[3] ブダペスト包囲戦

 ブダペストはドナウ河の西岸に面したブダと、東岸のペストから成る人口120万の都市である。平坦な建物が連なり道路幅も広いペストに対し、ブダは旧市街特有の狭い道や古い城跡が連なっていた。

 ハンガリーの国家元首であるサーラシは今すぐにでも兵を引き上げて、ブダペストの無防備都市宣言をやりたいと願っていた。しかしヒトラーは首都の放棄を認めず、ブダペストは最後の煉瓦に至るまで断固死守すべきであると主張した。

 ソ連軍の包囲環が完成したとき、ブダペストの市街地にはドイツ軍約41000人、ハンガリー軍38000人、80万人以上の市民が閉じ込められていた。第9SS山岳軍団(プフェッファー=ヴィルデンブルフ大将)の2個SS騎兵師団(第8・第22義勇)と第13装甲師団、FHH装甲擲弾兵師団をはじめ、ハンガリー第1軍の第1戦車師団と2個歩兵師団(第10・第12)など、さまざまな兵科の戦闘団が市内で配置についていた。

 第2ウクライナ正面軍は市街地の制圧に約25万人の兵員を投入した。ブダに第46軍麾下の3個狙撃軍団(第10親衛・第23・第37)、ペストに第7親衛軍麾下の3個狙撃軍団(第18・第30・ルーマニア第7)および支援部隊が充てられた。

 第2ウクライナ正面軍の情報部はブダペストの市街地に18万ないし20万人のドイツ軍・ハンガリー軍が包囲されているという試算を示した。流血の多い市街戦を避けるため、正面軍司令部はスターリングラードにおける反攻の総仕上げとなった「鉄環」作戦と同様、まずドイツ側に降伏勧告を行うという方策を取った。

 12月29日、ソ連軍の協力者となっていたドイツ軍の捕虜が戦線を越えて、第9SS山岳軍団の面々と面会した。市内で包囲された守備隊は捕虜の説得に応じず、頑とした態度で降伏を拒否した。ところが、市街戦の戦端は独ソ両軍が予期せぬ形で開かれることになってしまった。面会後に戦線のソ連側に戻ろうとした捕虜を載せた車両が走行中に突然、爆発したのである。

 12月31日から1945年1月1日にかけての夜、ソ連軍の重砲がブダペスト市内のドイツ軍・ハンガリー軍の拠点に対して徹底的な砲撃を実施した。この砲撃は3日間に渡って続けられた。

 1月1日、第2ウクライナ正面軍は東岸のペストへ突入した。街の郊外で戦闘が始まるや否や、市民の間で混乱が広まった。市民たちはバスで脱出したいと第9SS山岳軍団司令部に懇願したが、この要求は却下された。

 数千人の市民が対岸のブダ地区へ逃げだそうとして、ドナウ河にかかるセーチェーニ鎖橋とエルジェーベト橋を渡った。その上空から、ソ連空軍の《シュトゥルモヴィク》対地攻撃機が機銃掃討を浴びせた。

「どの橋も絶えず大量の砲火にさらされていた」武装SSのある騎兵が記している。「だが人々は、それでも前へ前へと突進した。夥しい数の乗用車、トラック。防水シートで覆われた農家の荷車、怯える馬たち、一般の避難民、大声を上げて嘆き悲しむ女たち、泣く子を連れた母親たち。とてつもなく多くの負傷者たちがもつれ合うようにして、ブダ地区に向け、急ぎ足で進んでいた」

 ソ連軍が採用した攻撃手法はドイツ軍がスターリングラードで行ったものと基本的に同じ戦術だった。その内容は市街地をブロックごとに区分して小規模な部隊を編成し、砲兵の支援と近接戦闘で1ブロックずつ確実に潰していくというものであった。

 しかし当時のソ連軍はスターリングラード戦以来の古参兵の数が少なくなり、第9SS山岳軍団が組織的に防御拠点を構築していたため、ソ連軍は連日ごくわずかな距離しか前進できなかった。地上軍の支援に投入されたソ連空軍の対地攻撃機も、ドイツ軍がブダの小山に配置した高射砲によって次々と撃墜された。

 市街地の制圧に大軍を投入することを強いられ、第2ウクライナ正面軍はブダ西方40キロの地点に設置した外周包囲線を弱めることになってしまった。このことにより、南方軍集団に包囲された守備隊を救出するための出撃を許してしまうのである。

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