扶桑の外 2


「申し訳ございません。ただいま宇合殿は外出しておりまして······」

 頭を下げる藤原式家の使用人を見つめ、青年は「そう」と呟いた。のどかな秋の昼下がり。やけに静かだと思ったら屋敷の主人は出かけているらしい。

「なら、また改めて来ようかな。何も言わずに突然訪ねてきたのは俺の方だからね」

 爽やかな笑顔で言ってやれば、使用人は安堵したように腰を低くした。全く、本当によく出来た使用人だ。青年は帰ろうとしたが、横から引き止められる。

「おお、仲麻呂さま」

 そちらに目を向けると、この屋敷の嫡男である広嗣ひろつぐがにかりと笑っていた。

「親父なら出かけてますよ?」

「今聞きました」

 厚かましい従兄弟に呆れた目を向けると、仲麻呂······藤原仲麻呂ふじわらのなかまろは小さくため息をついた。


 この屋敷の主・藤原宇合の兄に藤原武智麻呂ふじわらのむちまろという人物がいる。その次男坊が仲麻呂であった。有名どころで言えば、あの藤原鎌足ふじわらのかまたりの曾孫にあたる。

 父である武智麻呂や叔父の宇合も、「藤原四子」や「藤原四兄弟」といえば聞き覚えがあるのではないだろうか。兄弟で協力的に政治をし、後に長屋王ながやおうを自害に追い込んだあの四兄弟である。


 そんな家に生まれたからか、仲麻呂にとっても叔父たちの家は足を運びやすかった。特に三男の宇合の話は格別である。この叔父は先の遣唐副使なのだ。仲麻呂は唐にあこがれていた。自分もいつか唐に行ってみたいとさえ思っていた。彼にとっての唐とは、まだ見ぬ夢の大地だった。

 しかし、それもきっと叶わない。藤原家の嫡男・武智麻呂。そんな父のもとに生まれた仲麻呂は、わざわざ命をかけてまで唐に行かずとも、生まれながらにして出世の見込みがあった。遣唐大使などになる可能性は無いとは言えないが、留学生として長い間唐に留まるなど無理な話だ。唐への留学は主に中流階級の青年たちが出世のために行うもの。そんなことが貴族の中の貴族である藤原氏の彼に許される可能性はほぼなかった。


 だからせめて話だけでも、と思って宇合のもとをちょくちょく訪ねていた。まあ、今回出迎えてくれたのは広嗣だったのだが······。

「なんだ、もう帰るんですか?」

 つまらなそうに口を尖らせる広嗣に、仲麻呂は「ええ」と言って背を向ける。そして未だに頭を下げていた使用人に向かって笑顔を浮かべると、門を開けておくよう指示をした。駆けてゆく使用人に続こうと足を出した仲麻呂であったが、ふと広嗣の方へと振り返る。

「一つだけ聞いても?」

 仲麻呂の方から声をかけてくるなど珍しい。広嗣は首を傾げつつ頷いた。

「この間 大伴古麻呂おおとものこまろと何か口喧嘩したらしいですね。あれほんとです?」

「は?」

 突然すぎる問いに広嗣は口を開けた。この従兄弟はたまに何を考えているのか分からない時がある。広嗣は少々面食らったが、元より素直な男だった。ニカッと笑うとこぶしを掲げた。

「もちろん! 古麻呂が食ってかかってきたので」

「······」

 意気揚々と答えた広嗣に、仲麻呂は口をつぐむ。表情のない目で彼を見つめていたが、すぐさま口を緩めて笑みを浮かべた。

「そう。貴方らしくていいですね」

「でしょ?」

 すっかりいい気になった広嗣と別れると、仲麻呂は藤原宇合の屋敷を去った。

(広嗣はつぶれやすいな······)

 大路を進む仲麻呂に先ほどまでの笑顔などない。そこにあるのは未来を見据えるように聡い瞳だけだった。


 藤原に反抗する勢力は必ず現れる。しかし、皇族でもなければ地位と財力で上に行くのは難しいだろう。ならば警戒すべきは······。

 仲麻呂は静かに暮れてゆく空を見上げた。


 


 黙って見つめた西の空は、どこか名残惜しそうに一日の終わりを告げていた。あの陽が沈む方向には憧れてやまない知恵と技術の宝庫がある。

 仲麻呂は大地に心を寄せながら、の国に旅立った懐かしい影を思い出した。自分よりも賢くて、自分と同じ名を持つ一人の青年。

「帰って来いよ、仲麻呂。あの日、ちゃんと約束したんだから」

 阿倍仲麻呂あべのなかまろ。それは藤原仲麻呂にとって算術の師であり、ともに学んだ学友。彼との出会いは半ば偶然であったが、同じ名を持っていたこともありすぐに打ち解けた。

 出会ったのは、藤原仲麻呂が六歳、阿倍仲麻呂が十一歳の時であった。父である武智麻呂が、当時平城京の造営長官をしていた阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろに算術の師を頼んだのである。その時、助っ人として連れてこられたのが宿奈麻呂の甥である阿倍仲麻呂であった。当時から学問に長けていた阿倍仲麻呂も唐に憧れをもっていた。だから唐の街を想像してはよく二人で語り合った。そのことが藤原仲麻呂にとっては嬉しかった。幼いながらに楽しかった。だからあの日約束したのだ。阿倍仲麻呂が留学生として唐にわたることが決まったあの日に、こう約束した。

 ──お前が帰ってきたら、唐のことをたくさん教えてくれ。その知恵を使って一緒にまつりごとをしよう。俺らで新しい日本を作るんだ。だから、だから······。

「絶対帰って来てよ」

 その呟きは誰の耳にも入らない。ただただ大路の雑踏にのまれて夕闇に溶けた。

 来年には彼らが帰ってくる。それは仲麻呂にとって嬉しいことでもあり、どこか不安の種を育てるものでもあった。


 あの阿倍仲麻呂が帰ってくるのは待ち遠しいことだ。しかし、先の遣唐留学生は何も彼だけではない。今の藤原仲麻呂が恐れる知恵と技術の伝達者が大勢いる。留学生となる彼らはおもに中流階級の若者たちだ。阿倍仲麻呂のように名の通った貴族の一員ならばそれでいい。彼らのことは、藤原の情報網さえあれば把握しやすい。

 しかし一番怖いのは地方豪族出身の連中だ。彼らは都の出ではない。つまり貴族たちと比べると、藤原家との密接な関係がないのだ。その分得体が知れないように見えて眉をよせざるを得ない。

 藤原として生まれた以上、藤原を守らなければならない。その時思い浮かぶのは、のちに聖武天皇と呼ばれる現天皇と、皇后・光明子だ。彼女は父・武智麻呂の妹。つまり仲麻呂からみて叔母にあたるため、仲麻呂はいつも可愛がられていた。

 広嗣たちに任せきりではいけない。力任せでは必ず綻びが出る。藤原を守るために必要なのは、確かなる腕と冷静な判断、そして後ろ盾を得る人脈なのだ。仲麻呂は切れ長の目を細めて見せた。

 位高い血と冴えた頭脳。用意周到に磨かれる鋭い剣は、まさに日本の若き李林甫りりんぽと言うべきものであった。

 この若き頭脳が、のちに吉備真備きびのまきびと改名した真備の記憶に深く刻まれることになるのだが、それはまだもう少し先の話。今の真備はやっとのことで唐の虎に勝ったばかりなのだ。日本でも同じような攻防戦が待っているとは想像していないのだろう。もちろん、藤原仲麻呂とて、今は真備のことなど知る由もない。


 だから今は、話の舞台を唐の高楼に戻すこととする。


 平群広成へぐりのひろなりと阿倍仲麻呂。

 そして吉備真備と藤原仲麻呂。

 彼らのまだ見ぬ物語は、またいつか······別の機会に語るとしよう。








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