対英霊 Ⅰ

 さて、竜が冒険者の街からダンジョンの穴に飛び込んだらどうなったか。




 目の前には、地下への長い長い洞窟が続いていた。斜め四十度近い急勾配には、地上にある神代樹の影響で無数の根が這っている。


 竜はそこを飛行したまま下っていった。




 ここでも冒険者の姿はちらほらと見えたのだが、彼らは攻撃してこない。稼ぎ場であるダンジョンへの道が崩落するのを恐れているのだろうか。


 そんなことを思っていると、竜が声を投げかけてきた。




『ヒトよ、不自由はもうしばし辛抱せよ。この場は長らくいると危険なのでな』




 そんな言葉を耳にしていると、この先の道を塞ぐシャボンの膜のようなものが見えた。




 一体あれは何なのか。


 そんな疑問に答えをもらう間もなく、とぷんと飲み込まれる音と共に膜を越えてしまった。




 それを越えてから見えた光景に息を呑む。


 目の前のそれに対して自分の常識が上手く当てはまらなくなり、思考が停止してしまったのだ。




 なんと、抜けた先にあるのもまた、吹き抜けの青空なのである。


 山一つをトンネルで越えたから空が見えたということではない。


 上空を飛んだ時にはっきりしたが、先程までいたあの街は平地にあったのだ。そこからかなりの角度で下ってきたことを考えれば、地中でなければおかしいのである。




 いや、そもそも先程見た世界は丸く閉じたアガルタ世界のようにも見えた。


 それがどうだ。今目の前にしているこの場は地球と同じ空が見える。


 全くもって別世界の様相だ。




 しかも危険というのもどういうことだろうか。


 確かに戦闘力を持っていた冒険者達が潜るダンジョンとなれば危険がないはずがない。




 しかし、ここはかなり荒廃が進んでいるものの、トンネルの出口から続いた廃墟が広がっている。


 要するに、まだ人の拠点にしか見えないのだ。




 上で見たあの街に移転するまではこの場所に冒険者が住んでいたと言われても疑わないレベルの施設が二キロ四方は続いている。


 だからこそ、この空が開けた地下空間が危険という意味がさっぱりわからなかった。




『困惑――か。ふむ、ヒトよ。先の屋敷で放った言葉のように思念を言葉として伝える意思を持て。さすれば我も理解が容易になろう』




 言葉で……? と疑問を反復すると、竜は頷いた。




『そうさな、我は実際に人と同じく声を用いているわけではない。現に、それを用いておれば口を開けた拍子に汝をこの危険地帯に落としていたところだ。杖たる身ではこの高さからの落下は致命的であるな』




 なるほどと納得する。


 確かに竜の声に口の動きは連動していない。いわゆる念話やテレパシーと言うべきものなのだろう。


 そう理解したところ、首を横に振られた。




『否。汝が思い浮かべるテレパシーとやらは本質が異なる。念話も足りぬな。むしろ意識の共有とでも呼ぶべきか。我ら獣と人はそうでもなければ意志疎通できぬ。尤も、この能力は単に意思疎通を円滑にするだけで、双方向の思考が筒抜けになるから戦闘には活かせぬのだが――』




 差があるのかないのかわからないことを竜はボヤいている。


 あれだ。守備範囲外の専門家の熱弁は右から左に抜けるのと同じ感覚で頭に入ってこない。




 けれどもこれは確定的だ。やはりあちらにはこちらの考えが伝わっているらしい。




《この場所が危険ってどういうことで――》




 言葉は最後まで続かなかった。


 語尾というものはその人の特徴が表れやすいところだろう。


 けれども、その個人――自分の特徴というものが思い出せない。男であることは間違いないが、果たして一人称もどうだっただろうか。




 しかし生じた疑問が解決するより早く、質問の意味を察した竜の答えが返ってきてしまった。




英霊エインヘリヤルと呼ばれる人間の亡霊が出るのだ』




 竜は遺跡をしきりに見回している。


 そういえばこの英霊とやらはハルアジスも口にしていた。




《英霊って何ですか?》




 まあ、丁寧な口調であれば問題あるまい。ひとまずは現在の会話を優先する。




『読んで字の如く、英雄の亡霊だ。話すと長くなるが、現在の冒険者の有り様と密接に関係しておるのだよ』


《なるほど。それがハルアジスに忠告していた内容と繋がってくるわけですか》




 自らの行いを省みさせようと声をかけていたのが良い証拠だ。


 地上での話からすると、天使が用意した何かに人が手を加えた結果、困った自体が起こっている。その一つに英霊エインヘリヤルとやらが絡むという認識で良いのだろう。


 改めて自分なりに解釈しようとしていると、また心を読まれたのか『左様』と言葉が向けられた。




『ふむ。汝は利口なものの、そうして言葉で理解しようとしている点が難儀だ。だからテレパシーなどと言う。我が伝えようとした意味はまだ十全に通じておらぬよ』




 竜は何やら溜息を吐きたそうだが、そんなに柔軟な理解を求められても困る。


 何から何までわからない尽くしなのだ。手探りでも進めるだけで勘弁してほしい。




 けれども、幸いこの竜は本気で助けてくれる気のようだ。その気が失せないともしれないので、今のうちに状況を把握しておきたい。


 次なる質問を投げかけようと、思案を始めようとした。




『待て。問答は後だ』




 急かして問いかける前に竜から緊張が伝わった。


 一体どうしたと思う間もない。短く告げられたのと、竜の右翼が半ば過ぎで断裂したのはほぼ同時だった。


 その一瞬、蜃気楼のモヤに似た視野の歪曲が、地上から翼を裂いたようにも見えた。




 これこそ竜が警戒していたものらしい。


 竜は欠けた翼をチラと見やる。そこに痛がる素振りはなかった。




『ふむ。この体躯では良い的か』




 そう呟いたと同時、ガラス細工でも砕けるように竜の体が砕けた。


 中からズルリと抜け落ちると共に地上に急降下を始めるのは、全長十メートルほどまでスケールダウンした竜である。




 自分はまだこの竜の口に咥えられたままだ。




《うぇっと、何がどうなって……!?》


『剣の英霊に地上から狙われている。どのような魔法、はたまた技工かは知らぬが、要するに飛ぶ斬撃だ。戦闘用の加護を身に纏って逃げても活かせるものがないのだよ』


《その身体の仕組みが謎っていうか、大丈夫なんですか!?》


『……そこからよな。許せ、今は理を説く余裕も無し。せめて共感せよ』




 翼を傾け、遺跡群に降りた竜は減速もせずに着地する。


 石畳が割れ、陥没するほどの衝撃があったが耐えきれるくらいに身体が強靭なのだろう。――しかし、苦痛を堪える吐息が漏れた。




 一体なぜ? そう思った時、びしゃっと液体が落ちる音に気付いた。


 身体をよじるイメージで竜の後肢に意識を向けると、赤い血が溢れて滴り落ちる様が見えた。


 そうだ、先程の街でこの竜は冒険者の一撃を食らっていたのである。

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