第5話 第一章 企業秘密の謎解きは開店後に④
夢を見た。幼い頃に亡くなった両親と喫茶店を経営していた祖父との幸せな日々を。いつまでも続く不変な時間と思っていた過去は遠く、あの頃よりも進んだ時間を生きる現実へと目覚めた黒羽は、一筋の涙が目じりから頬へ伝っているのを感じた。女々しいと吐き捨てるように舌打ちをして、上半身をベッドから起こすと、ここが宿屋であることを思い出す。
胸の中にわだかまる切なさを置き去りにするように、彼は勢いよくベッドから飛び降りると、カーテンを開く。
「良い天気だ」
澄み切った青空は、清々しく、幻想的だった夜とは違うフラデンの朝の姿が眼下に広がっている。花と木々が太陽の光の下、嬉しそうに風にそよぎ、都会では絶対に味わえない混じりけのない美味い空気が肺を満たす。
「黒羽さん。起きていますか?」
「ああ、起きているよ」
ギィと音を立てて、ドアが開くと、レアがペコリと頭を下げる。
「おはようございます。今日は確か組合の方に行くんでしたね」
「うん。ムーンドリップフラワーを絶対に手に入れたいからね」
「そうですか。あの、黒羽さん、良かったら私もご一緒してもよろしいですか?」
「え? でもそれじゃエメさんが大変なんじゃ」と心配する黒羽に、レアは首を振る。
「大丈夫です。今日はそれほどお客さんも多くなさそうですし、昨日のおじさんがお詫びとして手伝ってくれるそうですから」
昨日のといえば、あの旅人風の中年男性のことだろう。根は悪い男とは思わないが、好色そうである。レアと並んで立っていると、まるで姉妹のように見えるほど若々しいエメと二人きりにするのはどうなのだろうか。
そんな黒羽の様子を読み取ったのか、レアは心底おかしそうに笑う。
「大丈夫です。お母さんは、この町でも指折りの実力者ですから。たとえ襲われても魔法であっという間に倒しちゃいます」
母性溢れる娘想いのエメの姿とはかけ離れた実力者という言葉に、黒羽は目を見張る。部屋を出て、一階に向かいつつ、どういうことなのかをレアに問うと、小声で説明してくれた。
「黒羽さんは異世界の方だから知らないかもしれませんが、トゥルーで宿屋を経営するためには、『宿屋連盟』というところから許可をもらわないといけないんです。何でも昔は強盗や暴行などの被害者になる宿屋の経営者が多かったので、強力な魔法使いだけが宿屋を経営していいっていう仕組みを作ったんだとか」
なるほどといった様子で黒羽は頷く。
「まあ、この世界の住人は見方を変えれば、銃を持っているようなものだからな。そんな仕組みも必要か」
「ジュウ?」
「何でもない。そういうことなら、エメさん一人でも安心だろうね。じゃあ、お言葉に甘えて、手伝ってもらおうかな」
一階に下り、軽く朝食をとった黒羽は、レアの案内で組合の建物に向かう。宿の外に出ると、ねっとりとした暑さが身を纏い、汗がすぐに噴き出してきた。
「暑い。クーラーもないのに涼しかった室内が嘘みたいだ」
「ジュウの次はくーらーですか。何ですそれ?」
「クーラーって言うのは、電気で動く道具で、室内の温度を下げてくれるんだよ」
「魔法も使わずに? 凄いんですね異世界って」
凄いのは君達だ、という言葉は飲み込む。隣の芝生は青いとはよく言ったもので、こちらの常識はトゥルーでは驚くべきことであり、その逆もまた然りだ。
「私達の世界では、建物の材質に秘密があるんですよ。例えば、お母さんの宿だと湿気を吸い込むノモイの木を内壁に使ってますし、定期的に魔力をその木に巡らせることで、温度を下げる効果もあるんですよ。だからお母さん。お客さんが多い時は魔力不足になりそうだっていつも文句を言うんです」
いかにもエメが言いそうなことだったので、思わず吹き出してしまう。魔法は使えないが、同じ経営者としてその苦労は何となく分かる気がした。
緩やかに吹く風と朝のあまり鋭くないやさしげな陽の光が降り注ぐ中、二人は並んで歩く。レアは嬉しくて仕方がないという様子で、昨日の出来事を話し始めた。だいぶ美化された黒羽が助けに入るところから、アイスクリームの話まで進む。
「昨日のあいすくりーむっていう食べ物。すっごく美味しかったです」
「それは良かった。でも、あれはまだ試作段階なんだ」
「あれで?」と小首を傾げるレアに、グッと詰め寄り「ああ、ムーンドリップフラワーを使えばもっと美味しくなる」と無邪気に笑う黒羽。
唐突な動きに驚き、飛びのいたレアは、耳まで赤くなり、体は少しだけ震えていた。
「おっと。ごめん。近かったね」
「……スーハー。うん。黒羽さん。あの、その距離感はまだ私には早すぎます」
(またやっちまった。喫茶店の話になるといつもこうだ)と反省する。
しばらく無言の状態が続く。だが、沈黙に耐えられなくなったレアが努めて明るい声で、前方を指差す。
「黒羽さん。朝にここへ来たことないでしょう? ちょっと寄り道しません」
レアに言われ、自分がいつの間にか中央広場にいることに気付く。フラデンは真上から見ると、十字の形に大通りが走っている。ここは、文字通りその真ん中に位置しており、通行の妨げにならないように配慮しながらも、様々な出店が軒を連ねている。花の香りをはねのけるように、様々な香辛料が鼻を刺激する店があるかと思えば、フラデンらしい花のデザインをあしらった服が綺麗に陳列されている服屋もある。見ているだけで、心躍りそうな風景だが、
「何だ。あの人たち?」
物々しい装備を身にまとった集団が、ただならない空気を醸し出していた。
「彼らはフラデンの自警団です。実際は自警団というより、軍隊と言った方が正しいかもしれませんが」
「ああ、聞いたことがある。この町は元々商人の倉庫として利用されていた場所が発展してできた所で、荷物を守護する自警団がいるって」
頷いたレアは、首を傾げる。自警団がこれほど警戒するような事件が起きたという報告は、宿屋に届いていなかったからだ。
「実は自警団が基になってできたのが組合なんですよ。そして組合は建国からずっと自警団を鍛え続け、今では他国さえおいそれと手出しできないほど強力な軍隊を保有するまでに至った。そんな彼らをこれほど警戒させるなんて一体何が?」
黒羽は近寄って彼らに問いかけようとも考えたが、余計なことに首を突っ込むのはやめた方が良いと思い直した。それよりも、今はこの場を離れ、先を急ぐべきだろう。
「レア、行こうか」
折角のデート気分が台無しになったレアは残念そうだったが、頷くと北の大通りに向けて歩み始めた。
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