桜の色

森川 蓮二

第1話 盲目と純粋

 綺麗な夕焼けが差し込む教室で彼女は泣いていた。

 彼女からほんの数歩の距離で俺はその肩に触れようとするが、動かしかけていた手を力なく降ろしてしまう。


 彼女の事をなんでも知っているつもりで、実は何も知らなかった俺が今更何を言えるというのだろう。

 そんな言葉を心の中で自分自身に問いかけていると、彼女は手で目元を拭い、静かに言った。


「さよなら……」


 彼女はそう告げると、俺の隣を小走りで抜けて夕焼けに満たされた教室を出ていく。

 その後ろ姿を追うことも出来ずに、俺はただその後ろ姿を――



―――――



 そこまで頭に思い浮かんだ情景を文字にして打ち込んだ時、僕の耳にパタパタとスリッパで誰かが廊下を走る音がイヤホン越しに聞え、僕の意識は現実へと引き戻された。


 病院の中では走らない。


 これは病院では言わずと知れた一般的な常識だ。

 それを堂々と破ってくる足音に僕はいつもの嵐が来るなと察知し、イヤホンを外す。


 だが、廊下から響いてきた足音は徐々にこちらの病室に近づいてくると、突如パタリと止んでしまう。


 身構えていた僕は音が突然途絶えたことを訝しんだが、すぐに神経を集中して、周りの音に耳を澄ませてみる。すると、微かにベッドの左下の方から服が地面に擦れる音が聞こえた。


「そこにいるのは分かっているんだぞ。サキちゃん」


 僕は自分の使っているベッドの窓側のほうに首を向けて言う。

 しばらく返ってくる言葉はなく、開けた窓から春の暖かさを感じさせる風が吹いていたが、それに混じって大きな絹すれ音がし、隣に人の気配がぬっと現れる。


「ちぇー、リョウはすぐに分かっちゃうからつまんなーい」


 現れた侵入者は子供らしい明るく高い不満な声を上げた。この病室は個室なので、不満の矛先はもちろん僕しかいない。


「普通に入ってきてベッドの横に身を潜めて驚かせようなんて僕にしか通用しないよ。サキちゃん」


 僕は彼女――サキちゃんに諭すように言うと、片耳だけイヤホンを取り付けて首を再び正面のノートパソコンに戻すと、添えていた手を動かし始める。

 するとベッドがわずかに軋む音がした後、僕の広げた足の間のマットレスが沈んで僕の胸にぽすっと何かが乗っかってくる。


「またお話書いてるの?」


 僕の胸の上に頭を乗せたままサキちゃんが訊ねてきたので、頷きながらキーを叩く指先は止めずに答えた。


「まぁね。思いついた事はすぐに書かないと忘れちゃうから」

「よくそんなに早く打てるのねー」

「最初は全くダメだったけどね。音声解説に従ってもうまく打ち込めないし、他の人にどのキーを打てばこの文字になるとか教えてもらってやっても戸惑ったけど、今はこの通り、慣れちゃったからね。慣れればキーの場所が分かってくるんだよ。


 そう言って僕は、キーの場所を意識しながら叩き続ける。

 右の耳に着けたイヤホンからは、打ち込んだ文字を文章として機械が読み上げてくれている。


 正直、自分でもよくここまでやれているものだと思う。


 このパソコンで文字を打つ作業は、小説を書きたいと思った一年ほど前から続けているが、ここ最近やっと自分一人でやることに慣れてきた。


 半年前は文章を打って友人に見てもらったら、その半分ほどが打ち間違っていると言われて一日中しょんぼりしていたりもしていたが、僕にはそれを見ることが出来ないので、こうやって自分一人で打てるようになるまで時間を要した。

 人より時間がかかることは仕方がないと割り切っていた。


 なぜなら僕は、


 そんな眼の見えない僕が軽やかにキーを叩き続ける作業をサキちゃんは感嘆の声を漏らして見ていた。

 個人的にはタイピングなど見ていて面白いものなのだろうかと思うが、別に邪魔をしてくるわけではないのでパソコンに文字を打ち込み続ける。


 僕は眼が見えないこと以外には特に体に異常はない。

 聴覚も、味覚も、嗅覚も、触覚も、もちろん頭だって正常だ。


 そんな僕が、今こうして病院のベッドにいるのには当然のことながら理由ワケがある。


 この病院に入院したのは、大体数週間くらい前。

 そしてこの小さな来訪者こと、サキちゃんと出会ったのはそれから数日してからだ。


 最初のうちは病室の外から視線を感じるだけだったが、やがて無言で入ってくるようになり、本を読んでいようが小説を書いていようが寝ていようがちょっかいをかけてくるので侵入してくるなり即刻つまみ出していた。


 だが、あまりにもしつこく絡んでくるのでこちらが先に根負けしてしまい、それ以来、僕の出した「ちょっかいをかけない」という確約付きで、サキちゃんはこの部屋に遊びに来るようになったのである。


 僕自身も彼女が僕の病室に居付くこと自体にデメリットはなかったので、野良猫でも扱うかのように放っておいたのだが、明るいサキちゃんの性格のせいか、いつの間にか従妹のように喋りあう仲になっていた。


 今では正午から夕方にかけての決まった時間に訊ねてきたサキちゃんと喋ることが僕の一種の日課になりつつある。


 そうして過去に思いを耽っていると、服の袖をぐいぐいと引っ張る感覚に意識を引き戻される。

 パソコンの上を走っていた指はいつの間にか止まっていた。


「ねぇ、どうしてリョウはお話を書きたいと思うようになったの?」


 サキちゃんが僕の胸から頭を浮かせて問いかけてくる。


 彼女の頭は座った時に丁度僕の胸に来る。

 サキちゃんは僕を背もたれにするのが気に入っているのか、必ずと言っていいほど僕の前に座って頭を預けるのだ。


 僕はそんな場面を想像すると、なんだか縁側で孫を膝の上に座らせて猫のように愛でる老人の姿が瞼に浮かんでしまう。

 そんな脳内でイメージしていると、サキちゃんに「どうしたの?」と再び袖を引っ張られる。


 雑念を振り払うかのように僕は先程のサキちゃんの質問に意識を戻した。


「あぁ、ごめん。小説を書くようになった理由か……。実は昔、父さんの書斎に入ったことがあったんだ」

「リョウのお父さんのお部屋?」


 僕は頷き、幼い頃の記憶を頭から引っ張り出す。


「そう。僕の父さんの部屋にね。その時に本棚のある本を読んでね。それは難しいサイエンス・フィクションSF小説だったんだけどね。その本に書かれていたお話に感動したんだ。父さんが帰ってくるまでその本にのめり込むくらいにね。これが物語を書くようになった理由さ」


 僕の父は特に何の変哲もないサラリーマンで趣味で小説を集めていた。


 しかし小説集めは内容が面白いとか、個人的にこの作家の話が好きだからという普通の小説好きなどとは少し趣向が変わっており、本そのものはたいして読まないくせに新刊の本や古本屋から見つけてきた本などが父の部屋の本棚を埋め尽くしていた。


 昔、家族の誰かがなぜこんなに本を買うのかと聞いたことがあったが、その時の返答が「本を積み上げることが好き」という訳の分からない答えに家族全員で呆れかえったこともある。


 恐らく父としては、読むことよりも本を持つということに意義があったのだろう。


 そんな父の小説好きは形を変えたものの僕に受け継がれ、僕は無類の小説好きの夢想家となった。


 本を読み、その世界を頭の中で自分の思うままに動かす。


 そんな些細なことが好きだ。

 そしてそれを小説の形に昇華できるではないのかと気付いたのはごく最近のことである。


「あれ? でも、リョウは眼が見えないんじゃなかったの?」


 話を聞いていたサキちゃんからまっとうな質問が飛び出す。

 僕はサキちゃんのその問いに賞賛の意味を込めて指を鳴らした。


「鋭いね、サキちゃん。確かに今の僕は眼が見えないけど、昔は見えていたんだよ」

「じゃあ、どうして見えなくなったの?」

「まぁ、ちょっとした病気でね。治すのが遅くて見えなくなってしまったんだ。まぁ、自業自得なんだけどね」


 そう言って僕は自分の閉じた瞼に手を触れる。

 この眼を失ったのは中学に上がる直前の頃だ。


 ある日、いつもと同じように起きて鏡の前に立つと、視界にもやのようなものがかかっていることに気付く。

 その時は何なのか分からなかったが、子供の浅はかな経験でそのうち治るだろうと放っておいてしまった。


 しかし靄は日を重ねるごとに大きくなり、僕が事態の深刻さに悟った時にはもう遅く、医者からは失明を宣告されて僕の眼は光を失った。


 今更になって考えてみると、やはり自業自得の結果であることに僕は少し自虐的な笑みを浮かべるしかない。

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