[4] バルト海への突進

 1944年晩夏から秋にかけて、北方軍集団でも白ロシアと同じような惨状が繰り広げられていた。「バグラチオン」作戦の延長として、7月5日に第1バルト正面軍(バグラミヤン上級大将)により「シャウリャイ=ムダヴァ」作戦が開始された。

 7月31日までに、第1バルト正面軍は第43軍、第51軍(クレイツェル中将)、第2親衛軍(チャンチバッジェ中将)が第3親衛機械化軍団(オブホフ中将)を先頭にして、リガ湾に通じるバルト海への狭い回廊を抉じ開けた。この進撃により、中央軍集団と北方軍集団の連絡は分断される結果になった。

 中央軍集団はいくつかの戦車旅団・自走砲旅団をかき集め、リガ近郊で反撃に転じることを計画した。この反撃は第3装甲軍が主体となり、「ドッペルコップ」作戦と名付けられた。北方軍集団との連絡を回復し、交通の要衝シャウリャイを奪回するという内容だった。

 8月16日、第3装甲軍麾下の2個装甲軍団(第40・第49)は兵力の低下した3個装甲師団(第5・第14・第17)に「大ドイツ」装甲擲弾兵師団を加えて、第2親衛軍を攻撃した。この反撃により、北方軍集団との間に約30キロの東西に延びる回廊を開通させた。

 だが、電撃戦の「魔力」はすでに失われていた。第1バルト正面軍司令官バグラミヤン上級大将はただちに第3装甲軍の進路に対して、第1戦車軍団と第3親衛戦車軍団、第5親衛戦車軍に反撃を命じた。この迅速な反撃とソ連空軍に制空権を奪われたことにより、8月20日までに第3装甲軍の反撃は食い止められてしまった。

 モスクワの「最高司令部」はバルト海に対する一連の攻勢として、「リガ」作戦を発動した。この作戦は第2バルト正面軍(エレメンコ上級大将)と第3バルト正面軍(マスレンニコフ大将)が主体となり、リガ湾沿岸部の掃討を目的としていた。

 9月17日、第2バルト正面軍と第3バルト正面軍はバルト海とリガに対する攻勢を開始した。第2打撃軍(フェデュニンスキー大将)はタルトゥーで第18軍(ベーゲ大将)の防御陣地を、第67軍(シモニャーク中将)と第1打撃軍(ザフヴァターエフ中将)がヴァルガに敷かれた防衛線を突破して、第16軍(ヒルペルト大将)を蹴散らした。

 さらに北翼からレニングラード正面軍がエストニアへの攻勢を開始したことにより、北方軍集団の防衛線は崩壊の瀬戸際に立たされた。北方軍集団司令官シェルナー上級大将は南翼に遺された中央軍集団との狭い回廊がソ連軍に対する抵抗拠点になりうることを認識していた。しかし南翼では第1バルト正面軍がシャウリャイで第3装甲軍の反撃をかわして、第4打撃軍と第43軍がバルドーネから北にリガの外周陣地に迫っていた。

 自軍が持ちこたえられない状態であることを認識したシェルナーは全軍に対して、エストニアからの総退却を命じた。北方軍集団の各部隊はソ連軍によってひどく圧迫されながらもリガの郊外まで撤退し、堅固な陣地―「ジグルダ」防衛線に立てこもった。

 9月末までに、レニングラード正面軍はタリン攻略作戦によりバルト海の島を除き、エストニア全土を奪回した。その間に第2バルト正面軍と第3バルト正面軍はリガの郊外まで迫り、第1バルト正面軍はリガ南方のエルガヴァとドベレを占領していた。

 モスクワの「最高司令部」は北方軍集団と中央軍集団の連絡路を切断し、この地域を巡る戦いに決着をつけようとした。そのため、第1バルト正面軍の攻撃軸をリガより南方へと変更することを決定した。

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