ひとつしか


I have been ready at your hand,

私は君の手の中にいる


To grant whatever you would crave.

君が望むものすべてを差し出そう


I have both wagered life and land

この命、そして財産をも捧げよう


Your love and good-will for to have.

君の愛が得られるのなら



If you intend thus to disdain,

君が私を軽蔑したら、


It does the more enrapture me,

私はそれに悩まされることだろう


And even so, I still remain

それでも尚、私は変わらず


A lover in captivity.

君の虜だ──



 闇に吐き出したグリーンスリーブスの一節は、音になっているのか、なっていないのか分からないまま途切れて終わった。何気なく口から出てくる詩だが、あまりにも真っ直ぐな内容は自分に合わない。


 何を求め、ここまで来たのか。望みの果てにあったものは何だったのか。

 弘子の憎しみと悲しみが混じったあの表情。メアリーが俺に向けた怯えた目。俺を殺したいと泣いたあの男の涙。どれだけ瞼の裏に張り付いた映像を繰り返しても、それらは何も語りはしない。息苦しさを植え付け、すべてのことに対する意欲を奪っていくだけだった。

 くり抜かれた窓から突っ立ったまま眺める月は、さっき見た時よりも西の方角へと進んでいる気がした。時間の進みが、とても遅く感じる。


「何が残っているのかしらね」


 背後から足音がする。ネフェルティティだとは、振り返らずとも分かっていた。消えてしまえばいいと自暴自棄になっていた俺を、自分の部屋へと引き入れた女。いつの間にか消えたナクトミンが知らせたのかは分からないが、俺の荷物が何故かこの部屋にあった。俺を探していたのだろうか。


「罪を犯して、人を利用して、逃げて、すべてを捧げた人にまで突き放されて。今のあなたに何が残っているのかしら」


 振り返らずに月の銀を仰いでいた。

 何も残っていない。自分の望むものが分からなくなった。あるのは虚無感、それと絶望。あまり感じたくない感情ばかりが雑草のように胸の隅から隅まで生え渡っている。

 視線を月から落とせば、己の腕に細い線の傷があった。弘子につけられたものだ。思っていたより傷は深いようで、血はまだ止まらない。


「王はあなたを必ず殺すわ」


 背後からの声に黙って耳を傾ける。


「王族殺しを王妃の意見で見逃すほど甘い御方ではない。今回逃げることができたのは、あの方自身も弱っていたからに過ぎない」


 あの男の精神は今の俺と同様にぼろぼろだった。あの時の顔は、隠し続け、誰にも見せないような面だったに違いない。あの男も俺と同じような仮面を持っているのだと、首を絞められながら睨み合った時に浴びた涙で痛いほどよく分かった。あの男と俺は変に似ている。似ているというよりも、互いに反発し続ける磁石同士とでも言うべきか。似ているのに真逆なのだ。


「これからどうするつもりなの」


 どうするつもりもなかった。何をしたいとか、何が欲しいとか。そんな願望はどこかへ落としてきてしまったように感じない。ただ、辛かった。


「死ぬ?」


 『死』と言う言葉に自然と首が動き、ネフェルティティをこの目でやっと真面に捉えた。差し出されているものが弘子が持っていたものとよく似た短剣だと分かり、相手の平然とした顔を凝視する。


「己の命を絶ち、自ら罪を償うというものありよ。あなたはそれだけのことをした」


 俺に、死ねと言うのか。俺をここへ連れ込んだ、お前まで。


「勘違いしないで。私がここにいるのは救うためでも慰めるためでもない。この宮殿にあなたを連れてきたのは私。今回の事態には私にも責任がある。そう思ったからよ」


 金槌で頭を打たれた気分だった。

 なるほど、俺に差し伸べられる手などある訳が無かった。この女は最初に俺を軽蔑した人間だ。引き入れてくれたことに孤独ではなかったという安堵を少しでも抱いてしまった自分が愚かだった。裏切られるほどの関係もないのに、勝手に裏切られたような気分になった俺は手を振り上げて短剣を叩き落とした。女の手から弾けるように落ちた剣は床に当たり、目が覚めるような音を生む。


「……生きていたいの?」


 短剣の行方を見届けた彼女は、静かにこちらへ視線を戻して呟いた。言葉が落ちてくるようだった。


 死ねないのだ。こういう状況になって、生命は生きようとするものだという事実が嫌なほど思い知らされる。消えてしまいたいと思っても、生きていたいという矛盾した想いが胸の奥に巣食っていた。

 だが生きて何になるというのか。彼女から目を逸らしてもう一度月を仰ぐが、どこにも答えはない。答えをくれない。


「まだ王妃があなたのもとに戻ってくるような、どうしようもない期待を抱いているの?」

「……違う」


 分かった風に放たれる言葉に、噛みしめた声で返す。


「王妃があなたを受け入れることはもう無い。それはあなたも十分分かってるでしょう」

「黙れ」


 弘子は二度と、俺のもとには戻ってこない。あの男の傍で決して俺を許しはしない。それを知りながら俺はまだ恋焦がれたまま。


「なら何故生きようとするの。生きる意味も無いくせに」

「黙れ!!!」


 相手を振り返って睨みつけた瞬間、涙が散った。そんな俺を前に、彼女は黙ってこちらを見つめ続ける。


「お前に言われる筋合いは無い!古代人のお前なんかに何が……俺は、俺は……っ!!」


 頭を抱え、髪を掻き乱す。言葉は涙に変わった。

 古代へ投げ出されても、弘子が王妃になったと知っても、自分が孤独になったと知っても流れなかった涙が、ここで初めて乾いた頬へと伝って行く。頬に道を作り、顎先に溜まって足元へ落ちていく。

 一滴。また一滴。ぼたぼたと。見っとも無いくらいに止まらなかった。


「全部分かってる!」


 自分が犯した罪を。自分のしたことを。生きている以上に、苦しいことはないということも。死ねばいいのだろうが、死にたくない。生きていたくないのに、死にたくない。彷徨う亡霊のようだ。


「でも止まらない!俺は俺が止められない……!!」


 弘子のために。未来のために。そう思ってネフェルティティが言うように良心を打破し、裏切り、非道なことをしてきた。

 ──だが。


「言葉でも行動でも、俺は弘子を繋げなかった!それでも行き場のない想いが止まらない!」


 諦めて命を絶てば辛いことはないのに行き場の無い想いが止まらない。どんなに酷いことをしようとも俺は彼女を狂おしいほどに愛している。この時代に落とされてから、いつか必ず彼女に会える、分かり合える、共に帰れると信じていたからこそ生きて来られたのだ。彼女に憎まれ、拒絶された今、俺の世界は自転を失い、朝を迎えることはない。叫び、喚くことも出来なくなった俺は、立ち竦んで涙だけを止めどなく落とすしかなくなった。


 ──弘子。俺の、弘子。


 ついには立つことも儘ならくなり、身体は壁に沿うようにしてずり落ちる。ああ、と。小さな呻きとも、悲鳴とも取れる声が口から漏れ、池になるほどの涙が流れていく。月も見えなった闇に伏した。


「悲しい人」


 頬の涙の足跡を、女の指が走る。顔を少し上げ先に、俺の前に屈んだ彼女がいた。


「あなたは、大切な人を守る術をたったひとつしか見出せなかった悲しい人だわ」


 指先から、ぬくもりが灯る。久々に感じた暖かさに肌が震えた。短剣を差し出した時とは違う、俺を呼んだ時と同じ、憐みの眼差しがある。


「人はもろい……感情に振り回されて真実に直面して砕け散る。あなたは砕け散った欠片ね。生きていても死んでいると同じなのよ」


 何を言われているのか、理解する余裕もなかった。唯一感じているのは、気持ち悪いくらい生温い水滴が、いくつもいくつも目元から流れていくこと。それを女の指が拭ってくれること。肌に触れる暖かさに縋るように俺は黄金をはめた細い腕を掴んだ。これを離したくはない。強くそう思って。

 痛みに、彼女の顔が若干歪む。


「ヨシ……」


 名を呼ばれるや否や、力任せに彼女を床に組み引いた。波打つ茶色がかった長い黒髪。驚愕に見開かれた美しい目元に、俺の頬に残った孤独の雨が数滴鼻先に伝って零れる。何も言葉を交わさず、見つめ合う。相手は俺の真意を探るように、こちらは食い入るように。その間も掴んだ手に力を籠め続けた。

 欲しかった。この手に感じるぬくもりとの繋がりが。弘子以外のものを俺は初めて欲していた。

 しばらくして、俺の髪を分けるように撫でる手があった。向かいには獣を手懐けるような冷めた瞳が俺を映している。


「……生きたいと願うのなら、」


 艶めかしい手つきに誘われて、互いの顔が近づく。流れを止めた涙は、相手に向かって落ちることは無かった。


「その憂いを持ち続ける道を選ぶと言うのなら、私の中に身を潜めなさい」


 背に回された手に引かれ、俺の頭は彼女の首筋に埋められる。柔らかさの中に葬られる。


「あなたを消せるのは、私だけ」


 耳元に囁きかけられる、掠れた闇に沈む言葉。

 縋った。手を伸ばして掻き抱いき、腕を広げてくれた存在に俺は縋った。獣のように噛み付き、子供のように彼女の肌にしがみ付いた。脳裏をかすめていくのは憎しみに歪んだ弘子の顔。それを振り払おうと我武者羅に抱いている内に、ある真実に辿りつく。

 俺が自分の首を絞める決断の奥で、望み続けていたのは。本当に求め続けたのは。弘子の手。人のぬくもり。

 たったひとつ、差し出してくれる暖かさだったのだと。

 それを泣き叫んでしまいたいほどに思い知りながら、美女の身体に口付けて、俺は夜に沈んだ。


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