野馬台詩 4
真備が宮殿の一室に辿り着くと、色とりどりの服を着た官司たちの視線が一斉にこちらへ降り注いだ。そこは天井も奥行も広く、鮮やかな装飾がふんだんに施されている大広間であった。そして何より、文官、武官、宦官、あらゆる官位官種の役人達が部屋を取り囲むようにずらりと並んでいる。てっきりあの儒学者達しかいないのだと思っていた真備は、そのあまりの視線に気圧されてしまった。
完璧にこちらを見下しているような目から、純粋に好奇心を抱いているような目まで、様々な瞳が真備を見つめている。きっと彼らは真備の一件を聞いて高みの見物に訪れたのだろう。それはまるで、ちょっとしたイベントを楽しむかのような目であった。
しかし二つだけ、それらとは毛色の違う視線があった。一つはあの儒学者達が向けてくるドロドロとした視線。そしてもう一つは······。
真備はそこでその視線を辿った。それは真備から見て大広間の正面、皇帝のおわす方向であった。仲麻呂の話を聞く限り、今の彼の目には真備が国の敵として映っているはず。そのため、他の野次馬達とは違って国の存亡に関わるという点で、とても真剣な目をしていた······というわけでもなかった。
確かに彼は真備が大逆人であるという噂を聞いているはずだ。それならば真剣な目をしていてもおかしくはない。しかし何故なのか、今の真備には彼の真剣さがあまり伝わってこなかった。かと言って周りの野次馬達と同じ色の視線という訳でもない。そんな不思議な視線に感じるのは、彼までの距離があまりにも遠いからであろうか。
その事を奇妙に思っている間にも、真備そっちのけで着々と準備が進められていたらしい。気がつけば、真備の前には台に置かれた一枚の紙があった。しかし、それはまだ裏返っていて、その文字をはっきりと読むことはできない。
その時、真備から見て正面の方に、誰かが進み出る気配を感じた。それに気づいて顔を上げてみれば、そこには見知った顔が一つ。
それは、前の囲碁の対局の際に主導的な立場をとっていたあの役人であった。彼は真備を一瞥しながら足を進めると、皇帝陛下の横でその足を止める。その位置に立てるということは、彼は真備が予想していたよりもだいぶ地位が高い人物であるようだった。
それに気がついて、真備は今更ながらに大変なことになったと顔を顰める。失敗すれば、皇帝陛下及び唐の高級官僚の笑い者になるということを改めて実感したからだ。
しかし、それと同時に真備は今までにないほど闘志を燃やしていた。人が多い分尻込みしてしまっていたが、逆に人が多いということは、ここで成績を上げれば
そのように、普段冷静な真備が熱くなってきたところで開始の声がかかった。
「
どこかからかいを含んだその声に、真備は心の奥でフツフツと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
何が失態を晒さぬように、だ。
それを望んでいるくせにしゃあしゃあと。
真備はそんな憤りを心に秘め、表面上はわざと冷たい声で「はい」と応える。
もう彼に怯えなどなかった。不安もなかった。今なら自分の力を信じ、勝つことが出来る。そんな自信さえあったのだ。きっと今の真備の心情が、形をもって皆の目に見えたのであれば、誰もがその闘志に尻込みしただろう。誰もが彼の勝ちを確信しただろう。真備はそれほどまでの熱意を持って、例の紙をペラリとめくったのであった。
しかし、その消えそうにもなかった彼の闘志も、呆気なく消滅することになる。
件の紙をめくりそこに書かれた文章に軽く目を通した瞬間、彼は目を見開いて動きを止め、思わず冷や汗まで流した。もはや彼は儒学者達が口角を上げたことにさえ気づいていない。
その衝撃は燃え盛る闘志に水をかけられたという甘いものではなかった。むしろその闘志ごと氷で凍結させられた気分だ。
しかし、あれほどまでに燃えていた彼が何故一瞬で気力を失ったのか。それはその紙に書かれていた文章が、あまりにも奇妙であったからだ。
「始定壊天本宗初功元建 終臣君周枝祖興治法主······」
おかしい、おかしいおかしいおかしい。
真備は何度も何度もその文を読んだ。しかし、いくら読んでもその内容は頭に入ってこない。
それもそのはず。この文章は、到底文章といえるものでさえなかったのだから。
もちろん真備も遣唐使、唐の専門的な文章をも読めるくらいには唐語を心得ている。しかし今回提示された其の文章は、真備が今まで学んできたどの文法にも当てはまらない。いや、もはや文法云々どころの話ではない。主語、述語、修飾語、あらゆる語の語順があべこべになっていたのだ。
まずいことになった。
真備は思わず眉を寄せる。最初の一、二句だけで既に解読不能なのに、全二十二句あるこの文章に自力で挑むなど無理だ。
そんな不安と恐怖に駆られて、真備は咄嗟に仲麻呂の名を呼ぼうとした。彼ならどうにかしてくれるのではないか、そんな甘えにすがったのだ。
しかし······。
-そうだ! 彼は!
真備はそこでやっと思い出した。
今まで闘志に燃えていたせいで忘れていたが、今日彼はここに居ない。もはや自分の傍に来ることさえ出来ない。結界が張られている今、鬼である彼はここに来れるはずもないじゃないか。
真備はそれに気がついて青ざめた。そして、それと同時にひどい孤独感に襲われた。
こんなに多くの観客がいるのに、自分は一人だ。味方などここにはいない。いつも自分に手を差し伸べてくれたあの友はいないのだ。
今まで当たり前のように思っていた友の存在を、真備は今更ながらに感謝した。彼は、真備が闇の中にいる時、いつも道しるべになってくれる月であったのだ。闇夜を照らす優しい月であったのだ。
しかし、今日彼はいない。厚い雲に遮られてここには来ることが出来ない。
それに気づいた瞬間、真備は自分が酷く孤独であるように感じた。しかし、それはどうにもならないまま、先行きの見えない不安の中、真備は孤独の闇に一人放り出されたのであった。
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