囲碁 6


 カタッと小さな物音がしたので、真備はゆっくりと目を開けた。

 無事に囲碁の対局が終わった後、用事があるという仲麻呂を残して真備は先に高楼へと帰ってきていた。重い疲れからごろりと横になっていたのだが、どうやら知らぬ間に寝てしまっていたらしい。辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 真備は眠い目をしながらも音の正体を確かめようと身体を起こす。しかしその時小さな声がかかった。

「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」

 顔を上げれば、開け放たれた扉のそばに仲麻呂がいた。たった今出ていこうとしていたらしく、その手は扉に添えられている。今日は晴れた夜であるからか、彼は久しぶりに人間の姿をしていた。

 そこで初めて、自分の身体に布が掛けてあること、そして小さな机の上になにやら温かい湯気を出している器があることに気がついた。

「あ、いや。大丈夫だ。ありがとうな」

 真備は机の上に置かれた器を手に取る。温かい湯気の奥を覗いてみれば、優しい色をした粥が入っていた。

「胃や腸にあまり刺激のないものの方がいいかと思いまして。大変だったでしょう? 今日は」

 仲麻呂は少し心配するように笑う。どうやら下剤を飲まされた真備を気遣っているらしい。その心遣いがとてもありがたかった。

 真備はふっと笑うと彼の顔を見上げる。背後には、ちょうど昇り始めた月があった。真ん丸とした満月。その明るすぎるほどの光が彼のシルエットを際立たせていたのだが、それは男にしてはあまりにも華奢である。

 それに気がついて真備は首を捻った。その華奢というのは女性のようなシルエットだと言うわけでは無い。いや、そもそも華奢という言葉さえ合わないだろう。そう、それはまるで······。

 真備はそっと立ち上がると真剣な顔で仲麻呂に近寄った。仲麻呂は不思議そうな顔をしていたが、彼に構うことなどなく真備は真横へと足を進める。そして次の瞬間、真備は扉にかけたままであった彼の腕を素早く掴むと一気に袖をたくしあげた。

「え? あのっ、真備さん?」

「細い」

「はい?」

「細すぎる」

 仲麻呂は突然の真備の行動に戸惑ったような顔をしている。しかし、対する真備は至って真剣な眼差しをしていた。

 意味もわからず見つめ返してきた仲麻呂であったが、掴まれたままの自分の腕に目を落とす。袖を託しあげられたせいで、骨と皮しかないような白く細い腕があらわになっていた。

「お前、ちゃんと飯食ってたのか?」

 仲麻呂は思わず真備の手を振り払って腕を引っ込めた。それをもう片方の手を添えてぎゅっと抱く。

「大丈夫です。ここに来るまではちゃんと食べておりましたから」

「ここ? この高楼か」

 仲麻呂はそっと頷いた。そう言えば彼に出会ったばかりの頃、餓死寸前のところで鬼になったと聞かされた。

「お前の姿は、鬼になる直前のものなのか」

「ええ。だからこんなに痩せ細っていますし、髪も束ねておりません」

 そう言えば、確かに人間の姿をしている時の彼は唐の装束を身につけてはいたが、冠は被っていなかった。皇帝陛下から官位を得たのであれば、常日頃も冠を被っているはず。

「きっと私をここに運び込む際、かさばって邪魔になったのでしょう。だから冠がなかったのかと」

「運び込む? お前は自分でここに来たわけじゃないのか? あいつらに騙されて」

 序盤でも説明した通り、真備は高楼の中にある書物を取って来いと言われて自らここに登ってきた。その結果まんまとあの役人達に閉じ込められてしまった訳だが、どうやら彼はそうではないらしい。

 そこまで考えて、仲麻呂が連れ込まれた時の状況を聞いていなかったことに気がついた。それを尋ねてみれば、彼は曖昧に微笑んで目をそらす。

「それはまたいずれ······」

 真備は不満そうな顔をしていたが、仲麻呂が決して話そうとしないのを見て話題を変える。

「じゃあ一つだけ聞いてもいいか?」

「ええ」

「碁石が出てこなかったのはお前が何かしたからか?」

 それを聞いて、仲麻呂はやっと苦笑する。

「はい。申し訳ないですが、勝手に術をかけさせて頂きました。碁石を腹の中に留めおき、しばらくしてから消滅させる術です。そのため、今はもう碁石は腹の中から消えていることでしょう」

 真備は「やっぱりお前か」と言って同じように苦笑いを見せると、続けて「ありがとな」と例を述べる。

「おかげで勝てたよ。汚い手だったのが心苦しいが······」

「真備さんはお優しいですねぇ。それでも勝ちは勝ちでしょう。そもそも先に汚い手を使ってきたのはあちらです。これはもはや頭脳戦なのですよ。過程ではなく結果が重要となる。そんな勝負です」

 仲麻呂は衣を翻して高楼の扉から外へと出た。そして、煌々と輝く満月を見つめる。真備はそんな彼の後を一歩追いかけたのだが、彼が急に足を止めたので思わず立ち止まってしまった。

「真備さん」

 彼は背を向けたままそう真備の名を呼んだ。真備は「おう」と返事をすると、次の言葉を待つように彼の小さな背中を見つめる。

「明日からは、最低限の情報を伝える時以外ここには来ません」

 思いも寄らない言葉に目を丸くした。何故かと問いたかったが、真備は思わず口を噤んでしまう。仲麻呂の背中に強い意志が表れていたからである。

 仲麻呂がそっと振り向いた。月明かりに柔らかな黒髪が透け、良い唇には笑みがたたえられている。しかし、その顔はあまりにも寂しげな影を落としていた。

「貴方のことが嫌いになった訳では無いのです。むしろ、貴方のことを知る度にどんどん惹かれてゆきました。しかし、だからこそ距離を置かせて頂きたいのです。次の新月が傾くまで。あるいは、私がかつてと同じ人間に戻れるまで。貴方のことを大切な友人だと思っているからこそ、貴方に極力会わないようにしたい」

 全く意味がわからなかった。今までも不思議に思う所が多かった男ではあるが、これではますます彼が分からなくなる。

 しかし、真備は無理にそこに踏み込もうとはしなかった。彼ならいつか話してくれる。そう信じていたのである。

 真備は昔からそうであった。故郷とはまた違う、本心を掴みにくい都の文化。そこに一人放り込まれた吉備の少年は、次第に人との距離を掴めるようになっていった。相手がそばにいてほしいと願う時にはそっと手を差し伸べ、それが望まれていなければそっと身をさげる。そんな距離の保ち方を学びつつ、彼は少年から青年となった。

 そして今、彼の目の前にいる友人は自分と距離を置くことを願っている。ならばそれに従おう。真備は自然とそれを受け入れた。

「分かった。お前の好きにするといい」

 仲麻呂はどこか安心したようにその美しい目を細め、「ありがとうございます」と礼を述べた。

「では、状況報告と食事を運ぶ時以外はお暇させていただきます。何かあれば私の名をお呼びください」

「分かった」

 仲麻呂は改めて彼に頭をさげる。そして名残惜しそうに真備を見つめた。

「彼らは今回の一件の悔しさを受けて、貴方の元に食事を運ばないことにしたようです。なので、また彼らが動きを見せるまではのびのびとお休みください。彼らが毎日ここを訪ねてくることはないでしょうから。それに食事なら私が用意しますし」

「そうか。わざわざ申し訳ないな。食事まで任せてしまって······」

「いいえ。私が出来る精一杯のことですから」

 仲麻呂は笑顔で真備を見上げた。そしてふわりと宙に浮くと、真備に軽く礼をして高楼を立ち去ってゆく。

 その姿が消えると共に、明るい夜空に目を向ける。満月のせいでいつもより星は見えなかったが、とても美しい空であった。

 改めて無事に対局を終えた安心感を覚え、真備はほっと息をつきながら高楼の中へと引き返す。そして仲麻呂に教えてもらった術を使って高楼の鍵を閉めると、囁かな虫の音の中でそっと瞼を閉じたのだった。



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