第3話
アーネストは毎晩館に訪れて、私と共に同じベッドで眠る。
「君と一緒にいるだけで、僕の心は安らぐよ」
そう言われても、私の心は動かない。曖昧に微笑んで応える。
自分でも、何故この生活を許容しているのか理解できない。アーネストは私が娼婦に堕ちる原因を作った憎むべき相手だ。それなのに、毎日抱かれている。
五歳の時に母が死に、十歳になる頃には男爵家の屋敷の中で働かされていた。父も継母も、継母の連れ子の小さな義妹も私に注意を向けることはなく、貴族の娘は使用人には受け入れてもらえない。
誰も私のことを見てはくれなかった。一生懸命学んで働けば、いつか父に認めてもらえるかもしれないと小さな希望を胸に生きてきた。
美しい金髪ときらびやかなドレスを翻し、父と笑い合う義妹の姿を見て、何も思わなかったと言えば嘘になる。誰からも愛される美しい義妹と同等に扱ってもらうには、私の努力が足りないのだと自分に言い聞かせてきた。
義妹が死に、父と継母が死に、私はその努力が無駄になったことを痛感した。私が父の遺体を前に、独りで悲嘆にくれていた三日間で、継母の親族は男爵家のすべての権利関係の書類を書き換えていた。
すぐに出て行けと言われたけれど、身を寄せるあてもない。せめて父の親戚に連絡を取りたいと手紙の返事を待っている間に、身に覚えのない借金を背負わされ、娼館に売られることが決まっていた。
私の意思と私の願いは、誰にも受け止められなかった。
母親譲りの私の瞳を綺麗だと言ってくれるのは、アーネストだけだ。私の毎日のささやかな努力を褒めてくれるのも。
アーネストの手は優しい。荒れた私の手を撫で、私の体を愛撫する。荒々しい様子は一切見せない。私の瞳の色が綺麗だと、何度も口づけながら優しく囁く。
アーネストと過ごすうち、私の心は少しずつ、動きそうになっていく。
もしかしたら、義妹を凌辱したのは他の二人なのかもしれない。私はそんな都合の良いことを考えては否定する。たとえ直接手を出していなかったとしても、あの場にいたことはわかっている。止めなかったのだから同罪だ。
アーネストの言動がどんなに嬉しくても、喜ぶことに罪悪感が付きまとうから喜べない。私はただ、曖昧に微笑むことしかできない。
ある日、アーネストが暗い表情で帰ってきた。
「お帰りなさい。どうなさったの?」
問いかければ、隣国王女との縁談話が持ち上がったとアーネストは答えた。王女は享楽的で短期間に二度結婚と離縁を繰り返しており、厄介払いとして押し付けられるかもしれないと溜息を吐く。
「結婚は貴族の義務だ。しかし傷物との結婚は耐えられない」
アーネストの言葉に私の心が動いた。自分は傷物と結婚したくないのに、女を傷物にして平気なのかと、私は初めて激昂した。
「……断ることはできないのですか?」
私の静かな問いに、アーネストは何故か目を輝かせて抱き着いてきた。
「そうか。フローラも嫌だと思ってくれるのか! よし。断る方法を考えよう」
アーネストは、私の言葉を嫉妬だと受け取ったらしい。私は否定も肯定もせずに、曖昧に微笑んだ。
優しいアーネストは夢や幻のようなものだ。本当のアーネストは、女を傷物にしても何とも思わない卑劣な男。私はずっと、その事実に目を逸らし続けていたのだと気が付いた。
私の静かな義憤が、義妹と父母の復讐という大義へと結晶化していくのに時間はかからなかった。
私はお目付け役の夫人に取り入る努力を始めた。頑固な老婦人に気に入られるのは簡単だった。言う事を素直に聞くふりをし、教えを乞い、その体調を過度なまでに気遣う。アーネストの土産に菓子があれば共にお茶を飲み、愚痴を聞くうちに老婦人は私の味方になった。
囲われる生活が半年を過ぎると、アーネストは私に子供を望むようになっていた。子供ができやすくなる食べ物や薬茶を取り寄せ、夜の行為が執拗になった。一方の私はずっと娼館で使っていた避妊薬を服用している。飲むと体調が悪くなるとわかっていても、アーネストの子供が欲しいとは思えなかった。
アーネストの子供を産み、家族で暮らす幸せを望める筈がない。アーネストは多くの女性たちを辱め、義妹と父母を自死に追い込んだ。アーネストが忘れていても、私自身が忘れる訳がない。多くの人々の不幸の上に築く幸せなんて、あってはならないはずだ。
ある日、私に荷物が届いた。小さな包みの中には小瓶が一つ。
「そのお荷物は?」
初めて私に届けられた物を探るように夫人が問う。
「一昨日、私が注文書を出していたでしょう?」
その注文書は、夫人が確認している筈だ。娼館で知り合った便利屋の女性に宛てて封書を出した。
「これは女に子供ができなくなる薬よ。……娼婦の血を公爵家の血に混ぜる訳にはいかないわ」
避妊薬は非正規品だ。表の医術師や薬師は扱っていない。
「……奥様、ご立派なお覚悟です」
何故か夫人が私を奥様と呼んだのはその時からだ。
私の行動はアーネストに逐一報告されていることはわかっていた。夫人の信頼を勝ち取ったことで、時折届く荷物と手紙を出していることについては報告されないようになり、中身の確認もされなくなった。……これで外部への連絡路が確保された。
私は、具体的な復讐の計画を練り始めた。
■
馬車から降りると館の灯りが温かい物に感じる。帰ってきたという安心感で、肩から力が抜ける。
公爵家の第一子として、王や王族に拝謁することも増えてきた。館の外では堅苦しい規則を守り、背筋を伸ばして常に緊張を強いられる。めんどうで逃げてきたことにも向き合う気力を与えてくれるのは彼女の存在だ。
相変わらず貴族たちからは避けられていても、僕から挨拶をすれば返してくれる者もいる。ここ最近は当たり障りのない会話なら応じてくれる者も出てきた。僕が変わることで、周囲の空気も良くなっていくという希望を感じている。
「ただいま」
「お帰りなさい」
彼女は僕を避けたりしない。出迎えの軽い口づけの後、しっかりと彼女の存在を確かめるように抱きしめる。
僕は隣国王女のことを調べた。その性格や好みを探ると、真面目で時間に厳しい者が異常なまでに嫌いだとわかった。僕はさらに生活を改め、金を使って王女の耳に僕が真面目になったという噂を届けた。
王女が三度目の結婚をし、僕との縁談が完全に消えた後、父の公爵に面会を申し込んだ。
「今、一緒に住んでいる女性と結婚したいと思っています」
反対されることを覚悟していたが、あっさりと認められ、彼女を高位の貴族の養女にする為の紹介もしてくれた。
「アーネスト、念の為確認するが……シェリー嬢は結婚を承諾しているのか?」
初めて聞く父のためらいの声に僕は驚いた。
「正式な求婚はこれからですが、すでに妻としての義務を果たしてくれています」
彼女が断るとは思えない。毎日、妻のように僕の世話をしてくれている。彼女の献身的な態度に、僕は正式に結婚して応えたい。
「そうか。ならば大事にしなさい」
父は安堵の息を吐き、僕は認められたことに喜びを感じていた。
僕は遠慮をする彼女に外出着や観劇用のドレスを買い与えて、公園の散歩や劇場に連れ歩く。本当の目的は、彼女を養女にしてくれる貴族への挨拶だ。
父に紹介された高齢の貴族夫妻は元・辺境伯で、今は爵位を息子に譲り、別の伯爵位を名乗って王都で生活している。
控えめな彼女の言動を確認した夫妻はとても気に入ったらしく、何度も会いたがった。彼女だけが食事や旅行にも誘われ続ける。そのうち彼女が取られてしまいそうで、僕は理由を付けて延期し続けた。
そのうち、美しい彼女のことを詮索する者が出始めた。皆が僕だけの可憐な花に手を伸ばしてくる。
僕は、早く彼女と結婚しようと心に決めた。
■
王城での夜会は、想像していたよりも華やかな世界だった。煌々と煌めくシャンデリアの下では、豪華なドレスの女性たちが光り輝いている。
今日の夜会は服装規定が設けられていない気軽なものということで、様々な色のロングコートやドレスを着た貴族たちが、気ままに楽しんでいた。
アーネストは落ち着いたダークグリーンのロングコートに、こげ茶色のベスト、黒いトラウザーズを着用している。すべて私がアーネストに似合う色を選んで注文した。
私のドレスは、シルクで作られた最新のデザイン。緑から青へと色がグラデーションになっている。私の瞳の色に合わせてアーネストが選んでくれた。
それぞれが違う店で注文したにも関わらず、二人で並ぶ姿は不思議な程、違和感がない。
上機嫌のアーネストが、緊張する私の背を優しく撫でる。何度か撫でられて肩の力が抜けた。
「今日は大広間で踊ることもできるよ」
この国では、舞踏会は昼間から夕方に行われ、夜会で踊ることは珍しい。踊ることは想定していなかったので、大広間へと連れられて狼狽する。
「……踊ったことがないのです」
子供の頃に習っただけで、覚えていない。
「大丈夫。女性が踊れないのは男の責任だ。僕のせいにしてくれ」
アーネストは笑いながら私の手を取った。
大広間では、楽団が演奏する音楽に合わせて、百名程が躍っていた。
「人が多いから、少しくらい失敗しても平気だ」
アーネストの
三曲を続けて踊った後、アーネストは私の手を引いて、人の少ない静かな場所へと移動した。
「上手く踊れるじゃないか」
アーネストの笑顔が、とても煌めいて素敵に見えるのは、きっとシャンデリアの光のせい。
「貴方の誘導が素晴らしいので、踊ることができました」
火照る頬を冷やす為に、手渡された冷たい発泡酒を飲み干すと、さらに顔が熱くなる。酔ってしまった恥ずかしさに俯くと、そっと指で顎を上げられた。
「僕に顔を見せて欲しいな。……綺麗だよ」
アーネストの笑顔と優しい声に心が震える。腰を支える腕は温かい。
光の洪水の中、そっと抱きしめられた。周囲には美しい音楽が流れている。
優しい温度を感じて、心臓が壊れそうな程早鐘を打つ。
この優しくて寂しがり屋のアーネストが、本当の姿なのかもしれない。アーネストの背を抱こうと手を伸ばす。
「……僕と結婚してくれないか。シェ……」
アーネストの言葉は、知らない男の声にかき消され、私の手はアーネストの背に届く前に下げられた。
「アーネスト! 最近、付き合いが悪いと思っていたが、お気に入りの女性ができたということか」
「オーエン、……今、わざと邪魔しただろ?」
溜息を吐いたアーネストの表情が別人のように変わった。口の端を上げただけの笑みは、他者を馬鹿にしたような表情だ。
私は先のダンスが夢であったことを痛い程に思い知らされる。……きっと、これが本当のアーネストだ。
親し気に話し掛けてきたのは、コンスタット・グラスプール、オーエン・テンバートン。他の公爵家の第一子だ。いずれも茶色の髪に緑の瞳で、血が近いのか雰囲気が良く似ている。
アーネストは私の腰を軽く抱き寄せながら、二人と砕けた物言いで話を始めた。
この三人は将来の公爵位を約束されている。親の地位と金を使い、多くの女性を凌辱してきた。私は怒りを抑え、静かに挨拶を交わす。
コンスタットとオーエンから品定めするような視線を感じて、気分が悪くなったと言って早々に館へと戻った。
三日後、アーネストが貴族の会合に出掛けたのを見計らったようにコンスタットとオーエンが館に先触れなく訪れた。夫人が応対に出て追い返してくれたけれど、そのうち力ずくて押し込まれるのは目に見えている。
その夜、アーネストに抱かれながら私は口を開いた。
「……私、ここから離れたいと思っております」
私の言葉にアーネストが驚いた。何故だと聞かれて、私は口を開く。
「……コンスタット様とオーエン様がいらっしゃいました。今日は夫人が追い返しました」
私がその先の言葉を告げなくても、アーネストには伝わったようだ。さっと顔色が悪くなった。二人の目的は間違いなく私だ。
「気まぐれだと思いますので、一月ほど姿を消せば、他に気が向くでしょう」
私の提案をアーネストは承諾した。
コンスタットとオーエンも、女性への凌辱を止めることはないのだろう。私には優しいアーネストも、いつ豹変してもおかしくない。
そして私は、復讐を実行することに決めた。
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