文選 6
さて、夢のような空の旅も終わりに近づき、目的地である帝王宮殿が見えてきた。きらびやかな長安の北東部。時の皇帝
二人はそっとその屋根に降り立つと、互いに顔を見合わせる。すると、仲麻呂の方が囁くような声で口を開いた。
「どうやらちょうどこの真下のようです。彼らがいるのは」
そう言って、彼はその淡い桃色の唇に人差し指をあてると「どうかなるべくお静かに」と微笑んでみせる。彼の言葉に頷くと、真備はそっと自分の足元を見つめた。
この下に彼らがいる。そう考えると自然と眉間にシワがよった。まさか唐に来てまでこのようなことになるとは思わなかった。真備は軽く息をつくと、日本でのことを思い出した。
真備の故郷は備中、広く言えば吉備国と呼ばれた現在の岡山県である。都から遠く離れた地方出身者の真備は、才能があるのに······いや、むしろ才能があるがゆえに、都生まれの学生達から疎ましく思われることも少なくなかった。プライドの高い貴族達から馬鹿にされることも少なくない。ようは地方出身者の田舎者ごときに自分の出世を邪魔されたくないのだ。だからそのためにはその目障りな存在を排除するしかないと思っている。
彼らには自らの腕を磨くという発想はないのだろうか。そんな憐れみの目を向けながら、あの時真備は船に乗った。彼だって自分のためにも家族のためにも出世しなければならない。こんなところで負けてはいられないのだ。
「真備さん?」
突然名前を呼ばれてハッとする。そこにはこちらを見つめる仲麻呂がいた。突然苦い顔で黙り込んだ真備を心配したのか、その眉は軽く寄せられている。
「いや、なんでもない」
真備は軽く首を振った。仲麻呂の実家である阿倍家も由緒正しい貴族の家柄だ。一部の貴族達への愚痴とはいえ、彼の前で都の貴族に対する不平を零したくはなかった。
「で、これから俺はどうすればいい」
真備がそう問うと仲麻呂はまだ心配そうにしながらも自分の背後を指さす。
「裏手からこっそり部屋に近づきましょう。柱や壁の陰にでも隠れて盗み聞きするのが良いかと。そちらなら月明かりも届きませんし、見つかることもないでしょう」
互いに頷き合うとこっそり屋敷の裏手へとまわる。するとどこからともなく複数人の声が聞こえてきた。声を頼りに二人は彼らのいる部屋へと近づき、壁の陰に身を隠す。
外の暗闇の中を感じさせないかのような明るい光。そんな中、三十名ほどの儒学者達が円を描くように座っていた。髭面の者、面長の者、太鼓腹の中年男もいれば、頭が切れそうな若者もいる。真備は案外人数が多いことに驚きつつもそっと議論に耳をそばだてた。
聞こえてきたのは例の『文選』の内容である。どうやら春秋戦国時代からの文章や詩などが載っているらしい。全てをそっくりそのまま記憶するのはかなり難しいが、それは記憶力が人一倍ある真備のこと。彼は持ち前の集中力でどんどんとその内容を頭に叩き込んでいった。
しばらくして文選についての話し合いが終わったらしく、儒学者達が肩を下ろした。真備も閉じていた瞼を上げる。集中するあまり、時が経つのを忘れてしまっていたようだ。
「それにしても、あの真備とかいう倭国の青年······よく生きていたこと」
恨めしくも感心したように発せられた自分の名に真備はピクリと眉を上げた。そちらを見れば、正面にいた大男が太い眉を寄せながらため息をついている。
「しかしあそこに人喰い鬼が出るというのは本当なのか?」
「ええ、前にあそこに閉じ込めた新羅の僧侶がいたでしょう? 彼が血だらけの腕を抑えながら怒鳴り込みに来ましたよ。鬼に襲われたってね」
そう答えた青年を見ながら真備は腕を組む。そういえば、前に仲麻呂が人を傷つけてしまったと言っていた。彼がそうだろうか?
「ああ、西域から来た青い目の商人も言っていましたよ。あの辺りで大きな影を見たと」
「それはまことか?」
自分も知っていると言わんばかりに胸を張った面長の男に、円を描いていた皆が興味津々な様子で身を乗り出す。それは不可思議なことに対する好奇心からなのか。はたまた真備の死を思い浮かべたことによる高揚感からか。どちらにせよ、文選の内容が分かった今、何も怖いものはない。真備は意気揚々と酒を酌み交わす彼らに冷たい視線を送ると、仲麻呂に話しかけようとしてそっと後ろを振り返った。
「なぁ仲麻呂······っ!?」
少々気だるげに振り返った真備であったが、そちらに目を向けた瞬間肩を震わせて硬直した。そしてあげてしまいそうになった驚きの声を慌てて飲み込む。
まあそれも無理はない。振り返った瞬間、そこには恐ろしげな鬼の顔があったのだから。
「あっ、すみません。ここは月明かりが届かないもので」
仲麻呂が慌てたように大きな鬼の手を前に出す。そんな慌てぶりにほっとしたように息を吐くと、力なく笑ってみせた。
「悪い。俺もそのこと忘れてた」
そう言って笑う真備を見て、仲麻呂も申し訳なさそうに眉を下げる。彼の大きな牙がほんの少し持ち上がった。
鬼の面を改めて見ながら、何だか惜しいと思ってしまった。それは人間としての彼の笑顔を見てしまったからであろうか。あれだけ優しげで美しい青年が、このような化け物の皮に覆い隠されていることが少し残念に思えた。姿形もその心も、本当はあれほど美しいのに······。
まるで息子の嫁探しをする父親のような思考を巡らせていた自分に気がつき、真備は思わずため息をついた。自分は一体何を考えているのだ。突然下を向いた真備に対し、当の仲麻呂は不思議そうに首を傾げてる。
「もしかして、ちゃんと聞くことが出来ませんでしたか?」
心配そうな仲麻呂を見て、真備は少し疲れたように笑ってみせた。
「いや、ちゃんと頭に入れたよ。ああ、でも書くものがないや。文選の内容を木簡や紙に書き付けて覚えたいんだが、何か無いか?」
先程の思考を悟られまいと慌てて話題を逸らす。そんなことも露知らず、仲麻呂は「ええ」と頷いた。
「少し古い暦であれば十巻ほど」
「それを貰うことって出来ないか?」
仲麻呂は少し考え込む仕草をした。しかし直ぐに顔を上げると、「分かりました」と笑顔を向ける。
「こっそり持ち出すことは可能でしょう。私が取ってきます」
「本当か!」
「はい。でもここではゆっくり出来ませんね。高楼に持ち帰りましょうか。今から取ってきたいと思うので、真備さんは先程の屋根の上で待っていて頂けますか?」
「分かった、よろしくな」
真備が頷くのを見届けると、仲麻呂は暗闇の中へと姿を消した。真備はふっと息を吐くと、再び橙の明かりと酒の匂いが漏れる部屋へと目を向ける。彼らは相変わらず楽しそうに宴会を続けていた。こちらには全く気づいていないようだ。
お前らの思い通りになどなるものか。
真備はそう心の中で呟いて強く彼らを睨みつけると、ふわりと屋根の上に舞い戻った。
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