吉備大臣入唐物語

鹿月天

序章

高楼にて 1



「どこだ······どこに隠れた」

 一寸の光もない深い闇。それを低く震わすようなおどろおどろしい声が床を這った。墨を流したかのような暗がりの中で、得体の知れぬ大きな影が一人の男を探している。しかし、聞こえてくるのはザワザワと鳴る木々の葉音と軋む木材の叫びのみ。それ以外に生命の息遣いなどは微塵も聞こえない。そう、闇の中には人の気配など全くなかったのだ。だから大きな影は鋭い視線を動かした。決して、決して、見落とさぬように。右へ左へ、逃さぬように······。


 今は開元二十二年(七三四年)。当時の唐の都は長安ちょうあんと呼ばれる街であった。北に位置する宮城きゅうじょうと、碁盤の目さながらな道の造り。平城ならと呼ばれる日本の京や、後に生まれる平安京のモデルとなった大都市だ。

 そんな煌びやかな街の外。木々がうっそうと生い茂る僻地には小さな小さな高楼があった。今、冷たく澱む六畳一間の板の間には人気ひとけのない闇が広がっている。轟々と吠える風の夜。そこにあるのは物の怪の影だ。彼は何やら人を探しているようだが、そんなものは一切見当たらない。

 しかし、物の怪には見えないらしいがそこには確かに男がいた。口元を袖で押さえ、術を使って身を隠し、じっと息を殺している男が確かに存在していたのだ。


 彼は名を下道真備しもつみちのまきびと言った。後に吉備真備きびのまきびという名で親しまれる男である。

 しかしながら、今の彼には威厳の欠片も何も無い。ただ深い闇の中、正体不明の物の怪に怯え、その身を震わせるばかりである。普段は冷静沈着な男なれども、このような状況におかれれば為す術など何一つ無かった。というのも、彼は何も知らないのだ。なぜ自分が物の怪に襲われているのか。なぜ小さな高楼に閉じ込められているのか。

 ──ひとついいことを教えてやろう。この高楼には夜な夜な人を襲う恐ろしい鬼が出るのだ。まあ優秀ななんじであれば気にすることもなかろうな。何はともあれ、お許しが出るまではこの高楼から出るでないぞ。

 それが最後に聞いた人の声であった。中級の役人が発した言葉。しかし後に続いたせせら笑いには幾人もの蔑みが重なっていた。真備は言われた通りにこの高楼にのぼってきただけだ。彼らが書物を取ってこいと言うので長く脆いハシゴをのぼってきた。

 しかし結果はどうだ。書物などなく、真備は高楼の中へと突き飛ばされた。突然のことに驚く真備をよそに、彼らは高楼の扉を荒々しく閉め、そのまま鍵をかけてしまったのだった。

(一体これからどうすればいいのか)

 物陰から顔を出して眉を顰める。暗闇に慣れてきたのか、真備の瞳はようやく化け物の影を捉えた。大きな大きな身体を持つ恐ろしい鬼であるようだった。額から生える二本の角は固く鋭く反り上がり、細く尖った耳と牙が歪なシルエットを強調している。背丈はゆうに人間の域を超え、軽く八尺(約二.四m)はあるようだった。彼は真備のことを探しているのか、「いない、いない」と呟いては高楼の中を歩き回っている。

 もし見つかってしまったらどうなるのだろうか。揺らめく影を見つめながら考えた。真備より前に閉じ込められた人々は、数日のうちに行方不明になっているらしい。鬼に喰われたか、はたまたどこかへ連れ去られたのか。そう考えると言いようもない恐怖に心が喰われそうになる。

 この異国の地で、故郷に帰ることなく、もう二度と父母に会うことなく、見るも無残な死に方をするのだろうか。遣唐留学生として唐へ来た真備にとって、今や家族は遠い存在になっていた。いや、生まれ故郷の吉備国きびのくに(現在の岡山県)から平城ならの京に出てきた時点で既に家族とは別れたようなものだったか。

 しかしせめて日本にいるのならば、少なからず家族に会うことは出来たであろう。自分の死を嘆き悲しんでくれる友人達もいただろう。この唐の国に自分の死を悲しんでくれる人はいるのだろうか。自分が生きていた証は全て消しさられてしまうのだろうか。


 そこまで考えて目を伏せた。狭まった視界には闇しか見えない。世界中から人が集う華やかな長安の都だというのに、高楼の周りはまるで黄泉への道かというほどに人気ひとけがなかった。光もなければ声もない。そんな暗闇に心を締め付けられて、真備は思わず顔を膝に埋めようとした。しかしその時だった。

「さては術を使ったな? ならばその術が解けるまで我はここに居座ろうぞ。なれのような賢い人物を探していたのだ」

 重々しい声がして鬼が床に座り込んだのが分かった。ホコリを被った床が冷たく重くギシリと軋む。しかし、不思議と恐怖を感じなかった。あれだけ命の危機を感じていたのに、一瞬にして頭から消えた。

(賢い人物を探していた?)

 人を喰らうことが目的ならば、そのようなことどうでも良いはずだ。なぜこの鬼は知能にこだわっているのだろうか。もしかしたら、何かただならぬ事情があるのかもしれない。

 真備は拳を握ると黒い影を睨みつけた。相変わらず人間離れした異様な身体だ。しかし恐ろしい形相はしているものの、不思議と殺意は感じられない。

 ── 一か八か。

 次の瞬間、真備は物陰から離れると赤鬼の目の前へ進み出た。まだ術を使っているため赤鬼には姿が見えないようだが、何か気配は感じ取ったのか顔を上げてじっとこちらを見つめている。

 初めて鬼の顔をはっきりと見た。落窪んだ瞳は口を開けた谷のように真っ暗で、太く大きな鼻は人間のそれの何倍もある。口元に生える二本の牙は、恐ろしい程に冷たく光っていた。

 しかし、真備は動じない。しかと異形を見つめると、息を吸って呼びかけた。

「私は日本国の天子より任ぜられた使いである。物の怪ごときに退くような弱者ではない。なぜお前はここを訪ねては人を襲うのだ。その訳を話さないのであれば私はいつまでも姿を見せぬぞ」

 一気に言葉を吐き出すと、ぎゅっと拳を握りしめた。この赤鬼は話が通じるのではないかと思って言葉をかけてみたが、予想に反してただの凶暴な鬼ならば真備の人生はここで終わるだろう。


 しばらく静寂が辺りを包んだ。高楼の下からは涼やかな虫の音が聞こえてくる。真備は冷たい夜風が頬をなでるのを感じながら待った。ずっと待った。目の前の物の怪が何か行動を起こすのを。

 しかし、不思議なことに待てど暮らせど彼は少しも動かない。まるで石になってしまったかのようにただただ一点を見つめている。どうやら口も開かぬまま何か考え込んでいるようだ。

「どうした。そんなに声をかけられたことが驚きか?」

 再び口を開いた真備に、赤鬼はそっと顔を上げた。落ちくぼんた瞳が真備を捉える。それは月のない闇夜のように真っ暗だ。しかし真備には、何故か暗い瞳が潤んでいるかのように見えた。

「今、日本と申されましたか?」

「へ?」

 思わず素っ頓狂な声を上げる。

「今、貴方は日本国からの使者だとおっしゃいましたか?」

 ガラッと雰囲気が変わった物の怪に、真備は数回瞬きをした。糸が切れたように身体が緩み、肩口の布がさらりと滑る。

「あ、ああ。確かにそう言いましたが」

 呆気にとられたように呟くと、赤鬼はぱっと顔を明るくさせた。そして見えない真備に対して嬉しそうに両手を開き、ぜひとも自分の話を聞いてほしいと願い出てきた。

 予想し得なかった展開に驚きを隠せない。一体彼は何をそんなに喜んでいるのだろう。

 しかし、こちらとて優秀な遣唐使である。赤鬼に対して落ち着きはらった声で告げた。

「話をしたいのであればとりあえず服装を整えよ。そして、まずは名を名乗るのが礼儀ではないか?」

 ハッとしたような顔をして赤鬼は深々と頭を下げる。

「大変申し訳ございません。高揚して思わず礼儀を忘れておりました。では、しばらくお待ちくださいませ。すぐに身なりを整えて参ります」

 赤鬼は美しい所作で立ち上がると、高楼を出ていった。まるで鬼に似合わない優雅さだ。熊が白鳥に化けたようにも見えた。

「なんなんだ? あの赤鬼は······」

 高楼の入り口から夜風が舞い込む。去りゆく背中に眉を軽く寄せると、真備は呆気にとられたように呟くのだった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る