吉備大臣入唐物語

あめ

序章

高楼にて 1



「どこだ...どこに隠れた......」



一寸の光もない深い闇。それを低く震わすようなおどろおどろしい声が床を這った。光をも飲み込む闇の中で、正体の分からぬ大きな影が一人の男を探している。

しかし、聞こえてくるのはザワザワと鳴く木々の葉音。そして軋む木材の叫びのみ。それ以外に全く人の息遣いは聞こえない。そう、この闇の中には人の気配など全くなかったのだ。だから、その大きな影は鋭い視線を動かした。決して、決して、見落とさぬように。右へ左へ、逃さぬように。



今は開元二十一年(733年)、この時の唐の都は長安ちょうあんと呼ばれる街であった。北に位置する宮城きゅうじょうと、碁盤の目のような道の造り。そう、ここは平城ならと呼ばれる今の日本の京や、後に生まれるであろう平安京のモデルとなった大都市だ。

そんな煌びやかな街の隅。木がうっそうと生い茂るそこには小さな小さな高楼があった。そして今、そのたった一部屋の高楼の中には、人気ひとけのない闇が広がっている。轟々と吠える風の夜。そこにあるのは物の怪の影だ。彼は何やら人を探しているようだが、その影は一切見当たらない。

しかし、物の怪には見えないらしいが、そこには確かに男がいた。口元を袖で押さえ、術を使ってその身を隠し、じっと息を殺している男が確かに存在していたのだ。恐ろしい物の怪からどうにか逃れようとする、たった一人の青年が。

そして、彼は名を下道真備しもつみちのまきびと言った。そう、後の世に吉備真備きびのまきびという名で親しまれるあの男である。

しかしながら、今の彼には威厳の欠片も何も無い。ただただ深い闇の中、正体不明の物の怪に怯え、その身を震わせるばかりである。普段は冷静沈着な男なれども、こんな状況におかれれば為す術など何一つ無かった。

というのも、彼は何も知らないのだ。なぜ自分がこのような物の怪に襲われているのか。そして、なぜ自分がこのような小さな高楼に閉じ込められているのか。



ー ひとついいことを教えてやろう。この高楼には夜な夜な人を襲う恐ろしい鬼が出るのだ。まぁ、優秀な日本国からの使いであるなんじなら気にすることもなかろうな。何はともあれ、お許しが出るまではこの高楼から出るでないぞ?



それが、真備が最後に聞いた人の声であった。中級の役人が発した言葉。しかしその後に続いたせせら笑いは、幾人もの声が重なっていた。真備は彼らの言われた通りにこの高楼にのぼってきただけなのだ。彼らが書物を取ってこいと言うから長く脆いハシゴをのぼってきた。しかし結果はどうだ。高楼には書物などなく、それを知らせようと振り返った瞬間、彼らは真備を高楼の中へと突き飛ばした。そして突然のことに驚く真備をよそに、なんと高楼の扉を荒々しく閉めて、そのまま鍵をかけてしまったのだった。


(俺はこれからどうすればいいんだ)


真備は隠れていた物陰から顔を出して眉を顰める。だんだん暗闇に慣れてきたのか、真備の瞳はようやく化け物の影を捉えた。それは、大きな大きな身体を持つ恐ろしい鬼であるようだった。額から生える二本の角は固く鋭く反り上がり、細く尖った耳と牙がその歪なシルエットを強調している。そしてその背丈は優に人間の域を超え、軽く八尺(約2.4m)はあるようだった。それは真備のことを探しているのか、「いない......いない......」と呟いて高楼の中を歩き回っている。



(もし見つかってしまったら自分はどうなるのだろう)



真備は揺らめくその影をじっと見つめながらそう考えた。真備より前にこの高楼に閉じ込められた人々は数日のうちに行方不明になっているらしい。鬼に喰われたのか、はたまたどこかへ連れ去られたか。そう考えると言いようもない恐怖に心がのみこまれそうになる。この異国の地で、故郷に帰ることなく、もう二度と父母に会うことなく、見るも無残な死に方をするのだろうか。

そう思って真備は項垂れる。

遣唐留学生として唐にやって来た真備にとって、今や家族は遠い存在になっていた。いや、そもそも生まれ故郷の吉備国きびのくに(現在の県の岡山県を中心とする地域)から平城ならの京に出てきた時点で、既に家族とは別れたようなものだったか。

しかし、せめて日本にいるのならば、少なからず家族に会うことは出来たであろう。自分の死を嘆き悲しんでくれる友人達もいただろう。

しかし、この唐の国には、誰か自分の死を悲しんでくれる人はいるだろうか。自分が生きていた証は、この高楼の中で全て消しさられてしまうのだろうか。


そこまで考えて真備はそっと目を伏せた。狭まった視界には闇しか見えない。ここは世界中から人が集う華やかな長安の都だというのに、高楼の周りはまるで黄泉への道かというほどに人気ひとけがなかった。光もなければ、声もない。そんな暗闇に心を締め付けられて真備は思わず顔を膝に埋めようとした。


しかし、その時だった。



「さては術を使ったな? ならばその術が解けるまで我はここに居座ろうぞ。なれのような賢い人物を探していたのだ」



地面を這うような重々しい声がして、鬼が床に座り込む気配がした。うっすらとホコリを被った高楼の床が、冷たく、重く、ギシリと軋む。

しかし、この時の真備は不思議と恐怖を感じなかった。あれだけ命の危機を感じていたのに、それが一瞬にして頭から消えた。というのも、この時真備の中で、疑問の念が恐怖を上回ってしまったのである。


(賢い人物を探していた?)


人を喰らうことが目的ならば、そのようなことどうでも良いはずだ。ならばなぜこの鬼は知能にこだわっているのだろうか。

真備はそう思って眉を寄せた。


(もしかしたら、この物の怪には何かただならぬ事情があるのかもしれない)


真備は拳を握ると、その黒い影をじっと睨みつけた。それは相変わらず人間離れした異様な身体だ。しかし、確かに恐ろしい形相はしているものの、不思議と殺意は感じられない。


(一か八か)


次の瞬間、真備は物陰から離れると赤鬼の目の前へと進み出た。まだ術を使っているためその赤鬼には真備の姿が見えない。しかし何か気配は感じ取ったのか、彼は顔を上げてじっと真備のいる方向を見つめている。

その時、真備は初めてその鬼の顔をはっきりと見た。落窪んだ瞳はまるで穴が空いているかのように真っ暗で、太く大きな鼻は人間のそれの何倍もある。そして口元に生える二本の牙は、恐ろしい程に鋭く光っていた。

しかし、真備はそんな彼にも動じない。そしてじっとその顔を見つめると、軽く息を吸って彼に呼びかけた。


「私は日本国の天子より任ぜられた使いである。だから物の怪ごときに簡単に退くような弱者ではない。なぜお前はこの高楼を訪ねては人を襲うのだ。その訳を話さないのであれば私はいつまでも姿を見せぬぞ? 」


一気にそう言葉を吐き出すと真備はぎゅっと拳を握りしめた。この赤鬼は話が通じる相手ではないかと踏んで言葉をかけたのだが、その予想に反して彼がただの凶暴な鬼であったのなら真備の人生はここで終わるだろう。


それからしばらく静寂が辺りを包んだ。高楼の下からは涼やかな虫の音が聞こえてくる。

そしてそんな中、真備は冷たい夜風が頬をなでるのを感じながら待った。

ずっと待った。

目の前の物の怪が何か行動を起こすのを。


しかし、不思議なことに待てど暮らせど彼は少しも動かない。まるで石になってしまったかのように、ただただ一点を見つめている。どうやら口も開かぬまま、何か考え込んでいるようだ。


「どうした? そんなに声をかけられたことが驚きか? 」


再び口を開いた真備に、赤鬼はそっとその声が聞こえた方向に向かい顔を上げた。

落ちくぼんた瞳が真備を見つめる。それは相変わらず恐ろしい程に暗い。しかしその時の真備には、何故かその瞳がどこか潤んでいるかのように見えた。



「今、日本......と申されましたか? 」



「へっ? 」



その思いがけない言葉に、真備は思わず素っ頓狂な声を上げる。


「今、貴方は日本国からの使者だとおっしゃいましたか? 」


ガラッと雰囲気が変わったその物の怪に、真備は数回瞬きをする。


「あ、あぁ。確かにそう言いましたが......」


真備が呆気にとられたようにそう呟くと、赤鬼はぱっと顔を明るくさせた。そして、なんと見えない真備に対して嬉しそうに両手を開くと、ぜひとも自分の話を聞いてほしいと願い出てきたではないか。

もちろん、予想が外れたどころの話じゃないその展開に、真備は驚きを隠せない。一体彼は何をそんなに喜んでいるのか。


しかし、そこは優秀な遣唐使。

真備は赤鬼に対して落ち着きはらった声でこう告げる。


「話をしたいのであればとりあえずその服装を整えよ。そして、まずは名を名乗るのが礼儀ではないか?」


それは小さな高楼の中にハッキリと響いた。するとハッとしたような顔をして、赤鬼は深々と頭を下げる。


「大変申し訳ございません。高揚して思わず礼儀を忘れておりました。では、しばらくお待ちくださいませ。すぐに身なりを整えて参ります」


そう言ってその赤鬼はすっと美しい所作で立ち上がると、高楼を出ていった。それはまるで鬼に似合わない優雅さだ。


「なんなんだ? あの赤鬼は......」


真備は彼が出ていった高楼の入り口を不思議そうに見つめる。そしてその眉を軽く寄せると、呆気にとられたようにそうぽつりと呟くのだった。




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