リサ ~パーフェクト・ワールド~
024 完全なる世界 ~プロローグ~
プロローグ
ジメジメとした薄暗い路地裏を、必死で駆けていく男が一人。
俺はその男を雑居ビルの屋上から眺めている。狩りの獲物は生きが良いほうが面白いと言ったのは誰だったか、少なくとも俺ではない。
男は追っ手を恐れているのか時折後ろを振り返る。そのたびに誰もついてきていないことを知り、安堵してまた走り出す。――上だよ、バカ。
俺は男が走るのに合わせて、雑居ビルから隣のビルに飛び移る。この区間には、数年前の再開発で立ち並んだビル群が夢の墓標のようにそびえていた。俺はその墓標を足蹴にしながら、地べたを走り回る男を見失わないように追った。
男が立ち止まったのは、路地の奥の袋小路だった。俺はビルの屋上から飛び降りると、足音を立てぬよう、ゆっくりと男に近づく。
街灯もないが、頭上に輝く月から降り注ぐ光のおかげで、わりかし周囲が明るく見えた。
男は焦るような手つきで、タバコを取り出し、火をつけようとしている。だが、緊張のせいか、それともたんにガスがないせいか、ライターは一向につかない。
俺は懐から安っぽいライターを取り出し、男の肩をたたく。
「どうぞ」
男はとっさに「お、すまん」と感謝の言葉を口にして、直後、俺の顔を見て驚愕した。
「た……退魔師」
言葉の終了をまたず、俺の左手がアッパーカット気味に男のあごを打ち上げる。
面白いほどに吹っ飛ぶ男を見て、俺は満足して笑った。
「クソタレ、腐った卵(イースターエッグ)。強盗、及び婦女暴行の容疑で逮捕する。俺は警察じゃないが、まあこの町では同じようなものだ」
男はよろよろと立ち上がると、獣のように獰猛な目で俺を睨みつけた。
俺は腰に差した日本刀の柄に手をやる。もしも抵抗するようならば、このまま切り捨てるつもりだ。
ゲッ、ゲッゲと、男はまるで嗚咽のような笑い声を上げた。
「化物が……」
男は捨て台詞のように俺に吐き捨てる。同時に常人であれば目を疑うような光景が、目の前に広がった。男の体が、みるみるうちに肥大していき、そしてその皮膚から体毛があふれるように生えてきたのだ。
今夜は満月だった。
失策である。
男の体は先程までの人間であった状態から、あきらかに獣のそれに変わっている。だが、二足歩行するその姿は半人半獣。つまるところ、狼人間だ。
男の足がまるでバネ仕掛けの人形のように折り曲がる。そして、弾き飛ばされたように今や狼人間となった男は俺のはるか頭上を越えて飛び去った。
と、しかしこれは想定の範囲内だ。
俺は狼人間が向かった方へと走り出す。100メートルは十一秒フラットの健脚だ。相手が人外の脚力を持っていたとしてもそう引き離されることはない。とくにこの路地裏は入り組んでおり、土地勘のないものならば走り回るのは難しい。
狼人間は俺が予想したとおり、大通りへと出ていこうとしていた。
だが、その行く手を阻むかのように、路地の真ん中に不思議な女が立っていた。
黒いドレス調の服に、白いエプロンをつけた女だ。その裾にはフリルがふんだんについており、頭には華のようなヘッドドレスをつけている。メイド服というにはサブカル色がふんだんに盛り込まれ、どこかのメイド喫茶から抜け出してきたような格好だった。
「リサ、そいつを止めろ!」
俺はそのメイド服を着たの女――女性というにはうら若く、少女というには大人びている――に叫ぶ。
リサは両手を前に出すと、弓矢を引き絞るように右手だけを引いた。
狼人間は一瞬スピードを落とすが、後ろから追い立てる俺の事を思ったのだろう、ぐんぐんと一直線にリサの方へと向かっていく。もとはちっぽけな小悪党だが、その悪魔的力を手に入れてからは何人もの女性に乱暴を働いていた男だ。女とみるや、御しやすいと感じたのだろう。
だが、それは甘い考えだった。
リサと狼人間が一瞬もみ合うと、狼人間の方が空中へ投げ出された。綺麗に弧を描き、自分から飛んだのではないかと思うほどの吹っ飛び方だった。
一方、リサの方は最初にいた位置からまったく動かず、余裕の表情で服についた汚れを払っている。
「お見事」
俺が言うと、リサは当然でしょうとでも言うように鼻をならした。
高慢な性格であったが、その高い鼻と細く長い目は見るものに涼し気な美しさを感じさせた。そのため、あまり笑わない彼女の無表情は、孤高かつミステリアスなものとして彼女の美しさを際立たせていた。
「ご主人様が最初で決めてくれていれば、わたしの出番も無かったんですけどね」
「まあ、そうだな」
疲れた、とでも言うようにリサは自分の肩を揉む。そうすると、大きな胸が強調された。腰回りは不思議なくらい引き締まっているのに、胸だけはびっくりするくらい豊満だ。なんだか見ているだけで、自分は卑猥なものを眺めていると錯覚させるほどの艶めかしさがリサにはある。
狼人間は動かない。リサは服のポケットから携帯を取り出すと、俺たちの雇い主に電話をかける。
「はい、終わりました。怪我? ありませんよ、当然じゃないですか。ああ、相手にですか。たぶん大丈夫なんじゃないですかね、相手も化物ですし」
電話をしながらリサが狼人間に背を向けた。電話をする時、そこら変を歩き回るのは彼女の癖だ。
俺は狼人間を眺めている。一向に動く気配はない。だが、なにかが俺の頭の中で引っかかっていた。そのなにかの正体に気がつかず、俺は狼人間から目を話すことができない。
「ッ!」
その正体に気がついた刹那――狼人間が飛び上がるように立ち上がった。
その手を大きく振り上げ、リサに向かって鋭い爪を振り下ろそうとする。電話に気を取られていたリサは完全に無防備だった。
電話を落とし、目を閉じるリサ。だが、狼人間の手は、一生振り下ろされることはなかった。
紫電一閃、俺は気がついたそのコンマ一秒にも、刀を抜き放ち狼人間の手を根本から切り裂いていた。
狼人間は自分の手がなくなった事に気がついていないのか、何がおこったのか分からないようだ。だが、片腕がないことでバランスがとれず、勝手にその場に崩れ落ちた。
そして、俺が切り飛ばした醜い腕が落ちてきた。その瞬間、狼人間も状況を理解したのだろう。壮絶な叫び声を上げて、その場をのたうち回る。その内にその体が人間へと戻っていく。
違和感の正体はそれだった。この男は自分の意志で狼人間へと変身していたようなのに、動かなくなってもその変身は解けなかったのだ。つまりは意識があり、チャンスを狙っていたということだ。
俺の考えは見事的中し、リサは間一髪助かったというわけだ。
うるさい男の首を、リサが絞めた。冷静に「一……二……三……四――」と時間を数えていき、抵抗する男を気絶させる。リサは無表情のままその行為をやってのけた。
俺は地面に落ちた携帯電話を拾い上げる。
「町長。今度こそ終わったぞ。対象は右腕を切断。俺たちに怪我はなし。さっさと回収に来てくれ」
電話の向こうから「やりすぎだ」とか叫ぶ声が聞こえてきたが、俺は無視して通話終了のボタンを押す。
周囲には血が飛び散っていた。これを片付けるのは俺たちの仕事ではない。
だが、服についた血は別だ。リサはメイド服のフリルについた血を忌々しそうに一つずつ点検している。
「はやく帰って洗濯しないとな」
俺を見て、リサは頷いた。
「ご主人様……ありがとうございます」
「どーいたしまして、ったくよ、思ってもないこと言うなよ」
「いえ、本当に思っています」
「そうかい、じゃあ今夜は美味いものでも食わしてくれ」
俺の言う美味いものとは、つまり甘いものだ。リサもそれを理解している。
「わかりました、じゃあ夜ご飯はホットケーキにしましょう」
「ああ、それが良い」
まったく、俺はともかくこの女も狂っている。そう思った。
辺りは血だらけで、つい先程まで死ぬかもしれないというところだったのに、今は脳天気に夜ごはんの話なんかしている。料理も上手いし戦闘もこなせるが、頭の中はちょっと不思議なメイドだった。
警察の特殊車両が来る。
引き継ぎの説明はリサがするので、俺はさっさと歩き出した。
やり過ぎ、と俺に言ってきた町長の事を思い出す。まったく、それなら自分でやってみればいい。本当に面倒な仕事だった。さっさと辞めてしまいたい。だが、それができないから俺は今こうして退魔師として夜の町を歩いているのだ。
本当に、退魔師ってのは楽な仕事じゃない。
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