18章 ひろやかに
もうすぐ
* * * * *
暖かな何かが私の髪を撫でていった。眠りから這い出たばかりの薄れた意識で、目を閉じたままその軌跡を追う。包むようにもう一度撫で、流れて髪を耳に掛けて辿り、最後には抱き寄せてくれるそれが、あの人の手だと気付いてゆっくりと瞼を開けた。次第に微睡む視界が整い、こちらを見つめる柔らかい淡褐色を網膜に映し出す。
「すまぬ、起こしてしまったか」
隣に向かい合うようにしてある彼の顔に自然と安堵して頬が緩む。傍の麻に頬を寄せて首を横に振ると、彼が撫でるように私の前髪を掻き上げて額に唇を落した。
私も隣の人に身を寄せ、朝の静かな胸で深めに息を吸う。まだ重たげな瞼を動かして、彼の肩越しにうっすらと引かれた白い光の帯が見えた。朝なのだと思いながら、帯が綺麗に真っ直ぐ河のように流れる光景に見惚れていた。
「気分は」
ややあって掛けられた彼の声はかすれ気味だった。大丈夫だと頷くと、その人は安心したように深く息をついて私の髪を指に絡め始める。
最近は以前の状態が嘘だったかのように気分は落ち着いていた。穏やかで静かで、気を抜いたらこのまま寝てしまいそうなくらいだ。
「まあ、一時期は酷かったからな。あれ以上が続いていたら一大事か」
「そうね」
つわりが酷かった時のことを思い返し、二人揃って苦笑する。怠さも吐き気も我慢できるものでなく、一日のほとんどを寝台の上で過ごし、どうしても移動しなければならない時だけ吐き出すための桶を必ず常備しての移動だった。
「それでも、それが嬉しかったの」
何か食べるたびに吐いても、どんなに辛くても、その苦しみに安堵した。宿ってくれた子がお腹の中で生きてくれていることが実感できるだけで泣きたくなるほど嬉しかった。
「そうか」と頷く彼の手の心地良さに目を伏せ、過ぎた日々を想いながら膨らんだ自分の腹部にそっと手を添える。
「あと少しだな」
「ええ、あと少し」
彼が微笑んで私の腹部に触れるのを眺めながら頷いた。
季節は巡りに巡り、夏色の風が吹く時期となり、あと数か月で私にとって4度目のナイルの氾濫がやってくる。
もしものことを考えて怯えて過ごしたことを思えば長かった。自分の身体の変化を目の当たりにした時の一つ一つを思えば短かった。神経を尖らせながらであっても、無事に臨月を迎えた私の腹部はかなり大きくなっている。
「今日は動かぬ。昨日はよく動いていたと言うのに」
私の腹部に触れながら相手は顔を顰めた。
「昨日の夜がすごかったから今は疲れて寝ているのよ、きっと」
「そうか……疲れているのか」
数か月前に内臓のごにょごにょ動くような感覚があって、後からそれが胎動だと分かり、彼と一緒にわっと喜んだあの日がつい最近のことのようだ。うーんと伸びていたり、蹴っていたり、もぞもぞしていたり、中から押してくる小さな力を掌に感じるだけで胸がいっぱいになって仕方がなかった。
最近は寝る時に限って激しく動くものだから寝付けなかったりもするけれど、これは贅沢な悩みなのだと思う。
「そろそろ起きるか」
「今日は朝から儀式があるものね」
「ああ」
儀式の回数は相変わらず多い。妊娠が分かり、つわりが治まった後に数回だけ出席していたものの、腹部が目立つようになってからは控えていた。私がいないことを不思議に思っている人たちもいるだろうし、いくら奥に身を隠しているとは言え、私の妊娠を勘付いている人もいるのだろう。それでも彼やセテム、カーメスたちがいると思うと、以前のように泣いて怯えるほど精神が歪むこともない。今は、もうじき来るである出産に向けて気持ちの準備を整えていた。
「よし」
寝台から離れるのが名残惜しいと言うように、彼が後ろ頭を軽く掻きながら身体を起こしたのを見て、私も起きようと腕を立てた。お腹が重くて起きづらくなった私の身体を、何気なく伸ばされた褐色の手が支えてくれる。
「無事の出産を神々に祈ってこよう」
片腕で私を緩く抱き寄せながら、もう一方でお腹を撫でて彼は柔らかく語りかける。その声に、触れられる感覚に、今取り巻くもののすべてに幸せを感じて胸が暖かかくなる。
「そうだ、忘れかけていた」
彼が何かを思い出したようにいきなり顔を上げた。
「今日は客人が来る。お前にだ」
「私に?」
今まで私個人への来客などなかった。そもそも妊娠が分かってから彼は外部の人間に私を会わせないようにしていたのだ。
「会えば分かる。楽しみにしていると良い」
不思議に思う私を残して、得意げな笑みを浮かべた彼は寝台から立ち上がった。
大きくなったお腹で足元は全く見えない。お腹を抱えて侍女に手伝ってもらいながら着替え、彼の隣で朝食を取り、彼が神殿に向かうのを見送った。
「王妃様、お気を付け下さい」
メジットや他の侍女たちと部屋に戻ると、支えられるようにして寝台に腰を下ろして、ほっと息を吐く。臨月に入った頃から腰回りや恥骨辺り、とにかく身体のあちこちが痛んでいた。侍医曰く、出産が近い兆しとのこと。腹部が張っていることもあって、ネチェルやメジットはいつでも出産が可能なように準備を進めてくれていた。
「お腹は痛みませぬか」
私が無事寝台に座ったのを確認したネチェルが尋ねた。
「大丈夫よ」
「お兆しを感じられましたらすぐに仰って下さいね」
「ええ」
妊娠が分かってからは、この部屋と部屋に繋がる小さな庭で読書をしたり、友好関係にある国の言語をナルメルから学んだり、侍女と世間話をしたり、ヤグルマの花で伝統的な花飾りを作ったりすることが日課だった。今日は寝台に腰を下ろして、床に膝をつくメジットたちと生まれてくる子のために産着を繕い始める。
他愛のない会話を交わしながらも気になるのは、彼が私を訪ねて来ると言った客人のことだった。重役の大臣にさえ懐妊を知らせていないのに、一体誰が来ると言うのだろう。
「はーい、失礼いたしますー」
考えていると、いつになく陽気なカーメスがにこにこ笑って入って来た。その人が頭を下げるたびに癖毛が愉快に揺れ、周りの侍女たちを一層笑顔にさせる。
「あら、カーメス殿、いかがなさいました?」
にこやかな表情の侍女たちの中で、自然と漏れる笑みを湛えてメジットが尋ねた。
「今からファラオがお客人を連れて参りますよ。侍女の皆さんは準備を」
侍女たちがそそくさと編んでいた物を籠に戻して一通り片づけ、扉を中心に綺麗に並んで跪く。誰が来るのかと僅かな緊張を持ちながら、私も立ち上がって彼と客人が来るのを待った。
やがて開いた扉の向こうに、背筋を綺麗に伸ばした女性が姿を現した。彼女が私を認めた途端、澄ました顔をぱっと崩し、その目をキラキラと輝かせた。
「ヒロコ!!」
名が、弾けた。
きゃーっと声を上げて両手を広げ走り出し、隣にいた彼を越えて、周りの侍女を追い越して、目の前にやってきた女性は私の手をひしと取り上げた。
「久しぶり!」
「キルタ王妃!?」
艶やかなオリーブ色の肌に、エジプトとはまた違う装飾品をまとう人。私のお腹を見るなり、さっきよりもずっと顔の輝きが増す、ヌビアの王妃。
「ああ!こんなに大きなお腹抱えて!何で言ってくれなかったの!」
何度も言葉で支えてもらったのに、彼に止められ、妊娠を手紙に書けなかったことがどれだけ歯痒かったか。
「言えばすぐに飛んでくるだろう、それでは困る。迷惑だ」
私が話す機会を与えないくらい興奮して喋りまくる彼女の後ろから、彼が呆れた表情でやって来た。
「あら、自分の妃が心細いだろうから来てほしいって手紙を送ってきたのは、どこの誰だったかしら」
言われた彼が苦笑して顔を反らす。
「知らぬな、そのような話」
この来客を呼んだのは彼なのだと、二人の会話から察しがついた。
あなたはいつもそう。私の知らないところで私のために動いてくれいる。そのくせ、お礼を言うと知らぬとはぐらかされてしまうから感謝のやり場に困ってしまうのだ。
「でも、懐妊を最低限の者以外に伝えない……これは王妃と子供を守るには最良の判断だったでしょうね」
彼女が深刻そうな顔つきで囁き、彼もすっと面持ちを変えた。
「黙っていたことに対する臣下の信用は欠落しても、子供を守れなかったというよりはずっと良い。あなたは妻と子供をここまで守り抜いたんだわ」
王妃懐妊は王家に関する重要情報でもあり、すぐに国中に知らせるのが通例。この懐妊を内密にしたことに対する信用の欠落は免れない。信頼がどれだけ王家にとって重要なものか。それを犠牲にする覚悟でここまで来たのは、ある意味賭けに近かった。
「欠落など、これからどうにでもなる。私は王なのだからな」
恐いものなどないと言い切る彼に、彼女は高らかに笑う。
「やるじゃないの」
そして再び彼女は私を見つめた。ずっと握っていた手に力を込め、ぐんと顔を近づけて満面の笑みを作る。
「ヒロコ、おめでとう!」
抱き締められて耳元で言われた言葉が、じんと心に沁みていく。
「本当によかった!おめでとう!」
強く握ってくれるオリーブ色の手の強さと暖かさが堪らなく嬉しかった。
庭に置いた椅子に腰をかけ、遠くで鳴る虫の声に耳を傾けながら、柱の模様を指でなぞるヌビアの王妃と時間を忘れるくらい話し込み、声を上げて笑っていた。
「この国はいつ来ても素敵ね。ずっといたいくらいだわ」
庭を見渡してから、彼女は気持ちよさ気に伸びをして夕暮れの空を見上げる。橙と群青が混ざり合った空は、何とも言えない幻想的な色を私たちの上に落としている。
「でも居られても2日ね。明後日には帰るわ。子供たちを置いて来ているから」
王子たちを乳母に任せて、ここまで足を運んでくれた彼女には感謝してもしきれない。
「帰ったら帰ったで、また腹が立つことばっかりなのよねえ。この前なんて、14歳の踊り子を第6王妃になんかに迎えちゃったのよ、あり得ないでしょ」
14とは、まだ若すぎるような。けれどこの時代ではそこまででもないような。
「がきんちょよ、がきんちょ!」
相手から絶えず流れていくのはヌビア王の話だ。会ったことの無いその人は、また新しい王妃を娶ったようだった。
「だから私のいないこの2日間で私のありがたみを思い知ればいいと思ってるの」
「でも、尊敬している?」
そんな私の言葉に、彼女は文句を言いたげに眉根を寄せた。
「いつも、好きなんだって思わせる節が必ずあるから」
愚痴を絶え間なく零し続けてはいても、私が彼を尊敬しているのと同じように、彼女もまたヌビア王を深く想っているのだと伝わってくる。口調であったり、言葉であったり、色んな所にそれが見え隠れしている。
少し時間があってから、ヌビアの王妃は「そうね」と溜息交じりに呟いた。
「凄い人だとは思ってるわ。子供たちと遊ぶ時間も作ってくれているのに、エジプトほどじゃないにしても、国一国を治めてるんだもの、並大抵のことじゃないから。だからと言って腹が立つのは変わらないけどね。それにね、聞いてちょうだい、この前なんて……」
相手の口から次々と零れる愚痴に笑いながら、お腹を触ってふと気づく。また、張っていると。
「どうしたの?」
私の様子に気づいたのか、彼女がこちらへやってきて腰を屈めた。
「お腹が、少し」
触っていいか聞かれて頷くと、慣れた手つきで私のお腹にそっと手を置く。
「あら、随分張ってるじゃない。もうすぐかもしれないわね」
痛みはないものの、昨日にも増して張る頻度が多い。もしかしたら明日明後日かもしれない。出産がすぐ目の前なのだと思ったらじわじわと緊張が押し寄せてくる。
「……やっぱり、痛い?」
呆れるくらい頼りない質問に、彼女は首を傾げた。
「産む時にってこと?」
恐る恐る頷いた私に、相手の肩が豪快に揺れ出す。気持ちいいくらい爽快な笑い声だ。
「そりゃあそうよ。痛く無かったら逆に変だわ」
『鼻からスイカ』はよく聞く話だけれど、そんな例えじゃ痛みなんて一つも想像出来やしない。母子共に危険な場合もあるだろうし、ましてやこの時代で産むということは子供だけでなく自分の命に関するそれなりの覚悟も必要だろう。
「どれくらい痛む?」
「死ぬって思うくらい」
へらりと放たれた言葉にぎょっとする。
「巨大な岩で腰を砕かれてるのかと思ったわ。最終的にはもうどこが痛いかも分からなくなってくるの。本当、それくらい痛いのよ。覚えてないけど、初産の時は私も死ぬ死ぬ、いっそ殺してって叫んでたみたいだし。これが拷問なのかってあの時思ったくらいよ」
想像だけで身震いした。命を懸けてでも産むと心に決めてはいたものの、耐えられるだろうか。
「不安?」
未経験なことに覚える感情に肩を竦めると、彼女は私の背中をぱんと叩いた。驚く私に、真向かいの口端がにっと上がる。
「大丈夫、案ずるより産むが易しよ。産んじゃいなさい、ぽーんと」
「ぽーんと?」
「そう!ぽーんと!」
言うように、すぽんと生まれてくれるならばいいのに。
「最後は気持ち良いくらいすっきりするの。全部出たーって感じ!」
はあ、と間抜けな返事をしてしまう。
「安心なさいな、明日明後日だったらこの私が手伝ってあげる。そしたら百人力よ?」
「本当に。力強いことこの上なしだわ」
相手に釣られてくすくす笑っていたら、奥に控えていたメジットがこちらへやってきた。誰かが来たのだと顔をあげると、庭にセテムを従えた彼がやって来たのが見えた。
「どうしたの?」
「いい加減、中に入ったらどうだ。中でも話せるだろう。身体を冷やしたらどうする」
私がいつ生まれてもおかしくはない状態で外にいるからだろう、彼は妙にそわそわしていた。
「ごめんなさい、今戻ります。外が気持ち良かったの」
入りましょうか、と彼女に促されお腹を抱えて椅子から腰を上げて中へ向かう。
そのままヌビア王妃の来国を歓迎して小さな食事会が催され、冗談を言って笑い合い、そうしている内に空は深い夜の色を落としていった。
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