Sheh.11 腹痛
「どうにも腹が痛い……」
仕事終わり、同僚が腹をさすって小さくうめいた。
「大丈夫か?」
酒のグラスを片手に案ずるが、苦笑いして杯を合わされる。
「アルコール消毒すれば良くなるだろう」
「胃の代わりに肝臓が悪くなるぞ」
肩をすくめるが、一口飲んですぐ辛そうに顔を歪める。
「おいおい、無理はするなよ」
驚いてそう言うと、同僚は軽く笑った。
「いや、そんな激痛ってわけじゃないんだ。ただ、定期的に小波が来てな」
「地味に辛いやつだな」
「本当に。ずっと解放されない」
気を紛らわすようにピスタチオを手に取り弄ぶ。
「いつからだ?」
「先週末から」
「意外と長いな」
「ああ、だから食中毒ではないと思うんだが」
あの時は酷かった、と声を漏らす。
「あの時?」
「一度食中毒みたいになったんだよ。もしかしたら、食あたりかもしれんが――まあ、違いはよく分からんな。とにかく冷蔵庫に一週間保存しておいた鍋は、たとえ真冬であっても食べてはならん。これは教訓だ」
「そりゃそうだろう……たとえ肉が入ってなくても、やめるべきだ」
「まあ、入ってたんだが」
唖然とする。
「入ってたのか」
「ああ。しかも、豚肉が」
「……よほど飢えてたんだな」
「いや普通に食べた」
……そうか、と一言呟いた。
「ともかく、食中毒のときは翌日激痛にのた打ち回るが、二日以上持ち越すことはたぶんない。そもそも激痛ではないしな」
「じゃあ、何だろうな?」
杯をあおいで考えてみる。そして、ふと半年ほど前の記憶が蘇った。
「そう言えば、春頃に一日会社休んでたよな? あの時、腹痛じゃなかったか?」
途端、同僚の顔が苦しげに歪む。
「あれは……思い出したくない」
「そんなにか」
「会社休んだくらいだぞ。ほんとに地獄だった」
「あの時は――何が原因だったんだ?」
躊躇いがちにきいてみると、案外のりのりで話し出す。
「一番初めは風邪だった。それも、かなり性質の悪いやつで、高熱と腹痛に一週間体を狂わされた。体力を消耗しているのに、食ったものは全部下しちまうんだ。おかげでますます弱って……しょうがなく熱は薬で封じ込めることにしたんだ」
「病院で処方してもらったのか」
「いや会社の昼休みに、体引きずってドラッグストア行ったんだよ。そんな病院行ってる暇なんかないだろ。なんだっけ、ほら、よく宣伝やってる、仕事休めない畜生のあなたに的なのを買って飲んだんだよ」
「だいたい分かったが、そんな宣伝文句ではなかったと思う」
「要はそういうことだろ。だが、悲劇はこっからだった。やけに高いくせに、全然効かないどころか、副作用が大きかった」
「副作用?」
「そう。激しい腹痛だ」
まさに泣きっ面に蜂だな、と同情する。
「あまりの激痛に夜も眠れない。お腹を中からノックされて、手洗いによろよろ起きると、液体しかでない。そもそも物ほとんど食べてないのに、腹痛だけはいっぱしだ。もう本当に辛かった」
「結局、どうしたんだ?」
「ラッパのマーク」
「ああ、あの臭いやつ」
「そう言うな。宣伝費ばかりの流行の薬より、ああいう伝統的なものの方が信頼性は高い。実際、あれ飲んだら、二十四時間以内に回復したよ」
さすがだな、と笑い合う。が、思い出したように、腹を押さえた。
「……で、今回は?」
「食あたりでも病気でもない。いや、病気ではあるのか……?」
「激辛のラーメンは?」
「前にやって懲りた」
「経験済みだったか……」
同じミスはしないさ、と腹に手を当てながら、笑顔を作る。それから、神妙な面持ちになった。
「まあ、心当たりは一つある」
グラスを置いて、続きの言葉を待つ。
額を汗で濡らしながら、辛そうに息を漏らした。
「先週末と言えば、人事異動の発表があったな」
「……降格でもしたか?」
「そんなんじゃない。それに、それなら落ち込むことはないだろう。伸び代があるってだけだからな。違うさ。あれだ――」
大きく嘆息する。
「新しい上司の評判が――な」
異動が行われた後、来る日も来る日も胃痛に悩まされた彼は、ついにラッパのマークの強烈な香りを常に身にまとうようになった。結果、その上司から文字通り煙たがられ、程なくして部署より無事脱出を果たしたのだった。
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