第三章「野馬台詩」
野馬台詩 1
「相変わらず凄い心意気だねぇ君。まさに
王維は酒を注ぎ終わると、徐ろに盃を持って隣の仲麻呂を見つめる。
「どう? もうすっかり慣れたんじゃないこのお酒」
目を糸のように細めて微笑む王維に対し、仲麻呂は苦笑すると「ええ、おかげさまで」と頷いた。
実はあれからというもの、彼は自分を苦しめる原因となったあの白酒を避けるどころか、むしろ決まってそれをねだるようになった。「あの時の甘い自分を諌めたい、もうあの失敗を忘れたくはないから」と自ら望んでそうしたのだ。まさに
彼は今日も王維のもとを訪ねていた。いや、王維に呼ばれたと言った方が正しいか。何やら話したいことがあると言うので、仲麻呂は王維の自宅に赴いたのだった。
「もう真備さんの所にはあんまり行ってないみたいだね」
仲麻呂は「ええ」と頷く。
「食事を運ぶ時以外は全く」
「まぁ月がこんなに細くなっちゃったからねぇ。それが正しいと思うよ」
空になった盃に再び酒を注ぐ王維に対し、仲麻呂は少々不安そうな顔をする。
「王維さんはいいんですか? こんな時期に私をここに招いてしまって」
「あはは、大丈夫さ。もしもの時は友達だなんて気にせず全速力で逃げ出すからね。その方がいいでしょ? 君も」
その言葉に苦笑すると、仲麻呂は「もちろんそうしてください」と言葉を返す。それを聞いた王維もつられたように微笑んだ。
「でも真備さんは不思議がってるだろうね、急に君の足が遠のいたから」
「恐らく······でも彼ならきっと何も言わないでしょうね。私が口を開くまでは」
仲麻呂はふっと空を見上げる。しばらく無言で月を眺めたあと、どこか懐かしそうに小さな微笑みを零した。
「ねぇ王維さん。実は私、昔日本で真備さんに会ったことがある気がするんですよ」
「え、そうなの?」
「ええ、ついこの間思い出したんです」
そこで仲麻呂はそっと目を閉じた。
「まだ幼い頃に
そう言って形の良い眉を顰めた仲麻呂の横顔を見つめると、王維はふふっと笑みをこぼした。
「そうなんじゃない? 君がそう思うのなら。君の記憶力は人一倍だもの」
「ふふ、そうでしょうか。でも、
仲麻呂は盃に口をつける。その清らかな香りを飲み込むと、どこか温かい瞳で笑みを漏らした。
「真備さんはとても真面目なお方です。人一倍の頑張り屋で強い心を持っている。コツコツと努力を重ねて、自分の欲は後回し。そうやってここまで上り詰めてきた方なのだと思います。でも、彼はただ真面目なだけではないのです」
王維は仲麻呂を一瞥した。彼は相変わらず優しい表情で窓の外を見上げている。しかし、その笑みには先程まではなかった寂しげな色が混じっていた。
「真備さんは真面目でいながら頭が柔らかい。彼には、真面目な人に多い頑固さがないのです。古いものばかりにこだわらず、新しいことに挑戦しようとする。でも、良い伝統はしっかりと受け継ぐ。彼にはその均衡を保つ力があるのです。そして、それが今の日本にとって最も大切な力だと私は思っています」
やけに力強い声音で語られた最後の言葉に、王維は思わず仲麻呂の方へ顔を向けた。彼はどこか遠い空を見つめているようで、その瞳にはしっかりとした輝きを秘めている。
それは今までに彼が見せてきた、故郷を懐かしむような顔ではない。故郷を思う眼差しはそのままに、ただ過去ではなく未来を見つめているような。
そんな彼の初めて見る表情に、王維は思わず圧倒された。彼は二つの国、二人の君主に仕える人間なのだ。改めてそう思った。それは両国のとっての希望となるのだろうか。それとも······。
王維が仲麻呂を見つめていると、彼はどちらともつかぬ哀楽交えた顔をふっと崩した。王維の方を向いていつも通りの微笑みを浮かべる。
「私には使命があります。何としてでもあのお方を、真備さんを日本に返さねばなりません。私が鬼になったのも もしやそのためではないかと、そう思い始めたんです。彼は今の日本に必要なお方。彼なくしてどうして日本は生まれ変われましょう。私は彼に期待したいのです。彼の力を信じたいのです。そしてあわよくば、彼と共に日本をより良い国にしたい。そして、そのためには······」
そこで一度言葉を切って目を細めた。長いまつ毛が柔らかな月光を絡める。そんな彼の微笑みは、唐の国にはない、この国にはない、独特の温かさを秘めていた。
その優しさで彼は語った。唐の人間ではなく、故郷を愛する一人の
「そのためには勝たねばなりません。勝って真備さんと共に日本に帰らなければなりません。そして、私達は敗戦国という肩書きから抜け出さねばならぬのです。もう野蛮な倭人などと言われぬように。唐には唐の良さがあるのと同じく、
仲麻呂は寂しげに眉をひそめた。しかし、その時の王維には分からなかった。何故未来を語ったはずの彼がそんなに寂しそうな顔をするのか。
彼は決して未来を悲観している訳では無い。それなのに、どうして悲しそうにするのだろう。それが王維の心に引っかかった。彼は一体何を思ってそんな顔をしたのだろうか、と。
しばらく、月明かりが照らすテーブルの上を眺めていた。王維はその間ずっと理由を考えていた。しかし、いくら考えても答えは見つからなかった。
ふっと息を吐くと、王維は一度目を閉じて気持ちを切り替える。彼は元々よく分からない所も多かった男だ。そう思うことにして、もやもやとした気持ちを吐息と共に押し出した。
王維はいつも通りのにこやかな笑みで口を開く。普段と同じ明るく穏やかな口調。うん、これでいい。
「そういや
王維が言うと、仲麻呂はパッと顔を上げた。そしてはにかむように首を横に振る。
「それがその話を始めようとしたところで、来客がありましてね。結局肝心なところを聞けずじまいだったんです」
「なんだ! じゃあ僕から教えようか。もう時間もないんだよ」
「時間?」
「そうそう!」
仲麻呂が首を捻ると、王維はぐっと身体を寄せた。そしてニコッと笑うと、細く長い指で窓の外に浮かぶ月を指さす。
「あれが全ての鍵だったんだよ、やっぱりね」
彼は順を追ってその方法を語り始めた。それを聞いて仲麻呂は目を丸くするも、聞き漏らすまいと必死に言葉を拾った。
全てを語り終えると、王維は少しだけ困ったように眉を寄せてみせる。
「っとまあ、結局最後は運次第ってことで危険はあるよ、雲行きによってはね。でも、死なない限りは一応毎月挑戦出来る。ただし······」
「ただし?」
そこで王維は言葉を区切ると、強調するように仲麻呂に顔を近づけた。そして不思議そうな顔をする仲麻呂をじっと見つめると、細くも美しい瞳をさらに細めて念を押すように声を低めた。
「真備さんと一緒に日本に帰りたいのなら、今回を絶対に逃しちゃダメだよ。またひと月後まで待つとなると、真備さんと共には帰れなくなる、か。それかもしくは······」
王維は突然険しい顔をした。そんな表情に思わず仲麻呂も息を呑む。けれども、しばらくの間彼は口を噤んだままでいた。それを言えば仲麻呂を不安にさせてしまうと知っていたからだ。どこか言いづらそうに、そこまで言おうか言うまいかと真剣な表情で悩んでいる。
しかし、しばらくして彼は口を開いた。仲麻呂を動揺させることを承知の上で覚悟を決めたような、そんな真っ直ぐな瞳だった。仲麻呂はそれを聞いて自分の耳を疑った。
彼にとってその言葉が一体どんなに恐ろしかったことか。彼はそれを聞いた瞬間、血の気が引いたように顔を強ばらせた。そんなこと絶対にあってはならないと拳を強く握りしめて。
なぜなら、王維は、彼はこう言ったのだ。この青い月夜に溶け込むような、低く、静かなその声で。この世の全てを包み込むような、穏やかで、優しいその声で。
「絶対に、絶対に今回を逃しちゃダメなんだよ。もし今回を逃せば、真備さんはもうこの世にいないかもしれないからね」
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