4. 水色カーテンの部屋

 リビングと寝室のカーテン2枚ずつと、レースカーテン2枚ずつ、合計8枚のカーテンを抱えてわたしは宮前家に戻ってきた。


「全部洗濯可能でした!」

「うちもこれで全部よ」


 カーテン8枚にレースカーテンが7枚。一軒家の宮前家はさぞ多いだろうと思っていたけれど、意外と少ない枚数だった。宮前家は障子や磨りガラスも多く、窓の多さの割にはカーテンもレースカーテンも必要ないのだそう。


「わたし洗いますね」

「じゃあお願いしようかな。絞るときは呼んでね」


 浴槽に水を張って洗濯洗剤を溶かす。そこにドレープに沿ってそれぞれたたんだカーテンを静かに沈めていった。


「うー、つめたーい!」


 手で押し込んだけれど、浴槽に頭を突っ込む体勢はきつい上に底まで届かない。ひとりきりなのをいいことに、浴槽の縁に座って足でカーテンを踏みつける。これを想定してショートパンツに着替えてきたのだ。


「おおっ! かなり汚れてる!」


 きれいだった水はみるみる泥のような色に濁っていく。それだけ汚れが落ちたと思うと気分がよかった。

 一度水を抜いて軽く踏みつけて絞ってから、新しい水を注ぎ込んだ。パシャパシャ足で水をはじいて遊びながら、知らず朝ドラの主題歌を口ずさむ。自宅の暗いお風呂ではきっとただの作業になっていた。浴室の反響も手伝って気分よく歌い、リズムに合わせて足を動かす。ぱしゃんと強く打ち付けると、小さな滴が踊るように跳ねる。歌詞はうろ覚えなのでほとんど適当。


「♪こ~の~~♪道を~らんら~ん♪手~を繋いで~~~♪カ~テンを~♪あ・ら・う~~~♪」


 自分の世界に入り過ぎて、ガタッと音がするまで他人の存在をすっかり忘れていた。おばさんもさぞ呆れているだろうと、


「あはは! 見られちゃいましたね」


 と照れながら振り返ったら、そこにいたのは啓一郎さんだった。


「……………え?」


 不審者。完全に不審者を見る目だった。驚きと得体の知れないものに対する恐怖が啓一郎さんのわかりにくい表情からでも伝わってくる。もはや誤魔化しようがないので開き直った。


「あ、おかえりなさーい! 今朝は本当にすみませんでした。でも洗ったら真っ白になりましたから。もうピッカピカです! だから、どうか今朝の記憶も真っ白に消去してください」


 大仏を拝むのと同じ要領で手を合わせたのに、


「そんなことは構わないけど」


 ずっと気にしていたことを『そんなこと』呼ばわりされた。

 なんだ構わないのか。気にして損しちゃった。


「なに……してるの?」


 視線は踏みつけていたカーテンに向いている。


「えっと、カーテンをですね……洗ってます」


 質問に答えたのに啓一郎さんの怪訝な表情は変わらない。


「あと、歌も歌ってました」


 顔色を窺いながら付け足すけれど納得したようには見えない。浴槽に座ってました、も言った方がいいのかなと考えつつ、わたしはとりあえず水を止めた。水音がしなくなると突然静寂が訪れる。ほぼ無音の中でひたすらわたしたちは見つめ合うが、そこにはロマンチックの欠片もなく、まるで野生動物との間合いをはかる様子に似ていた。


「小花ちゃん、終わった? あら、啓一郎帰ってたの」


 助けられたようにわたしも啓一郎さんもホッとしておばさんを見る。


「今ちょうどすすぎが終わったところです」


 浴槽の縁から降りて詮を抜き、わたしは取り繕うような笑顔を浮かべた。


「じゃあ洗い場で軽く絞ってもらえる? それが終わったらこっちで私がタオルで拭くから」

「母さん」


 少し強めの口調で呼ばれ、おばさんは説明不足にようやく気づいたようだった。


「そうそう! 停電の間危ないから小花ちゃんには家にいてもらうことにしたの。オール電化でお湯も沸かせないらしいのよ」

「なんでカーテン?」

「小花ちゃんと暇だから洗おうかってことになってね。ちょうどよかった。啓一郎、これ絞ったらレールに戻してくれる?」


 ようやく納得したのか啓一郎さんはうなずいて、おばさんに場所を譲るようにお風呂場の入口から離れた。壁に寄りかかるようにして、そのままそこに立っている。わたしは排水された浴槽からカーテンを取り出して重ね、ぎゅっぎゅっと手で押した。


「いまいち絞りきれませんね」


 べしゃべしゃとしたカーテンは風が吹いても揺らがなそうなほどに重い。


「足で踏めば?」


 見てもいないと思っていた啓一郎さんからそんな提案がなされた。


「さすがに他人様のものを足蹴にするのは……」

「さっき踏んでたくせに?」

「おほほほ、何かの見間違いですわ」

「あれ、俺の部屋のカーテンだった」

「……目ざといですね」


 やりとりを黙って聞いていたおばさんがクスクス笑いながらとりなす。


「小花ちゃん、踏んでいいから絞ってしまいましょ」


 主婦の公認が得られたところで、わたしは思い切ってカーテンの山に乗った。さっき何度も絞ったはずなのに、じゃばじゃばと水が流れていく。


「おおっ! 減る気配のない体重がこんなところで役立つとは!」


 カーテンの山を少しずつ移動すると水がどんどん出て楽しくなってくる。ダンスの才能なんて皆無のわたしでも、つい身体が揺れる。


「み~ず~が出る出る~♪みず~が出る出る~♪」

「それ、何のCMだっけ?」


 おばさんに聞かれて、つい替え歌していたことに気づいた。


「スーパーたけかわで流れてるやつです。魚コーナーの」


『♪ぶ~り~の照り焼き~♪さば~の塩焼き♪』が本家だ。


「ああ! どうりでよく聞くやつだと思った」

「すみません、うるさくして。つい」

「いいの、いいの。人の歌声なんてずいぶん聞いてないし、楽しませてもらったから。続けて続けて」


 そう言われると逆に歌いにくくなり、わたしはしずしずとカーテンを絞った。それをおばさんが受け取ってバスタオルに包みさらに絞る。それでだいぶ水は抜けたようだった。


「これどこだっけ?」

「これは私とお父さんの寝室。レースカーテンはこっちね」

「そういえば、今下山さんに会って、『冷やせないから』ってメロンと飲み物もらった」

「あらあら。あとでお礼言いに行かなくちゃ」


 家族の会話とともに、啓一郎さんとおばさんがカーテンを吊るしに向かったので、わたしも自分の分のカーテンを抱えて自宅に戻った。


 カーテンを洗うこと自体は難しくないけれど、レールからの取り外しと取り付け、フックの取り外しと取り付けがかなり面倒で手間がかかる。濡れたカーテンで膝を湿らせながらフックと格闘し、イスにのぼって取り付けていると、玄関のドアがゴンゴンと叩かれた。いつもなら鳴るチャイムもお休み中だ。


「はいはーい」


 カーテンを中途半端にぶら下げたままにして、玄関ドアを開けると少し気まずそうに啓一郎さんが立っていた。


「あれ?」

「家の方は父が吊るしてるから、こっち手伝えって。母が」

「何のお構いもできませんが?」

「遊びに来たんじゃないから」


 それならお言葉に甘えようとあっさり部屋に上げたわたしに、むしろ啓一郎さんの方が戸惑っているようだった。用事を済ませて早く帰りたいという空気をぷんぷんさせながら、途中になっていたカーテンをどんどん掛けていく。わたしはその間に寝室のカーテンにフックを取り付けていた。


「いちいちイスにのぼって掛けて、降りて移動して……って面倒だったんです。助かります」

「こんなときカーテンなんて洗ってるの、うちだけじゃないかな」

「うーん? みなさん、何してるんでしょうね」


 電気が使えないだけでできることはかなり減る。多くの人が仕事も休みになっているはずで、交通網も麻痺しているからそうそう出掛けられない。窓から見えるたくさんの屋根の下にはたくさんの人がいるはずなのに、そこで何をしているのかまったく見当がつかなかった。


「おとなしく本でも読んでるのが普通じゃないかな?」

「啓一郎さんはテストの前の日にはちゃんと勉強してたタイプですよね?」

「タイプもなにも、テストの前の日はみんな勉強するでしょ」

「わたし、つい引き出しの整理とかしちゃうタイプなんですよね。隅に詰まって取れなくなった消しゴムのカスをコンパスでほじくり出したり。非常事態っていつもやらないことやりたくなりませんか?」

「ならない」

「……でしょうね」


 コンパスで消しゴムをほじくる啓一郎さんの姿は、わたしにも想像できないもの。


 大雑把なわたしとて、親しくもない男性に寝室を見せるのは多少の恥ずかしさがあったけれど、この際だからとお願いした。


「ここです」


 カーテンはベッドに上らないとかけられない。カバーを掛けてあるとは言え、さすがに啓一郎さんは躊躇った。


「お気になさらず。どうぞどうぞ」


 諦めたように啓一郎さんはベッドに上ってカーテンをかけ始めた。リビングのカーテンの半分の長さしかないこちらは軽く、さっきよりスイスイ掛けていく。


「そういえば、ベッドに男性をお誘いしたのって、初めての経験です」

「誤解を招く言い方やめて」

「この話、おばさんには……」

「絶対しないで」


 くだらない会話の間に作業は終わって、わたしはカーテンと一緒に窓も開け放つ。


「ここからお庭が一望できるんです」


 今朝片付けたせいか、庭はいつもと変わらない姿でそこにあった。もう三年見慣れた景色だったけれど、さっきまであの家の中にいて、今ここに啓一郎さんがいると思うと、特別な親しみが感じられる。ここから見えないテレビの位置も、テーブルの木目も、ありありと見えるようだ。


「なんか変な感じ」


 照れたように啓一郎さんは言った。こんなことでもなければ自宅を見下ろす機会なんてなかっただろう。

 少し強い風が入り込んで、濡れて重いカーテンを巻き上げた。わたしが使っているものとは違う洗濯洗剤がふわっと香る。宮前家でも順調に作業は進んでいるらしく、正面に見える窓には水色のカーテンがかけられていた。


「あれ? あそこ」


 さっき踏みつけていたカーテンを思い出し、わたしはその窓を指差した。


「俺の部屋」


 庭を挟んでいるから距離はあるものの、啓一郎さんの部屋とは向かい合う形だったらしい。


「ええーっ! 全然知らなかった! 啓一郎さんの変態! 絶対覗いてたでしょ?」

「それを言うならお互い様だ。変態」

「なるほど。じゃあ、まあいっか」

「あっさり諦めるなよ」

「覗いてた?」

「覗いてない! ……帰る」


 啓一郎さんはひとつため息をついて部屋を出て行く。そのまましばらく外を見ていると、その姿が家に入って行くところまで見えた。

 いつもと変わらない宮前家の姿。ベランダには真っ白になったワイシャツとグレーのパンツが揺れている。つい今朝まで想像もしたことなかった。わたしはこれからあの家に帰るのだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る