうして騒いでおけば、別れの寂しさも吹っ飛ぶだろうと考えているかのように。
翌朝、目が覚めると。横に、雄大がつぶれていた。見ると、ジェームズも一緒になってひっくりかえっている。ボディガードがあきれたもんだと笑いながら、朝日を浴びようと窓に近づいたところ、バルコニーにキティと鈴木がいることに気が付いた。普通の様子ではない。キティはしゃがみ込んで、肩を震わせている。それを鈴木が背中をさするようにしているのだ。
俺は声をかけづらかったので、気づかないふりをして、窓から離れた。
一度、家に戻り、着替えてから、空港へと向かった。キティの最後の見送りである。
朝見た時は泣いていたようだったが、今では随分と晴れやかな顔をしていた。
「手紙書いてね」鈴木がおいおいと泣きながら言う。
「向こうに着いたら電話してくださいね」綿貫もぽろぽろと涙をこぼしながら、いった。
「僕のこと忘れないでね!」雄大が親指を突き立てて言う。
俺は、鞄から小袋を取り出して、キティに渡した。
「日本のこと思い出せるように」
「見てもいいですか?」
「ああ」
キティは袋から、俺の贈り物を取り出す。
「これって」
「かんざしだよ。髪につける装飾品だ」
「ありがとうございます。どうやってつけるんですか?」あっ、付け方わからないのか。
困ったなとおもったところ、綿貫が助け舟を出してくれた。
「私、着付けするときにつけるので、わかりますよ」そういって、手早く、キティの髪の毛をまとめて、かんざしを髪に刺した。
「さやかさんありがとう」
「お嬢様、そろそろ時間です」ジェームズがキティにそういう。
「名残惜しいけど、私行きますね。皆さんお達者で」
「さようならキティ」俺がそういうと、キティは俺に抱きついてきた。「おい、お前」
「向こうでは仲のいい友達は、こういうとき、ハグをするものですよ」
「あっ、じゃあ僕も」そういう、雄大を、あんたはいいからと鈴木が引っ張る。
キティはそれから、ぱっと離れて小走りで少し走ってから、
「皆さんさようなら」と大きな声で言って、ゲートの向こうへと行ってしまった。そのあとをジェームズが追いながら、
「お嬢様とよくしてもらってみんなありがとう」と言った。
「ジェームズもげんきで」雄大が言う。ジェームズはうなずいて、キティと同様に、ゲートの向こうへと行ってしまった。
それから、滑走路が見えるところに出て、
「あれだよ、キティたちが乗ってる飛行機は」雄大が指をさすその機体を俺たちは見る。
飛行機が滑走路へと出て、飛び立って見えなくなっても俺はじっと、飛行機の消えた空を見ていた。
「行っちゃったね」
「そうだな」
「帰りましょうか」
「そうね」
秋が過ぎ、冬を超え、春が来て、キティと出会った、夏を迎えても、俺の心の中にはまだ彼女の声がした。キティに住所を聞いていなくて、そのことを恨めしく思い日々を過ごす。鈴木や、綿貫に聞けば住所は分かるのかもしれないが、なんだか照れくさくて、尋ねることができないまま、時が過ぎた。
キティの去った秋が来て、受験が間近に迫っていることに焦りを感じ始めても、キティのことを考えない日は一日としてない。毎日開ける、教室の扉の向こうに彼女がいる気がして、部室に行けばキティがいる気がして、何度もふらりふらりと立ち寄ったこともあったが、当然そこに彼女の姿はない。
キティが生活していたマンションに行き、彼女がまた日本に来たんじゃないのかという幻想にとらわれて誰も生活していない、部屋の窓を覗き込んだりもした。鈴木に見つかって、適当な言い訳をする。そういうことが度々あった。
俺は、彼女が去ってようやく、自分の気持ちに気づいたのだった。
俺は、キティに恋をしていた。
毎日、毎日、キティのことを思っては胸を締め付けらるような苦しみに耐え、いっそのこと彼女の事なんて忘れてしまいたいとも思ったが、それもできなくて、大きなもやもやが胸のあたりずっしりとあるのを感じながら、いつも心がどこかに行っているような顔をしていた。
そういう日々を過ごしながら、受験の冬を迎え、手応えのないまま試験を終えて、春、第一志望校の合格書という、驚きの結果をもってして、俺はこのもやもやに終止符を打つことに決めた。
九八年三月
俺は北アイルランドにいた。
会えるかどうかも分からないのに、何の手掛かりもないのに、キティを捜して、北アイルランドにいた。
あてのないまま、方々を旅した。街から街へと移動し、キティの写真を見せてはいろんな人に尋ねた。
当然そんなやり方で見つかるわけがないのに、何日も俺は探し続けた。
しかし、二週間がたち、あまりにも成果がないことに、俺は打ちのめされ、日本への帰りの飛行機を捜そうとベルファストにいたところ、意外な人間に出会った。ここにいるはずがない男に。
俺が近づくと、その男はニット帽を深くかぶり、サングラスをした顔を新聞で覆い隠すようにした。だが、もはや手遅れである。俺は新聞を奪い取り、ニット帽とサングラスも取った。
「雄大、お前、ここで何しているんだ?」
「えっと、……奇遇だな智!北アイルランド旅行かい?」
「いつからつけていた?」白々しい嘘は無視する。
「……日本からだよ」
「なんで」
「智が心配だったからに決まっているじゃないか」
「お前に心配される筋合いはない」
すると雄大は俺の両肩をつかんで言った。
「どうして。智はこの一年ずっとおかしかった。何聞いてもぼんやりしていて、生返事しかしないし。ずっと何かを考えこんでいるようだった。それなのに、智は俺にちっとも相談しないで、全然平気なふりして。無理してるのは傍から見て明らかなのに。
……俺のこともっと頼ってくれよ。友達だろ」
「俺は、……」
「智が何しに北アイルランドに来たか分かるよ。キティちゃんに会いに来たんだろう。キティちゃんのこと好きだったんだろ。なのに、智は目的地に行こうとしないで、見当違いなところに行ってばかりで。なんで会いに行かないんだ」
「だって、住所知らねえし」
「えっ」
「なんだよ」
「えーーー」耳に響くような声を出してくれるなよ。
「だから何だよ」
「なんで知らないんだよ!」逆ギレか?「前からちょっと怪しんでたけど、智って馬鹿なの?あほなの?居場所も分からないで見つかるわけないじゃん!なんで瑠奈たちに聞かないの?綿貫さんだって知っているだろうに」
「じゃあ、お前は知ってんのかよ」
「もちろん、瑠奈に教えてもらったかんね。ここにメモって……てあれ」ポケットに手を突っ込んだまま青ざめる雄大。
「どうした?」
「……メモ落とした」
電話をしようということになったのだが、愚かなことに、俺たち二人とも、鈴木と綿貫の電話番号を覚えていなかった。
「何が心配してついて来ただ。何の役にも立ってないじゃないか」
「ごめんよ……」
「もういいよ。とりあえず明後日、日本に帰るから、機会があったらまた来る。そん時はちゃんと鈴木か綿貫にキティの家の住所も聞いて来る」
「帰っちゃうの?」
「仕方ないだろ。とりあえず、飛行機を捜すぞ」
明後日の飛行機の予約をして、俺たち二人はベルファストの街を見て回ることにした。
夕日が地平線へと近づいてゆく。近郊を流れる川にかかる石橋の上で、その夕日を眺めていた。
トンボがかくかくと、鋭く飛んで行く。
「こっちにもトンボっているんだね」
「そりゃあ、いるだろうよ。でも珍しいみたいだけどな」
「どうして?」
「キティがトンボを追いかけて川に落ちたって言ってたから。そんだけ夢中になるってことはかなり珍しいってことだろ」
「キティちゃんなら何でも珍しがると思うけどな」それは言えてる。
「その話聞いたのは、確か遅れ蛍に興奮したお前が川に落ちた時だったっけか?」
「あーあったねそんなこと」
「そうだよ。池田山に行った帰りだ。あのときあいつなんて言ってたのかな?確か、公園で……」公園で、いつも教会の鐘が鳴るまで遊んでいて、その公園は中央を川が流れていて、その川には石橋がかかっている……。「雄大」
「何?」
「地図持ってるか?」
「あるけど」
「貸せ」俺は雄大から奪い取るようにして地図を受け取り食い入るように見始めた。
中央に石橋のかかった川があって、教会の近くの公園、それもおそらくカトリックの教会だ。それだけの条件が備わっているのならば、大分、数が絞られるだろう。いつも遊んでいたのだから、キティの家の近くのはずだ。そんな公園は……
「ここだ」
「どうしたんだよ、智」
「雄大、この教会がカトリック教会のものか調べられるか?」俺は、その公園の近くの教会を指差した。
「人に聞けばいいんじゃね?」
観光会社に聞いたところ、それはカトリックの教会だった。
「智、どういうことだよ?」
「キティはたぶんその教会のある街にいる」
「本当?じゃあ明日……」
「ああ、明日そこに行ってみる」
その日の夜、雄大と話をした。雄大が言っていたように、俺は去年からずっと雄大とまともに会話をしていなかったことに気が付いた。
「キティちゃんが日本をたつ一週間くらい前に、水族館に行ったの覚えている?」
「ああ、俺も一緒だったからな」
「実は、俺も行ってたんだよね。水族館」
「どういうことだ?」
「キティちゃん、瑠奈と綿貫さんと俺も誘ったんだけど、なんか瑠奈が、智と二人で行ったらいいって言ってさ。そしたらキティちゃんも、お言葉に甘えてって言って」キティはそんなことを言っていたのか。
「で、お前は気になったからついて来たと」
「そそ。よくわかってんじゃん」俺はチョップをかましてやった。「いってえよ。何すんだよ」
「この出歯亀野郎が」
次の日、朝早くにホテルを出て、目的の町へと向かった。
キティの家はかなり良い家柄だろう。その町の人に、マーフィーさんのお宅はどちらですかと聞けばわかるはずだ。
俺はもう少しでキティに会えるのかと思うと、胸がわくわくした。キティは俺が突然来たら多分驚くだろう。でもきっと、喜んでくれるはずだ。
バスから降りて、とりあえず町の中心へと向かって行った。
キティがいつも聞いていた鐘を鳴らす教会というのは、おそらくこの町の中心にある教会のことなのだろう。教会の近くにいた初老の女性にマーフィーさんの家に行きたいのですが、と尋ねたところ、すぐに案内してくれた。
その家は、立派だった。立派という言葉が小さく感じるくらい立派だった。王の住む城であると言われたら、すんなり信じていたかもしれない。
この呼び鈴の音で家の中にいる人間が気づくことが出来るのかと少々、不安になったが、鳴らさないわけにもいかないので、二度三度と鳴らしてみる。しかし反応はない。
「留守なのかなあ?」雄大がそういって、俺もそうかもしれないなと、思ったが、キティに会うまでは、どこにも行く気にならなかったので、門の前をうろうろしていた。
すると、近くを通りかかった老婆が話しかけてきた。随分と聴き取りにくかった、ブリテンの英語だったが、老婆曰く、
「マーフィーさんはお留守だよ」いつ戻るのかと尋ねたところ「しばらく戻らないだろうねえ」といったらしかった。
俺は諦めきれずに、懐からキティの写真を取り出して、老婆に見せた。
老婆はまじまじと俺の顔を見てから、歩き始めた。どこかに行ってしまうのかと思ったのだが、俺たちのほうを向いて手招きをする。
老婆はマーフィー家の敷地の周りを歩き、垣根が切れているところから、敷地内へと入って行った。
「おい、智、付いて行くのかよ。なんかやばそうだぜ」
「ここまで来て、引き返せるかよ」
「ああ、もう、儘よ」
老婆に続き、敷地内に侵入する。
老婆は庭を横切り、ある木の下で止まった。木の根元にはいくつかの大きな、黒い石が、きれいに切り出されたてかてかと光る石、墓石があった。
老婆はその墓石の一つに指をさした。恐る恐る、その墓石を見てみる。
『Katherine Murphy Born in May 1979 Died in November 1996』
俺はその掘られた文字の意味を、何度も反芻して初めて、理解することが出来た。
『キャサリン・マーフィー 1979年五月生 1996年十一月没』
「なんだよこれ」俺は静かに言った。老婆は答えるはずもなく、ただそこに立っている。「何の冗談だよ!」声を荒らげる。
だが俺に構う様子を見せず、老婆はすたすたと行ってしまった。
「おっ、おい。智」
「違うよ、これはキティとは何の関係もない」
「でもキャサリンって」
「関係ないって言ってんだろ!マーフィーなんて苗字は北アイルランドじゃありふれた姓だ。キャサリンって名前も。キャサリン・マーフィーが何人いてもおかしくない。大体ここに来たのは偶然みたいなもんだろ」
「でもあのお婆さんは」
「ボケたような老人がどんな勘違いをしようと俺には関係ない」俺はそういい放ち、すたすたと歩き始めた。こんな気味の悪い、所にいつまでもいられるかよ。
ずんずんと歩いていく俺に、雄大は渋々とついてくる。
そうだよ。キティが言ったほんの少しのヒントで家を特定できるはずがないんだ。ここはキティの家なんかじゃない。次、北アイルランドに来るときは、絶対に綿貫か、鈴木にキティの家の住所を教えてもらってから来よう。
次の日、飛行機に乗り、北アイルランドを後にした。
雄大とは昨日、屋敷を後にして以来、口を聞いていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます